ジュディ・ガーランド(Judy Garland、1922年6月10日 - 1969年6月22日)は、アメリカ合衆国の女優、歌手。女優のライザ・ミネリは、2度目の夫、ヴィンセント・ミネリとの子。同じく女優のローナ・ラフト()は、3度目の夫であるシドニー・ラフト()との子。1969年に睡眠薬の過剰服用により死亡した。ミネソタ州出身。本名はフランシス・エセル・ガム("Frances Ethel Gumm")。父親がボードビリアン、母親がピアニストの家庭で3人姉妹の末っ子として生まれる。芸名の「ジュディ」は彼女が好きだった歌のタイトルから、「ガーランド」はあるボードビリアンが彼女たち姉妹を評して「ガーランド(花輪)のようだ」と言ったことから付けたと言われている。1929年、2人の姉と共にガム・シスターズの一人としてデビュー。1935年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と専属契約。契約時、ディアナ・ダービンかジュディかどちらか一方と契約を結ぶことになっていた。社長のルイス・メイヤーはディアナと契約しろという意味で「デブの方(ジュディ)を追い出せ」とプロデューサーのアーサー・フリードに命じた。ところが、セックスをした相手に役や契約を回す「キャスティング・カウチ」で悪名高かったフリードは、当時13歳のジュディと性的関係をもっていたため、間違ったふりをして、ディアナではなくジュディと契約を結んだ。契約後、MGMはかなり肥満気味の13歳のジュディに極度のダイエットを命じた。契約内容に「スリムでいること」が含まれていた。体質的に太りやすかった彼女は13歳にしてダイエット用の薬として覚醒剤(アンフェタミン)を常用するようになる。『オズの魔法使』を含む、すべてのMGMミュージカルでジュディは元気一杯で歌い踊っているように見えるが、ビリー・ホリデイがアヘンやコカインで、ジャニス・ジョプリンがヘロインで陶酔して歌っているのと同様に、実は覚醒剤の使用により「ハイ」の状態で歌っていた。1939年にミュージカル映画『オズの魔法使』で、大ブレイクする。当初、MGMの映画『オズの魔法使』のドロシー役は、20世紀FOX社所属の人気子役だったシャーリー・テンプルが演じるはずだった。非公式にMGMがカメラテストを行い、シャーリーが衣装をつけて主題歌を歌ったところ素晴らしく、ルイス・メイヤー社長はシャーリー以外にこの役を演じられる者はないとし、1937年に20世紀フォックスのシャーリー・テンプル一人に対して、MGMがクラーク・ゲーブルとジーン・ハーロウの2人を交換し貸し出す条件で一旦は決まった。しかし、ハーロウが急死し、MGM側に代わりに出せる大スターがおらず、条件面で折り合いがつかず話は流れてしまった。そこで、代役としてジュディが急遽演じることになった 。結果『オズの魔法使』はジュディの才能を大々的に世に知らしめるものとなった。この役で(Academy Juvenile Award)を受賞する。一方で余りにも人気が出たため、彼女のスケジュールは過密となってしまい、この映画の公開直後から覚醒剤(アンフェタミン)に加えて睡眠薬(セコナル)を常用するようになる。当時は睡眠薬も覚醒剤も害が十分に分かっておらず、ドラッグの類はハリウッドスターを休みなく働かせるための必需品として推奨すらされており、MGMはセコナルとアンフェタミンをジュディに服用するよう勧めていた。それ以降、仕事面ではミッキー・ルーニーとコンビを組んだ裏庭ミュージカルシリーズ、『若草の頃』、『ハーヴェイ・ガールズ』、フレッド・アステアと共演した『イースター・パレード』といったMGM映画の大作に次々と主演するようになり、全盛期を迎える。この間、マネー・メイキング・スターのランキングで、1940年10位、1941年10位、1945年8位という偉業を成し遂げている。一見清純で明るく健康そうな表面的なイメージとは裏腹に、1940年代初頭から神経症と薬物中毒が少しずつ確実に表面化していった。性生活に奔放だった彼女はしかし、1941年に作曲家のデヴィッド・ローズと結婚した。MGM側はこれを宣伝を兼ねた一大イベントに仕立て上げようとしたが、二人はそれを忌避して電撃的にかつひっそりと結婚式を挙げた。だが、性の不一致から1943年に離婚。この間、1942年に妊娠するが、MGMから次回作『フォー・ミイ・フォー ・マイ・ギャル』の撮影に差し障りがあるとされ、当時カリフォルニア州では違法の堕胎手術を受けている。やがて1940年代の後半のある時期からは、神経症と薬物中毒による精神の不安定が仕事にも深刻な影響を与えるようになり、スタジオへの遅刻や出勤拒否を繰り返すようになる。1947年に『踊る海賊』(翌年公開)の撮影があったが、130日余の撮影中に36日しか姿を見せず、撮影後にジュディ自身が「私の最初の精神病院入院」と呼ぶサナトリウムへの長期入院を余儀なくされ、また、自殺未遂事件を起こす。以降、度々薬物治療の入退院を繰り返すこととなる。1945年、映画監督のヴィンセント・ミネリと結婚、翌1946年3月に娘でのちに女優および歌手となるライザ・ミネリを出産。ライザは2歳時の1949年に、映画『Good Old Summertime』でデビューしている。1949年に映画『アニーよ銃をとれ』の撮影中に明白な精神異常状態になったジュディはアニー役から下ろされ、また同年に計画されていた『ブロードウェイのバークレー夫妻』でも撮影をすっぽかすなどしたため主役を降ろされた。同作でジュディの代役として起用されたのが、同作の主演のフレッド・アステアとかつてRKOでコンビを組んでいたジンジャー・ロジャースである。これに気を悪くしたジュディは、完全なメイクと衣装でスタジオに乗り込んで、当たり前のような顔をしてリハーサルに挑むことで結果として撮影を妨害した。1950年公開の『Summer Stock』(日本では劇場未公開)の撮影時1949年、以前と比較して20ポンドも太り、撮影をまたも振り回した。結果的にダイエットを成功させたが、次回作が頓挫したことを契機として、業を煮やしたMGMを解雇されることとなる。ショックを受けた彼女は再び自殺未遂事件を起こし、翌1950年にヴィンセント・ミネリと離婚。1952年にシドニー・ラフトと3度目の結婚をし、彼や友人のビング・クロスビーたちの勧めに従ってハリウッドを離れ、ロンドンやニューヨークでのコンサートに拠点を移し、歌手としての活動を行う。これが成功し、ジャズ歌手としてのジュディの歌唱力は人々に再認識された。1954年には再び銀幕に復帰した。当時の夫であるシドニー・ラフトは彼女のために企画会社を立ち上げ、MGM社に対抗心を持つワーナー・ブラザーズ社の下で撮影された『スタア誕生』でアカデミー主演女優賞にノミネートされる。しかしワーナー・ブラザーズ社は、彼女の『スタア誕生』撮影期間の遅刻や出勤拒否、それに伴う制作費の膨張に怒りを露わにしていた。ワーナー側は彼女の受賞のための宣伝や根回しを一切行わず、また、アカデミー発表前に「彼女ではもう二度と映画は撮らない」と発表した。結局、主演女優賞は『喝采』のグレース・ケリーが受賞し、ジュディの受賞はならなかった。サミー・デイヴィスJr.は自伝の中で「何故あの時ジュディが敗れたのか、どうしてもわからなかった。誰かが彼女を罰しようとしたのだ」と記している。受賞を逃した失意により、彼女の私生活は再び荒れはじめ、数度の自殺未遂を起こす。銀幕からも去り、コンサートやショウの分野で活動するようになる。1961年、彼女は7年ぶりに銀幕に復活。『ニュールンベルグ裁判』でバート・ランカスターやマレーネ・ディートリヒと共演し衰えない演技力を見せた。この作品でアカデミー助演女優賞にノミネートされた。また、同年行ったカーネギー・ホールでのコンサートを収録したライブ・アルバムはグラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、ジュディ自身も最優秀女性歌唱賞を受賞する。だがその後、薬物中毒と神経症はさらに悪化。逮捕されることはなかったものの、FBIはジュディを監視していた。後に、情報公開法により膨大なFBIの監視記録が公表されている。1963年を最後に銀幕から姿を消した。1964年5月に滞在先の香港で発作を起こし一時重体となったが持ち直した。渡英しビートルズのマネジャーのブライアン・エプスタインと親しくなる。彼の自宅の屋上で開催されたビートルズらが出席したパーティーに招待される。1965年にはシドニー・ラフトとも離婚。その後、2度結婚、結果として生涯に5回結婚した。5人目の夫とは、1969年3月に結婚している。1969年6月22日に滞在先のロンドンで、睡眠薬の過剰摂取にてバスルームで死去。自殺と考えられる。47歳。『オズの魔法使』でカカシを演じたレイ・ボルジャーは彼女の死に対して「もう彼女は疲れてしまったのだ」とコメントし、2度目の夫ヴィンセント・ミネリとの間に生まれた長女のライザ・ミネリは、「母はハリウッドが大嫌いだった」「母を殺したのはハリウッドだ」と発言し、ハリウッドではなくニューヨークで葬儀を執り行い、ニューヨーク郊外の墓地にジュディを埋葬した。ライザもまた、1970年代から1980年代にかけてアルコール依存症および薬物中毒になっている。彼女は莫大な収入を浪費してしまっており、400万ドルの借金だけが残り、埋葬の費用にも事欠いた。ジュディを知る関係者で彼女の死に驚くものは一人もおらず、むしろ「予想より長くもったな」というのが大方の感想だったという。没年齢は47歳だが、長年にわたる薬物・アルコール中毒と荒淫の結果、遺体は老人のような有様だった。葬儀の時に出席者の間で、「ジュディは今回だけは遅刻をしなかったな」といういささか不謹慎なジョークが囁かれたという。20世紀前半の、アメリカのポピュラー音楽の歴史は、黒人音楽を白人が受容していく歴史といえる。当時の大物白人男性歌手で黒人的な発声を最初に大幅に取り入れたのは、アル・ジョルソンとエディ・カンターであり、ジュディ・ガーランドは、最初に大幅にシャウト等の黒人的な発声を取り入れた白人女性のミュージカル・スターである。生前、ジュディ・ガーランドは、しばしば「女アル・ジョルソン」と呼ばれたが、故のないことではなかった。彼女の一生は、女性ジャズ歌手のビリー・ホリデイや女性ロック歌手のジャニス・ジョプリンのように、麻薬を含むさまざまな薬物と奔放なセックスに彩られた破滅型のものだったが、ビリー・ホリデイやジャニス・ジョプリンの場合と同様に、生き急いだことが彼女の魅力の一部になっている。アメリカ合衆国郵政公社(US Postal Service)は、過去に彼女をデザインした記念切手を発売しており、1990年3月23日に発行されたアメリカクラシック映画切手の4種のうち1種には、オズの魔法使いでドロシー役に扮したものが描かれている。もう一つは2006年6月10日に俳優シリーズとしてジュディの肖像画切手が発行されている。ジュディは性体験が豊富であり、MGM時代プロデューサー全員と性的関係を結んでいた。またあらゆるタイプの性体験を楽しんでいた。彼女の伝記作家のデイヴィッド・シップマンによれば、ジュディは最初の夫で作曲家のデヴィッド・ローズに「ある種のセックスをするよう求め」たところ、夫が「そんな変態的なことをするなんて…」とショックをうけ、それが離婚の原因になったとのことである。また、同性愛に対しても全くこだわりがなかった。ジュディは同性愛者に対して理解を示していた数少ない有名人の一人であり、彼らのアイドル的な存在でもあった。ジュディは、バイセクシュアルだった。なお、彼女の父親もそうだったとされる。彼女のレズビアンの相手の中には、児童書『エロイーズ』シリーズ(井上荒野の和訳あり)の著者ケイ・トンプソンが含まれる。ちなみに、二度目の夫ヴィンセント・ミネリ(ライザ・ミネリの父親)も両性愛者だった。そのために、彼女の死のニュースは同性愛者のコミュニティに大きな悲痛をもたらした。史上初のゲイの暴動であるストーンウォールの反乱の原因の一つは、彼女の死によるコミュニテイ内でのショックが影響していたとも言われている。彼女の葬儀は暴動の前日、現場近くの教会で行われた。同性愛者の隠語で「ドロシー(=ジュディ)のお友達」とは同性愛者を指し、同性愛解放運動の場では必ずと言っていいほど「虹の彼方に」の曲がかかる。また、「虹の彼方に」にちなみ「レインボー・フラッグ」(虹の6色)は同運動の象徴とされている。
出典:wikipedia
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