清川 栄治(きよかわ えいじ、1961年9月21日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手(投手)。現役引退後のからは、広島東洋カープ・オリックス・バファローズ、日立製作所で投手コーチを歴任。より、埼玉西武ライオンズで投手コーチを務める。京都府京都市上京区出身。少年時代から体が小さく、小学校、中学校で整列するときはいつも前から2番目だった。小学6年から投手を始めたが、小さいときに父を病気で亡くしており、甲子園を目指すなら、京都府では学費の高い私立学校へ進学するしかないことから、中学時代から6年間一日も欠かさず朝夕の新聞配達をして家計を助け、自宅裏にあった京都商業高等学校(現:京都学園高等学校)へ進学した。高校2年時に第60回全国高等学校野球選手権大会の2回戦でリリーフのマウンドを踏み、高校3年時はエースとして地区予選で完封もしたが準々決勝で敗退した。大阪商業大学へ進学し、大学1年春から即戦力となり、関西六大学リーグでは通算49試合に登板し24勝(当時のリーグ最多勝利記録)8敗、防御率1.91、ベストナイン1回受賞。大学4年時に調子を崩したことと、同期の川原新治が77イニング無失点の新記録を出してスカウトの目を奪ったこともあり、ドラフトの指名にはかからなかった。どうしてもプロへの気持ちを捨てきれず、のドラフト外で広島東洋カープに入団。しかし、当時の錚々たる投手陣の中、一軍に残るためには、上手投げからサイドスローへ転向して左打者を完璧に封じることが、唯一の活路だと思うようになる。自称「本格派の投手」というように、奪三振数が投球イニング数を上回っている。投手王国といわれた当時の広島において、アンダー気味の変則サイドスローからの緩急を付けたピッチングを武器に中継ぎ投手(主にワンポイントリリーフ)として活躍。には29人連続で出塁を許さなかった。また、登板106試合目にして初勝利を手にしたという珍しい記録も持つ。初勝利の感想は、「とうとう勝ってしまった」。なお、実際にはもっと早く初勝利を挙げるチャンスがあったが、その時津田恒実がリリーフに失敗して清川の勝ち星を消してしまった。津田はこの日の試合後、合宿所の清川の部屋に何度も謝りに来たという。広島時代、先発を言い渡された試合があったが、その試合が雨で中止になり、以降先発での登板はなかった。また、初登板から114試合連続敗戦なしの日本プロ野球記録を保持していた(後に桟原将司が更新。初登板からの限定なしでは高木晃次が更新)。シーズン途中に野林大樹との交換トレード(清川⇔野林プラス金銭)で近鉄バファローズに移籍し、ここでも貴重な左のリリーフとして投手陣を支えた。1997年に438試合連続救援登板を記録し、当時日本プロ野球記録となった(後に橋本武広、藤田宗一が更新)。に広島に復帰し、同年に現役を引退した。1球投げただけでヒーローインタビューを受けたことがある。1死満塁のピンチで登板し、初球を打たせてセカンドゴロ併殺打の火消しだった。引退後は、広島で二軍投手コーチ(・ - )、一軍投手コーチ(・)を歴任。よりオリックスの二軍投手コーチに就任。背番号は「70」。これは仰木彬(からまでの2年間、仰木のもとでプレーした)がオリックス・バファローズ初代監督を務めた時に着けた背番号である。仰木と同じ背番号を選んだ理由として「同じ背番号を背負い、指導者として一歩でも仰木さんに近づきたい」と語っている。また、近鉄時代の監督で監督時代に背番号「70」を着けていた鈴木啓示の心も継承しているの事シーズン途中まで務めていたが、テリー・コリンズの監督辞任に伴いマイク・ブラウン一軍投手チーフコーチが辞任した為、一軍投手コーチに昇格しシーズン終了まで務めた。からは一軍投手コーチ(ブルペン)を担当していたが投手陣の不調の為、同年6月9日に一軍投手コーチ(ベンチ)に配置転換され、同年6月19日からは二軍投手コーチに降格した佐々木修の後任として一軍投手チーフコーチに昇格しシーズン終了後まで務めた。からは一軍投手コーチ(ブルペン)を務め、からまで二軍投手コーチを務める。指導者としては、広島・オリックスコーチ就任後は伸び悩んでいる投手達をサイドスローに転向させ、林昌樹・小山田保裕・清水章夫は成功したが、吉年滝徳・苫米地鉄人は失敗に終わり引退した。は社会人野球・日立製作所硬式野球部の投手コーチに就任、その一方で野球解説者に転身。J SPORTS・FOX SPORTS ジャパンのプロ野球中継で、主に広島戦を担当した。からは埼玉西武ライオンズ一軍投手コーチに就任した。背番号は91。シーズン当初はベンチ担当だったが、5月27日に本部長の鈴木葉留彦によりブルペンに配置転換されることが発表された。からは二軍投手コーチ。現在ではセットアッパーや最多ホールドなど中継ぎ投手も脚光を浴びているが、当時は江夏豊らの活躍で抑え投手は目立っていたが中継ぎ投手はまだ影が薄かった。激務の割に給料が上がらないと悩んだ清川は、毎年年俸交渉の際に球団が差し出す、全登板試合の事細かい査定表以上に細かい記録を自分で付けて出し交渉に望んだ。その一例が『週刊ベースボール』の「記録の手帳」で紹介されていたインヘリテッド率と呼ばれるもので、自分の投球で本塁に返した走者の数を、前の投手が残した走者の数で割ったものであった。これを見せられた球団社長の前田泰男が興味を示し、球団が譲歩して年俸アップを勝ち取った。後に発売された漫画『グラゼニ』の主人公・凡田夏之介には、同じ中継ぎ左腕で給料に関するエピソードなど共通点が多く親近感を覚えたという。
出典:wikipedia
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