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柳宗悦

柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年(明治22年)3月21日 - 1961年(昭和36年)5月3日)は、民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者。名前はしばしばそうえつと有職読みされ、欧文においても"Soetsu"と表記される。東京府(現:東京都)において、海軍少将柳楢悦の三男として生まれた。旧制学習院高等科を経て東京帝國大学卒業。専攻はウィリアム・ブレイクやウォルト・ホイットマン等の英語圏の宗教哲学であった。嘉納治五郎は母勝子の弟であり、1911年(明治44年)に治五郎が千葉県の我孫子(現在の我孫子市)に別荘を構えると宗悦も招かれここに住んだ。さらに志賀直哉らを呼び、我孫子に文人らが集結し白樺派文学が進展するきっかけをつくった。旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民藝運動を起こした。1936年(昭和11年)、東京府東京市目黒区駒場(現:東京都目黒区)に日本民藝館を設立。戦前、北海道、東北、沖縄、台湾などの工芸の紹介に尽力した。1957年(昭和32年)、文化功労者。晩年はリウマチや心臓発作との闘病を余儀なくされたが、なおも執筆活動を続けた。1961年(昭和36年)春に脳出血により、日本民藝館で倒れ数日後逝去した。1914年(大正3年)、中島兼子と結婚、兼子は近代日本を代表するアルトの声楽家だった。インダストリアルデザイナーの柳宗理は長男、美術史家の柳宗玄は二男、園芸家の柳宗民は三男。甥に染織家の柳悦孝、美術史家の石丸重治、法学者の今村成和がいる。1916年(大正5年)、朝鮮を訪問した際に朝鮮文化に魅了された柳は、1919年(大正8年)3月1日に朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。当時、ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。1924年(大正13年)、京城(現ソウル)に朝鮮民族美術館を設立した。朝鮮民画など朝鮮半島の美術文化にも深い理解を寄せ、京城において道路拡張のため李氏朝鮮時代の旧王宮である景福宮光化門が取り壊されそうになると、これに反対抗議する評論『失はれんとする一朝鮮建築のために』を、雑誌『改造』に寄稿した。これが多大な反響を呼び、光化門は移築保存された。1922年(大正11年)、『朝鮮とその藝術』(叢文閣)と、『朝鮮の美術』(私家版・和装本)を、他に編著で『今も続く朝鮮の工藝』(日本民藝協会編、限定版 1930年、1947年)を出版した。『選集 第4巻 朝鮮とその藝術』(春秋社、1954年)や、集大成で『全集 第6巻 朝鮮とその藝術』(全57篇、筑摩書房、1981年)がある。※但し全書目品切・絶版※以下は「品切もしくは絶版」復刻版

出典:wikipedia

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