条約改正(じょうやくかいせい、)とは、江戸時代末期の安政年間から明治初年にかけて日本と欧米諸国との間で結ばれた不平等条約を対等なものに改正すること。また、そのためにおこなった明治政府の外交交渉の経過とその成果をさす。西ヨーロッパ諸国は、18世紀から19世紀にかけて西欧内の主権国家間の政治的・経済的な摩擦や対立を回避するため、互いに外交使節を派遣し、国家主権の独立や主権対等などを原則とする友好通商条約を結び、アメリカ合衆国の独立後はそれを新大陸にも押しひろげた。19世紀に入って、西欧各国が社会的状況や文化・伝統の異なるトルコ帝国やペルシア、中国、シャム、日本などアジアの国々との接触を深めると、武力を背景にしてこれらの国々に強制的に「開国」を認めさせ、みずからの条約システムに編入していった。その場合、その国に住む欧米人が犯罪を犯したとき条約相手国の国法に服さずともよいこととし、外交官ではあっても本来は裁判官ではない領事や領事館職員が本国の法によって裁判することを可とした。また、相互に貿易される商品の関税を当該国が自由に決定する権利を認めず、すべて外交交渉の結果むすばれた協定によることとし、さらに、西欧のある国が当該国との条約で得た権利は、自動的に他の欧米の国にも適用されてその恩恵が均霑されるという規定(片務的最恵国待遇)が設けられることが多く、これらの点でいずれも不平等な性格をもつものであった(不平等条約)。なお、以上のうち、関税に関しては強者による弱者の収奪以外の何物でもなかったが、領事裁判権については、少なくとも先進国側の論理からすれば彼我の風俗・習慣の違い、法律・刑罰・裁判の内容やそれらに対する考え方・姿勢の相違、また、監獄内の生活環境や治安状態の低劣さなどから居留民を保護するために必要と主張されるものであった。江戸幕府が安政5年(1858年)にアメリカ合衆国、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと結んだ通商条約(安政五カ国条約)は、などの諸点で日本側に不利な不平等条約であった。2.については、特に慶応2年(1866年)、列強が弱体化した幕府に圧力をかけて結ばせた改税約書の調印以降は、それまでの従価税から従量税方式に改められ、関税率5パーセントの低率に固定された状態となったため、安価な外国商品が大量に日本市場に流入して貿易不均衡を生んだ。1878年(明治11年)、駐英公使の上野景範がイギリス政府に指摘したところによれば、日本の関税は一律5パーセントであるのに対し、「自由貿易の旗手」を自任し、欧米諸国のなかで最も関税が低く抑えられているはずのイギリスでさえ、その対日輸入関税率は、無税品を含めても平均10パーセントを超えていた。その結果、日本の歳入に占める関税収入はわずか4パーセントにとどまったのに対し、イギリスのそれは26パーセントにおよんだ。また、明治時代の法学者で政治家でもある小野梓の推計によれば、各国の歳入の中心にしめる関税額の比率は、イギリス22.1パーセント、アメリカ53,7パーセント、ドイツ55.5パーセントであるのに対し、日本は3.1パーセントにすぎなかった。さらに、明治・大正期に政治家・ジャーナリストとして活躍した島田三郎によれば、日本は一律5パーセントの関税を外国なみの11パーセントに引き上げることができれば、醤油税(年120万円の国家歳入)、車税(同64万円)、菓子税(同62万円)、売薬税(同45万円)など、主として農民がその大部分を負担した重い間接税を全廃できたという。日本は、国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の法律の外にありながら日本の貿易を左右することができたのであり、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要としたのであった。財政難の政府は輸出品にも関税をかけたので、国内産業の発展にも大きなブレーキがかかった。日本は、関税自主権を有しないところから生じる損失を、のちに朝鮮(日清戦争後は清国も)との不平等条約の締結やダンピング輸出で回収しようとした。外国人居留地は、安政条約で開港場とされた5港(箱館、横浜、長崎、新潟、神戸)および開市場となった2市(江戸の築地、大坂の川口)に設けられ、幕府(のち政府)当局と外国の公使・領事の協議によって地域選定や拡張がなされ、日本側の負担で整地し、道路・水道などの公共財を整備することとなっていた。居留地では、領事裁判権が認められ、外国人を日本の国内法で裁くことができず、また、日本人が居留地に入るには幕府(政府)の官吏でも通行印が必要であった。その一方、外国人も行動範囲が「遊歩規定」によって制限されており、一般の外国人が日本国内を自由に旅行することは禁止され、外国人が遊歩区域(居留地外で外国人が自由に行動できた区域)のさらに外に出るには、学問研究目的や療養目的に限られ、その場合も内地旅行免状が必要であった。居留地の外国人が居留地外で商取引をすることは禁じられていたが、その国の領事等を通じて日本当局から土地を借り受け、一定の借地料(地税)を支払うこととなっていた。この借地権は永代借地権と称し、永久の権利とされ、他者に売買したり譲渡することが可能であった。不平等条約の締結は、金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなり(幕末の通貨問題)、尊皇攘夷運動の激化とそれにつづく討幕運動を招いたが、実際のところ幕末期にあって問題視されたのは不平等性そのものというよりは、むしろ日米修好通商条約をはじめとする五カ国条約が朝廷の許しを得ない無勅許条約だった点にあった(これは江戸幕府はその成立期に禁中並公家諸法度により朝廷を統制し政治権力を剥奪しており、単独で条約を締結しても問題がなかったにもかかわらず、幕末に至って幕府の権威が揺らいでいたことから条約締結の正当性を担保するため、朝廷の承認を求めたところ、案に相違して朝廷から拒否されたこと、その事実を反幕府勢力に利用され、喧伝されたことに端を発する)。慶応3年(1867年)の大政奉還と王政復古の大号令によって江戸幕府が倒れ、薩摩藩・長州藩など西南雄藩の下級武士や倒幕派公家などを中心に明治新政府が成立した(明治維新)。慶応4年1月15日(1868年2月8日)、列国公使に「王政復古」と「開国和親」を伝えた新政府は、幕府から外交権を引き継ぎ、詔勅をもって「これまで幕府が諸外国と取り結んだ条約のなかには弊害の無視できないものもあるので改正したい」旨の声明を発した。戊辰戦争のさなかの3月14日、新政府は明治天皇が神々に誓うかたちで五箇条の誓文を明らかにし、公議輿論の尊重と開国和親の方針を宣言した。戊辰戦争が新政府優勢の戦況で推移し、日本の正統な政権であることがしだいに諸外国に認められるようになると、新政府は、明治元年12月23日(1869年2月4日)に諸外国に対し、旧幕府の結んだ条約は勅許を得ずに締結したものであることを改めて指摘し、将来的な条約改正の必要性について通知した。いっぽう、明治2年正月に北ドイツ連邦とむすんだ条約では、安政条約にない沿岸貿易の特権を新たにドイツにあたえ、同2年9月14日(1869年10月18日)、オーストリア・ハンガリー帝国を相手に結んだ日墺修好通商航海条約では、それまで各国との条約で日本があたえた利益・特権をすべて詳細かつ明確に規定し、従来解釈揺れのあった条項はすべて列強側に有利に解釈し直された。この条約では、領事裁判権について、従来の条約以上に日本側に不利な内容が規定に盛りこまれたが、これらは、いずれも五カ国条約中の片務的最恵国待遇の規定によって他の欧米列強にも自動的に適用された。以来、不平等条約の集大成ともいえる日墺修好通商航海条約が条約問題交渉の際の標準条約とされた。これは、条約改正の観点からみればむしろ日本側の後退を意味していた。条約改正の概略をまとめると下表のようになる。以下、主として外交担当者ごとに節を設け、それぞれの条約改正交渉の中身や経緯、その結果について詳述する。明治4年7月(1871年9月)、日本側全権伊達宗城、清国側全権李鴻章の間に結ばれた日清修好条規は対等条約であったが、制限的な領事裁判権を相互に認める規定などを含み日清両国がそれぞれ欧米列強と結んだ不平等条約を互いに承認しあう性格にとどまっていた。政府は明治4年11月(1871年12月)、右大臣岩倉具視を全権大使、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳を副使とする遣外使節団を米欧に派遣し、相手国の元首に国書を捧呈して聘問(訪問)の礼を修めさせ、海外文明の情況を視察させた。安政の諸条約は明治5年5月26日(1872年7月1日)が協議改定期限となっており、使節団は、その条約改正に関する予備交渉と欧米の文物・諸制度の視察とを目的としていた。当初、大使一行の渡米の目的は、ユリシーズ・グラントアメリカ合衆国大統領に謁見し、アメリカ国務省でハミルトン・フィッシュ国務長官と会見して、万国公法(国際法)にもとづく国内法が日本で整備されるまで条約改正交渉開始の延期を要望し、その意向を打診することにあった。当時の日本はまだ廃藩置県を終えたばかりであり、国内体制が十分に整わないうちに改正交渉に臨めば結果的に従前より不利な方向での改訂が進められる可能性も考えられたためであった。また、予備交渉の機会をむしろ活用して、将来の条約改正を念頭におき、政府首脳が外国の諸法制・諸機構についての知見を深めるねらいもあった。ところが、チャールズ・デロング駐日アメリカ公使と駐米日本代表の森有礼代理公使は、合衆国に来てから勢いづいている副使の伊藤博文に対して、条約改正の本交渉に入ることを進言、伊藤もその旨を大使岩倉具視に提案した。デロングは、西部出身の弁護士で、アメリカの中央政界に打って出る機会をうかがっており、駐日英国公使のハリー・パークスとは対日外交上のライバル関係にあった。開化論者であった森は26歳ながら、その率直で積極的な性格によりフィッシュ国務長官にかわいがられ、その知遇もあってワシントンの有力者からの評判もよかったが、外交経験には乏しかった。伊藤は、米国滞在中、ユタ州ソルトレイクシティにおいて条約改正交渉についての意見書をまとめて大使・副使に示して意思統一を図るなど、意欲的であった。伊藤の提案を聞いた岩倉、大久保利通、木戸孝允らは、本交渉をすすめれば案外うまくいくかもしれないと考えた。もしかしたら、合衆国においては改正調印まで一挙に持ち込めるのではないかと期待したのである。サンフランシスコからワシントンまでの合衆国のいたる所で、朝野にわたって大歓迎を受けて、いささか甘い見通しに傾いた使節団は、フィッシュ国務長官に本交渉の開始を申し出た。しかし、フィッシュは交渉に入るには明治天皇からの委任状がどうしても必要であると答え、使節団一行は、全権大使であることを強調しても頑然と委任状の必要性を訴えたので、大久保と伊藤はやむなく委任状を発行してもらうため急遽東京に立ち戻った。2人は渋る留守政府にかけあい委任状を求めたが、体面上ようやく発行された委任状には使用不可の条件がつけられた。一方、アメリカに残留した岩倉と木戸に対しては、駐日ドイツ公使のマックス・フォン・ブラントと駐日イギリス代理公使のフランシス・アダムズが片務的最恵国待遇の規定などを持ち出して日米単独交渉を論難した。さらに、英国留学中の尾崎三良は、わざわざアメリカに赴いて岩倉や木戸に条約改正の危険性について意見具申をおこなっている。アメリカとの交渉でも内地雑居や日本の輸出税撤廃を求められた。こうしてアメリカとの本交渉は中止となり、使節団が以後訪れたヨーロッパ諸国との間でも具体的交渉はなされなかった。ただし、一行がイギリスに滞在しているとき、このころ条約改正に一定の進展がみられたといわれるオスマン帝国に対しては一等書記官福地源一郎を派遣し、同国の裁判制度などを研究させており、これには僧侶島地黙雷が同行した。岩倉一行は欧米近代国家の政治や産業の発展状況を視察したのち明治6年(1873年)9月に帰国した。帰国後の会議では、留守政府の首脳であった西郷隆盛や板垣退助らが朝鮮の開国問題解決のためには武力行使もあえて辞さないという強硬論(征韓論)を唱えたのに対し、海外事情を実見した大久保や木戸らは内治優先論を唱えて反対、征韓論は否決された。そのため、西郷・板垣・江藤新平・副島種臣ら征韓派の参議がそろって辞職し、いっせいに下野している(明治六年政変)。以上、岩倉使節団の交渉は不首尾に終わったものの、この前後には、明治政府は旧幕府がアメリカに与えた江戸・横浜間の鉄道敷設権、プロイセン(北ドイツ連邦)に与えた北海道亀田郡七恵村(現在の渡島総合振興局七飯町)約300万坪の99年間の租借権、また、長崎県高島炭坑の鉱山利権の回収には成功しており、1875年(明治8年)1月には英仏両国軍側から横浜駐屯軍撤退を申し出ている。1875年(明治8年)11月、外務卿の寺島宗則は、条約改正交渉開始を太政大臣であった三条実美に上申し、1876年(明治9年)には交渉を開始して外国からの輸入を減らすことを主目的として関税自主権回復を目指した。これは、大蔵省租税頭の松方正義による強い要望もあって、税権回復によって西南戦争後の財政難を解消する一方、殖産興業を推進し、国内産業の保護を通じて政府の歳入増加を図る見地から特に優先すべき課題とみられたからであった。同じころ地租改正反対一揆も各地で頻発しており、歳入に占める地租依存度を軽減することは、緊急の課題だったのである。一方の法権、すなわち領事裁判権の方は、各国がこれに応じることなく、逆にエジプトのムハンマド・アリー朝におけるような混合裁判制度を採用することを示唆したため、政府が同制度を調べた結果、改訂によって特に日本の利益となることはないとして、これを断念した。なお、この年、朝鮮とのあいだに日朝修好条規が結ばれているが、これは日本側に有利で朝鮮に不利な内容の不平等条約であった。1876年以降、寺島外務卿は、アメリカ合衆国、イギリス、ロシア帝国の対日政策の歩調に乱れが生じた間隙を捉え、税権の回復ならば応じる用意があるというアメリカを相手に単独交渉した。この時期のアメリカは、欧州諸国の帝国主義外交とは一定の距離を置いており、東アジア・太平洋地域におけるヨーロッパ優位の情勢を牽制する意図もあって、英仏両国よりも日本に対し好意的であった。1873年(明治6年)に結ばれた日米郵便条約などは、日本にとっては欧米諸国と結んだ最初の対等条約であった。改正事業を実効性あるものとするために、アメリカとばかりではなくヨーロッパ諸国との交渉も同時進行で進める必要を感じた寺島は、1878年(明治11年)2月9日、イギリス公使上野景範、フランス公使鮫島尚信、ドイツ公使青木周蔵、ロシア公使榎本武揚に交渉開始の訓令を発した。5月上旬、鮫島はワダントン()フランス外務大臣と、上野はイギリス外相のソールズベリー侯と、青木はフォン・ビューロー()ドイツ外相と、榎本はロシア外務次官ギールスとそれぞれ交渉に入った。英・仏・独・露で条約改正交渉が開始されてまもなく、パリのブルボン宮殿で第2回万国郵便連合大会議が開催され、ヨーロッパの20数カ国が参加、日本も鮫島がサミュエル・ブライアン(駅逓局のお雇い外国人。アメリカ人)とともに会議に出席して6月1日に万国郵便連合条約に調印、連合にとってはアジアで初の連合加盟国となり、郵便主権を回復した。一方アメリカとの交渉は実を結び、1878年(明治11年)7月、駐米公使の吉田清成とアメリカのエヴァーツ国務長官との間で税権回復を含む新条約(吉田・エヴァーツ条約)が成立した。これは、全10か条より成り、アメリカの領事裁判権を日本側が認めるかわりにアメリカは日本の関税自主権を認めるというもので、輸出税の廃止や日本沿海における日本の貿易権の独占なども盛られており、当時の日本としてはほぼ希望通りの内容であった。また、第7条では「互相の理」に基づき、新たに下関港を含む2港を開くことが定められていた。同条約の成立が翌1879年(明治12年)7月に公表されると、ロシアとイタリアはこれに好意的な姿勢を示したものの、日本との貿易額が諸国中最も多いイギリスは、日本が保護貿易政策を企図しているとして自由貿易の立場からこれを非難し、また、イギリスの頭越しに日米間で秘密裡に改正交渉が進められていたことに不快感を表明して各国共同の連合談判形式の採用を迫った。駐日英国公使のハリー・パークスは、日本がイギリスにとって重要な製品輸出市場と考え、執拗に反対活動を展開した。鮫島尚信は、ワダントン外務大臣との会談のなかで、近年ヨーロッパにおいては互いに関税税率を国家間で協定しあう通商条約が実施されており、フランスでさえも自由に税則を変更することができないと伝えられており、これを受けて、鮫島・上野・青木らは新協定税率にもとづく通商条約の締結を寺島外務卿に提案し、改正交渉の場をヨーロッパとすべきことを具申した。これは、パークスら日本駐在の外交官の動きを封じることができるうえに、フランスが必ずしもイギリスと同意見ではないとの手応えがあったためである。しかし、寺島は税権の完全回復にこだわり、東京での国別談判の方針を採用、これを押し切って交渉を進めたが難航した。結局、ドイツ・フランス・イタリアがイギリスに同調して、日本の関税自主権回復に反対し、また、法権の優先を求める国内世論の反対もあって条約改正交渉は挫折し、寺島は外務卿を辞職した。吉田・エヴァーツ条約は、その第10条において、批准に及んでも他の国々がこの規定を認めなければ発効せず、他国も同様の条約を結ぶことが条件となっていたため、結局、効力を発しなかった。アメリカ以外の国も同様の条約を締結しなければ、アメリカ商品のみに高関税がかけられて競争力を失い、通商上著しい被害が予想されるため、アメリカとしてはやむを得ない措置であった。これが、二国間交渉による条約改正の難しさであり、その後も日本は二国間で交渉を進めるか、多国間交渉でいくかで揺れ動くこととなる。これに前後して1877年(明治10年)、イギリス商人ジョン・ハートレーによる生アヘン密輸事件が発覚した。これは修好通商条約付属の貿易章程に違反していたが、翌1878年2月、横浜英国領事裁判所は生アヘンを薬用のためであると強弁するハートレーに対し無罪の判決を言い渡した(ハートレー事件)。また、1877年から78年にかけてコレラが流行し、当時はコレラ菌も未発見で特効薬もなかったところから、1878年8月、各国官吏・医師も含めて共同会議で検疫規則を作ったが、駐日英国公使ハリー・パークスは、日本在住イギリス人はこの規則に従う必要なしと主張、翌1879年(明治12年)初夏、コレラは再び清国から九州地方に伝わり、阪神地方など西日本で大流行したことに関連してヘスペリア号事件が起こっている。ヘスペリア号事件(ドイツ船検疫拒否事件)とは、西日本でのコレラの大流行を受けて、1879年7月、当局がドイツ汽船ヘスペリア号に対し検疫停船仮規則によって検疫を要求したところ、ヘスペリア号はそれを無視して出航、砲艦ウルフの護衛のもと横浜入港を強行した事件である。その結果、横浜・東京はじめ関東地方でもコレラが流行し、コレラによる死者は1879年だけで10万人に達している。一方、福沢諭吉・馬場辰猪・小野梓らによる民間の条約改正論がいっそう高まり、自由民権運動においても地租軽減などと並んで条約改正による国権回復が叫ばれた。福沢諭吉は、早くも1875年(明治8年)の段階で、『文明論之概略』において「自国の独立」を論じ、人民相互の同権とともに外交上の同権(不平等条約の改正)を論じており、馬場辰猪は1876年(明治9年)10月、英文でみずから著述した『条約改正論』をロンドンで出版している。日本の知識人の多くがハートレー事件やヘスペリア号事件により、法権の回復がなければ国家の威信も保たれず、国民の安全や生命も守ることのできないことを知るようになった。実際問題として、領事裁判においては、一般の民事訴訟であっても日本側当事者が敗訴した場合、上訴はシャンハイやロンドンなど海外の上級裁判所に対しておこなわなければならず、一般国民にとって司法救済の道は閉ざされていたのも同然であった。開港以来の横浜居留地での生糸を中心とした貿易においても、外国人商人の商品代金踏み倒しなど不正な取引も頻発したが、治外法権によって護られていたこともあって、世論は、経済的不利益の主原因はむしろ治外法権にあると主張し、法権回復を要求しはじめた。なお、民権運動興隆の状況を目にした参議山縣有朋が、1879年(明治12年)、民心安定のために国会開設が必要であるとの建議を提出したのを契機として、政府は参議全員に意見書の提出を求めたが、それに対し、伊藤博文は条約改正を視野に入れての立憲政体の導入が必要だとの意見書を提出した。国会開設の詔が出されたのは、明治十四年の政変後の1881年(明治14年)のことであった。寺島の後を受けて参議兼外務卿となった井上馨は、最難関のイギリス公使には上野景範に代えて省内きっての親英派で強硬派でもある森有礼を起用し、法権・税権の部分的回復を盛りこんだ改正案を作って、1879年(明治12年)9月19日、森駐英公使に基本方針を訓令した。同年11月には在欧各国の公使に対し、海関税則改正と開港場における外国人の不当な慣習(日本人を未開人扱いすることなど)の是正、日本の行政規則における軽微な罰則・制裁条項をもつ規則についての外国人への適用などを骨子とした条約改正方針を各国に通知するよう訓令を発した。1880年(明治13年)3月の官制改革においては、参議と卿は分離されたが、井上外務卿のみは条約改正に携わる関係から、その例外とされた。なお、井上を補佐した最初の外務大輔(次官)は前駐露公使榎本武揚であり、外務少輔には上野景範が任じられ、榎本が海軍卿に転出すると上野が外務大輔に昇格した。また、1880年5月以降は横浜のアメリカ副領事であったヘンリー・デニソンが外務省顧問に採用された。1880年6月、井上案の骨子を基に修好条約改正案および通商航海条約改正案が準備され、同年7月6日、条約改正会議を日本で開催することをアメリカ・清国を除く各国に通知した。この改正案の内容は駐日オランダ公使からリークされ、7月16日付ジャパン・ヘラルド紙に掲載された。翌1881年(明治14年)2月、井上は条約改正案を関係各国に回付した。当初の列国の態度は日本案は要求のみ多く、それに対する報酬は少ないとして、要求に対する対価や譲与を求める姿勢が強かった。その後、森有礼駐英公使はイギリス側の対応を探り、双方で交渉の課題と進め方について協議したが、イギリスは関税規則改正に関わる交渉にのみ応じる方針であることが判明した。1881年7月23日、イギリス外相グランヴィル伯は森駐英公使に対し、日本提出の条約改正案による交渉に反対の意を表明、東京での予備会議開催を提案した。これに対し、ドイツは、法権回復の交渉にも応じる構えがあるとの意向を示し、イギリスの方針とは異なる感触を得たが、東京での予備会議開催に対してはイギリスと同意見であり、他の各国もこれに追随した。井上は各国の要求を容れて、改正の基礎案を審議するための予備会議(条約改正予議会)を開くこととした。12月28日の御前会議での諒承を経て、予備会議は翌1882年(明治15年)1月25日に東京の外務省で第1回がひらかれ、フランス・ドイツ・イギリスなど8か国が参加した。この後、アメリカ合衆国・ベルギーなども加わり、同年7月27日まで計21回開催された。なお、この年の3月3日、伊藤博文は明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、同月14日にはヨーロッパに向け出発している。井上改正案は、「取らんと欲せば、必ず酬うる所なかるべからず」という方針に立ち、日本が関税を引き揚げて税収増加を図ること、日本の行政規則を条件づきで外国人に及ぼすこと、12年後に対等条約の締結を提議する権利を有することなどの代わりに、外国人には土地所有権、営業権、内地雑居権を与えようというものであり、中には、宮城県の野蒜築港後に同港を開き、区域を設けて外国人の雑居を許すという案もあった。これについては、政府部内でも佐々木高行、大木喬任、山田顕義の参議3名が、日本人は失うもの多く、得るところは少ないとして強く反対し、政府上層部の意見が分裂した。そのため、井上は一時は辞任の意向を示すほどであったが、寺島前外務卿が慰留、岩倉具視や山縣有朋らが3参議を取りなして、結局、ひきつづき井上の方針が採用されることとなった。なお、小野梓は、1882年『外交を論ず』を著し、冒頭にトルコの例をひいて、列国共同会議を開くことは列国共同の圧力を受けることにほかならないとして、共同会議を開くべきではないと強く主張した。井上の改正案は、諸外国からも法権・税権のいずれに対しても批判が相次いだ。これに対し、井上は日本は法典の整備に鋭意取り組んでおり、日本国内の裁判所に外国人判事を任用する用意があると回答、1883年(明治16年)4月5日の第9回予議会では日本の法律に服する外国人には内地開放(内地雑居)を行う旨宣言した。内地開放とは、内地旅行や内地通商に関する制限を撤廃することであり、外国人の土地所有や企業活動の自由を認めることであったが、これは法権の束縛された当時の日本にとって唯一最大の切り札であり、列国が明治初年から繰り返し主張してきたことでもあった。この宣言は、イギリスはじめ列国からは、意外の念を示されながらも歓迎された。6月1日の第13回予議会で井上は、新条約批准5年以内の暫定措置として、領事裁判を認めながらも、その裁判は外交官ではなく外国の法律の専門家によるものとし、また、法律は日本の国内法を適用するという案を提示した。税率の改正に関しては、日本の要求が自由貿易の理念に反するとの批判をかわすべく、大蔵省で進めていた紙幣整理の償却費400万円の確保が目的であるとして、従来5パーセントであった税率を、奢侈品25パーセント、他の物品15パーセントに引き上げる案を示した。イギリスはこれに反対、増収総額300万円程度となる税率案を提示した。それに対し、ドイツは日本に対して好意的で、結果的には総額360万円の増収額となる税率に定められた。なお、新条約の施行期間としては、裁判については12年、税率については8年と定められた。以上、予備会議での交渉は、新条約の方針の協議に止まるものではあったが、井上の内地開放宣言が功を奏し、日本は一貫して協議の主導者たる立場に立つことができた。条約改正交渉と並行して井上は、国内に欧化政策を推進するとともに、西欧風施設を建設して外国使節を歓待し、日本が文明国であることを広く内外に示す必要があると訴え、日比谷公園に隣接する麹町区山下町の地(現在の千代田区内幸町一丁目。NBF日比谷ビル)にネオ・ルネサンス様式の社交施設「鹿鳴館」の建設に取りかかった。イギリスの強硬姿勢の原因の一つには、駐日英国公使パークスの日本を遅れた非文明国とみる日本観が大きな影響を及ぼしていたが、そうした日本観は程度の差はあれ西洋諸国の外交官に共通するものであった。維新以来の開化派であった井上としては、条約改正交渉をスムーズに進捗させていくには、こうした日本のイメージを払拭する必要があると考えたのである。これはまた、来るべき内地開放の部分的な予行演習という意味合いを兼ねていた。鹿鳴館はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルによって設計され、工事は1880年(明治13年)に着手されて1883年(明治16年)11月に完成した。煉瓦造の2階建てで総建坪は466坪、2階正面が舞踏室となっており、完成には足かけ3年の歳月と18万円の工費を要した。11月28日の落成式では軍楽隊の吹奏や花火が打ち上げられる中、内外の高官や紳士淑女1,200人(うち外国人400人)が鹿鳴館に集まって、舞踏会が夜中まで繰り広げられた。井上馨はこの夜「この鹿鳴館を国内外の紳士がともに交わり、国境を越えた友情を結ぶ場にしたい」と演説した。また、井上を局長とする臨時建設局は鹿鳴館周辺に新官庁街を建設することを企図し、ドイツ人技術者のヴィルヘルム・ベックマンを招いて官庁集中計画を軸とした首都改造を立案した。予備会議の成果や井上の内地開放案等について各国の意向を打診した結果、イギリスのパークス公使は、法権は後日検討することとして、関税自主権の付与には依然反対ではあるものの、今回は通商面や税権の面で日本に対し応分の譲歩の用意があるという意向を示した。また、ドイツは内地開放が関税自主権付与の前提になるという方針を表明した。1884年(明治17年)3月、日本に対して強硬な姿勢の強かったパークスが駐清公使に転任し、その後任公使としてフランシス・プランケットが着任、前任者とは違って、柔軟な対応をする見込みがあらわれた。アメリカからも好意的な反応がみられ、各国も在留外国人が日本の行政法規に従うことについては諒承の態度がみられるようになった。井上は列国の態度を勘案した上、1884年(明治17年)8月4日、条約改正基本方針を各国に通告し、条約改正会議(本会議)を開くよう提案した。しかし同年12月、朝鮮で金玉均らによるクーデタ(甲申政変)がおこって対清関係が緊迫し、イギリス海軍による朝鮮巨文島占領事件もあってその対応に追われたため、本会議の開催は1886年(明治19年)に延期された。1885年(明治18年)、日本では太政官制度が廃止され内閣制度が発足した。井上は第1次伊藤内閣の外務大臣に就任し、引き続き条約改正に取り組んだ。1886年(明治19年)5月1日、条約改正会議が開かれ、井上外務大臣・青木周蔵外務次官のほか12か国の使節団が参加した。井上は関税引き上げと法権の一部回復を目的とした条約案を提出したが、この案にはイギリスが反対した。6月15日、第6回会議でイギリス・ドイツ両国公使が新提案を行い、日本側もこれを諒としたため、会議は英独案(アングロ・ジャーマン・プロジェクト)を基調に進められた。英独案の骨子は、領事裁判権を撤廃し、関税率を5パーセントから11パーセントに引き上げることを了承する代わりに、を、日本側が受け容れるというものであった。法典の整備や裁判制度の確立については、国内における合意形成や法律を運用する法曹の育成などに一定の時間を要することから、当面は、日本がその方向に向かっていることを諸外国に納得させて改正への合意を引き出すよりほかになかったのであり、この間、日本の方向性を納得させる説得材料として機能したのが鹿鳴館外交であり、欧化政策であった。井上の結論は、「条約改正には兵力によるか、西欧諸国に日本の開化を実感させて治外法権を撤廃してもよいという感情を抱かせるかのどちらかしかないが、兵力による方法が不可能である以上、欧化政策を進めるよりほかに道がない」というものであった。欧米風の服装をして洋食・ダンスなど欧米風の夜会、バザーなどの社交を行い、羅馬字会が設置され、生活習慣の改良、音楽改良、美術改良、演劇改良運動が広がり、欧米のあらゆる風俗を模倣する風潮が一時上流社会に流行することとなり、極端な例ではキリスト教採用論や人種改良論さえ現れるほどであった。これは、日本人にはまったく新しい風俗・習慣をもたらすことともなったが、松方デフレの不況にあえぐ農村の日常生活とはあたかも別世界であり、その浮ついた雰囲気は国民の自尊心を傷つけ、むしろ社会の堕落・退廃として批判された。国内外の新聞は、鹿鳴館の夜会を「茶番劇」「猿真似」と書き立てて軽蔑・嘲笑し、鹿鳴館外交を「媚態外交」「軟弱外交」と呼んで批判した。当時平民主義(平民的欧化主義)を唱えていた徳富蘇峰も、井上馨の欧化主義を「貴族的欧化主義」と呼んで批判し、川上音二郎作詞の『オッペケペー節』にも「うわべのかざりは立派だが、政治の思想が欠乏だ」と唄われた。条約改正会議は、1886年(明治19年)7月、関税率改正についてはほぼ日本の原案に近い案が合意をみた。内地開放を税率改正の条件とする主張に対しては、井上はそれを認めると法権回復交渉のカードを失うこととなるため拒否している。また、「泰西主義」に基づく法律制度整備のため、井上は「法律取調所」を外務省内に設置した。日本が制定する法律を各国に「通知」する件を巡っては、やや交渉が難航した。各国は「通知」の意味を、その内容が「泰西主義」に合致するかどうかを監査する権利を持つものと理解したが、それを認めると日本は法律制定に外国の介入を認めることとなってしまうので、井上は列国が「泰西主義」に合致しないと見なされた場合であっても条約無効の判断は外交上の協議を経ることを要件とする条件を付け加えることを提案し、各国もこれに合意した。かくして条約改正会議は、新しい通商条約案と英独共同案に修正を施した修好条約案がほぼ合意をみることとなり、1887年(明治20年)4月22日の第26回会議で終了した。しかし、議事内容が明らかになるにつれ、政府内外からの批判が噴出した。日本政府の法律顧問でフランス人のボアソナードが、この改正案は日本の法権独立を毀損するものであり、訴訟人の利害からしても、国庫負担からしても外国人法官の任用は弊害が大きく、従来外国人居留地に限られていた不利益をむしろ日本全国に及ぼすものであると批判し、また、鹿鳴館における政府首脳の放蕩を憂慮して「予は今日は贅沢の時に非ずと信ずるを以て、各大臣の宴会はすべて謝絶するなり」と宣言した。「政府の智嚢(知恵袋)」といわれた法制官僚の井上毅に対しては「この改正が実現すれば日本人は外国を怨むより、屈辱的裁判制度を作り出した政府を非難するようになるだろう」と進言して「足下は高官の地位にあり、本国のために未曾有の危機に際しては何らの尽力をなさざるか」と責め、伊藤首相に対しても、改正案は法典の外国政府への通知を規定しているが、これでは、立法権すら外国の束縛を受けてしまうことになると指摘した。鳥尾小弥太、三浦梧楼、曽我祐準、勝海舟らも反対意見を表明した。国家主義者の小村壽太郎は当時外務省員でありながら、反対運動に加わった。閣内からも司法大臣山田顕義やヨーロッパから帰ったばかりの農商務大臣谷干城から強硬な反対意見があって、7月、谷はついに伊藤首相に改正反対の意見書と辞表を提出するにいたった。谷の意見書には、新条約案が現行条約以上に日本の国益を損なうこと、改正交渉が秘密裡に進められていること、内地雑居は時期尚早であること、条約改正は憲法施行後、公議輿論に照らして行うべきことが記されていた。同月、井上馨外相が内閣に提出した意見書では、日本の進路について、「欧州的新帝国」をアジアに作り出すことによって、西洋諸国と同等の地位に向上させ、独立と富強を維持、達成できると記されている。井上の考えは、ヨーロッパに倣うことはヨーロッパと並び立つためだったのである。辞職した谷は、あたかも国民的英雄のように扱われ、8月1日には旧自由党員林包明ら在京の壮士たちに迎えられて「谷君名誉表彰運動会」が東京九段の靖国神社境内で開催された。ここでいう「運動会」とは、デモンストレーションのことである。参加者は数百名に及び、「谷君万歳」「国家の干城」などと書かれた大小の旗を持って市ヶ谷田町の谷邸まで示威行進した。ボアソナードや谷干城らの意見書は自由民権派の手によって秘密出版されて国民の広く知るところとなった。その結果、折からのノルマントン号事件(1886年)で領事裁判権のもたらす弊害が問題視されていたこともあって世論が激昂、これを「国辱的な内容」と攻撃し、板垣退助も1万8,000余語に及ぶ上奏意見書を提出した。井上馨にしてみれば、この案が期限付条約案であることから、国民は国内法制の整備が完了するまでの期間だけ外国人判事による裁判を耐えれば済むということであったが、この時期の日本は自由民権の時代からすでにナショナリズムの時代に移っており、もはや世論は井上改正案を受け入れることができなくなっていた。谷らの意見に対して井上は、日本人にしても、たとえば当時の朝鮮の法律や裁判に服することが可能なのかと問題提起して、西洋諸国の領事裁判権を完全に撤廃することがいかに困難を伴うものであるかを説いた。さらに、優勝劣敗を説く社会進化論の影響で日本社会が西洋人によって圧倒されてしまうことを危惧する内地雑居反対論者に対し、井上には日本の民間における潜在的力量に対する基本的な信頼感があったとみられ、条約改正問題で一歩前進することにより、日本社会は外国人の刺激によってさらに文明開化がさらに進み、外資増大などによって経済発展をもたらすことが期待できると主張した。しかし、佐々木高行や元田永孚など宮中グループの動向や沸騰する国内世論に抗しきれず、条約改正交渉は延期されることとなり、1887年7月29日、政府は列国に対し改正会議の無期延期を通告、9月17日には井上馨が交渉失敗を理由に外交責任者の地位を辞し、そのあとは内閣総理大臣伊藤博文が外相を兼務した。同年10月には土佐(高知県)の民権派片岡健吉が元老院に「三大事件建白」として提出した建白書に、言論の自由の確立、地租軽減による民心の安定とともに不平等条約の改正が盛られるなど反政府運動が高まりをみせた。政府は内務大臣山縣有朋と警視総監三島通庸の指揮のもと保安条例を発布して、治安妨害を理由に570名あまりを皇居三里外(皇居より約11.8キロメートル以遠)に3年間追放し、政情の安定と秩序回復を図った。それに対し、「むしろ法律の罪人となるも退いて亡国の民となる能わず」と主張し、保安条例に抵抗して投獄された人びともいた。伊藤博文は条約改正交渉を進展させるため、自らの後任の外相として、外交手腕に定評のある大隈重信を選んだ。井上馨と伊藤は、民権派の大同団結運動に対処すべく、大隈率いる立憲改進党が政府与党となることを図って、政敵であった大隈に後任外相たるべきことを交渉したのである。大隈は最初、持論の議院内閣制導入を条件としたため入閣は不発に終わったが、政府は上述の保安条例によって強引に三大事件建白運動を終息させて大同団結運動にくさびを打ち込んだ。この後、再び大隈に交渉したところ、大隈もこれを諒承、1888年(明治21年)2月、第1次伊藤内閣の外務大臣に就任した。伊藤と大隈の合同は、明治十四年の政変以来のことであり、大隈は同年4月に成立した次の黒田内閣でも外相を留任した。大隈は、伊藤に憲法制定の功績あるならば自分は条約改正の功を立てたいと決意し、また、その功績をもって改進党勢力を伸張させ、憲法発布後に予定されている帝国議会で主導権を握るという具体的な将来構想を抱いていた。薩摩藩出身の第2代内閣総理大臣黒田清隆は、枢密院議長となった伊藤に憲法制定を任せ、大隈には条約改正を任せるという体制を採っていたが、この両者が互いにほとんど連繋しなかったことは後に重大な問題を引き起こすこととなる。大隈は、井上のような国際会議方式は日本にとって不利であるという認識に立って、列国間の利害の対立を利用する個別交渉の方針を採用した。それにより、1888年11月30日、かつて政府転覆計画(立志社の獄)に加担したとして収監された前歴をもつ駐米公使兼駐メキシコ公使陸奥宗光がメキシコとの間に日墨修好通商条約を締結することに成功した。陸奥がワシントンに着任してわずか半年後のことであり、これは、アジア以外の国とは初めての完全な対等条約であった。これにより、メキシコ合衆国国民は日本の法権に服することを条件に内地開放の特権が与えられた。大隈はまた、最恵国約款の解釈を改め、従来一国に認めた特権は無条件で他国に与えていたものを有条件主義とした。さらに、従来の通商条約と裁判権に関する条約の二本立てとなっていたものを一個の和親条約として締結するという方針を立てた。改正内容についても大隈は、井上馨の方針を修正し、緻密な外交理論に基づいて、税権については税率の引き上げを求め、法権については外国人裁判官を大審院に限定し、法典についても日本側が交付することを約束するに止めた。また、現行条約を遵守し、居留地外に進出するための外国人の違法行為を厳しく取り締まることにより、かえって現行条約の方が不便であるということを外国人に痛感させ、そのことによって日本側に有利な条件を獲得しようとした。単独交渉方式の採用と最恵国待遇に関する新解釈は、列国の利害関係や対日関係のあり方の相違から次第に条約改正に現実味を与えることとなった。交渉は極秘裏に進められ、その結果、1889年(明治22年)にはアメリカ合衆国(2月20日)、ドイツ帝国(6月11日)、ロシア帝国(8月8日)との間に新しく和親通商航海条約を締結することに成功した。実際に新条約調印にこぎつけたのは、明治初年以来これが最初であったが、イギリスはなおも反対の態度を示した。この間、1889年2月11日、黒田内閣の下で大日本帝国憲法が発布され、日本はアジアで最初の近代的立憲国家として出発することとなった。しかし、発布に先だって大隈は、伊藤の憲法制定に伴う枢密院の会議に出席したことは実は一度もなかった。大隈は、明治十四年の政変の際、国会の早期開設を主張したために伊藤らによって政府を追放された経緯があり、イギリス型の国会や憲法については一家言をもち、伊藤よりもむしろ立憲国家のあり方についての見識も豊かであったとみられるが、上述のように、黒田内閣では、伊藤は憲法制定を進め、大隈は条約改正を進めるという相互不干渉の体制で当時の二大国家目標の遂行を図っていたのである。一方、この年の7月、上述の日墨修好通商条約が効力を発すると新任のヒュー・フレイザー駐日英国公使は、最恵国待遇の規定によって日本在住のイギリス人に対しても内地雑居の公平な恩恵が与えられるべきだと主張したが、大隈は最恵国有条件主義を唱えてこの要求を却下した。ただし、そのイギリスも駐英公使岡部長職の奮闘もあって、ようやくほぼ同意するところまでこぎつけ、フランスもこれに倣った。列強のうち主要国との交渉は概ね終了し、あとは小国を残すだけになった。しかし、機密主義によって進行してきた改正交渉のあらましが1889年4月19日付のイギリス紙『タイムズ』に掲載された。この条約案を『タイムズ』にひそかにリークしたのは外務省翻訳局長だった小村壽太郎だったともいわれる。大隈重信の条約改正案が、外国人判事の任用や欧米流の法典編纂の約束を骨子とするという点では井上案を基本的に踏襲したものであったため、『タイムズ』誌のニュースが日本に伝わるや、国内世論からは激しい批判が湧き上がった。学習院院長三浦梧楼からは改正中止の上奏がなされ、新聞『日本』の主筆陸羯南などによって激しい反対論が展開された。鳥尾小弥太、谷干城、三浦梧楼の三中将、西村茂樹、浅野長勲、海江田信義、楠田英世の7人は、世に「貴族七人組」といわれる反対派であった。ただし、『東京経済雑誌』主筆の田口卯吉は大隈案の擁護に努めており、徳富蘇峰の『国民之友』は論争に積極的に参加しなかったが政府案に対し好意的であった。反対論の中には、日本の司法権が脅かされるとの批判があり、さらに重大なことには、発布されたばかりの帝国憲法に違反することを指摘する声があった(外人法官任用問題)。すなわち、憲法第19条「文部官任用条項」に抵触し、同第24条「裁判官による裁判を受ける権利」の侵害にあたるというのである。これについては、すでにこの年の3月末に陸奥宗光駐米公使が指摘していたが、大隈はその重大さに気がつかなかったといわれる。民間では民権派・国権派の大半が結集して非条約改正委員会が組織され、条約改正反対運動(非条約運動)が展開された。憲法制定と条約改正は同時並行で進められていたものの相互に没交渉であったことが、憲法が制定される状況下で憲法違反の条約改正が進むという矛盾を生じてしまった。この事態に伊藤は驚愕したが、一方の大隈は意気軒昂であり、外国人法官任用問題に対しては法制局長官の井上毅に帝国憲法との摺り合わせを命じた。井上毅は公権力の行使に関わる外国人を任用した場合、当該外国人は自動的に日本に帰化して日本国臣民となる旨の法案(帰化法)を起こした。しかし、これは逆にイギリスとの交渉の進展を難しくしており、井上毅自身もまた、内心ではこのような弥縫策には不満であったため、郷里熊本の先輩であり、明治天皇の侍講でもある元田永孚に相談した。このことがきっかけとなって、政府部内でも黒田首相・大隈外相らの条約改正断行派と後藤象二郎逓信大臣・松方正義大蔵大臣・西郷従道海軍大臣・大山巌陸軍大臣ら大隈案に批判的な閣僚、元田ら条約改正反対の宮中グループ、また、黒田の手法に反発しながらも大隈の外相就任に深く関わり条約改正は潰せないと考える伊藤博文枢密院議長、黒田首相とソリが合わず山口に帰郷した井上馨農商務大臣、それぞれを巻き込んだ波乱含みの政局展開となった。これまで伊藤博文と黒田清隆の2人によって先導されてきた「内閣・枢密院包摂体制」というべき体制は機能不全に陥った。内閣の首班たる黒田は大隈を信用して条約改正にあたらせた以上、条約改正推進の立場は揺るがなかった。大隈もまた、現実的にすでに居留地や治外法権という、本来は憲法に規定されていない事態が継続している以上、外交事情が憲法に優先するものと判断し、黒田からの強い支持と負託もある以上、条約改正は憲法がどのようなものであろうとも、最優先すべき課題であった。こうして、各国との外交交渉は、総理大臣と外務大臣の権限をもって急ピッチで進められていったのである。他の国務大臣にとって条約改正交渉は所轄外の事案であるところから、反対意見はこれを阻止することができなかった。ところが、内閣と枢密院とは一種の相互依存関係にあって、枢密院の会議は専任の枢密顧問官と内閣の諸大臣を構成員としていた。そこで、枢密顧問官の一部や宮中顧問官は枢密院会議の召集を要求し、条約改正反対論を述べる機会を求めた。枢密院会議が開催されれば、そこでは条約改正反対論が多数意見となることが確実であり、改正交渉を阻止しうると見込まれたためであった。しかし、枢密院議長である伊藤の立場としては、簡単には召集の要求に応じることができなかった。というのも、自ら大隈の条約改正を承認し続けて憲法違反の行為を認めてしまった以上、枢密院の場で自分自身が弾劾される恐れがあったためであり、また、批准段階ではなく、条約改正交渉が現に進められている途中の段階で枢密院が交渉に介入することは憲法の規定に抵触するものだったからである。かくして、憲法・内閣・枢密院という、いずれも国家の盤石を期して作られたものすべてが、これらの創始者ともいえる伊藤の意図を離れ、それぞれ思い思いの方向へもっていこうと機能する逆説的な状況が生じてしまったのである。在野の民権派・国権派、官にあっては宮中グループや天皇親政派の人びとが公然と条約改正反対を唱えるなか、1889年(明治22年)8月2日、黒田首相は閣議を開いて帰化法制定を条件として条約改正断行路線を採ることで強引に内閣の意見をまとめた。しかしこれ以降、さまざまな方向から条約改正に対する反対運動が活発化し、内閣は四面楚歌の状態となる。そして、よもや統治不全の状態に陥りかけたとき、調整工作に乗り出したのが明治天皇であった。明治天皇は9月20日元田永孚に伊藤博文を訪ねさせ、条約改正について諮問した。そして、「黒田は諸事をことごとく大隈に一任して議するところなく、大隈は独断専行する一方で内外の反対意見も多く、このことが政治の混乱を招いてしまっているが、これを放置してよいのか」と質し、「条約改正が憲法に抵触するということを伊藤たちは事前に気がつかなかったであろう。だから自分にもそれを言わなかったのであり、よって自分は、そのときは条約改正を受け容れようと考えて許可したのである」と述べ、「今になって憲法違反の事実があったとしてそのとき気づかなかったことを咎めても意味がない。条約改正の決定は自分たちの不明であり、短慮ではあったが、違憲であることが判明した以上、ただちに失敗を反省し、以後善後策を講じなければならないのではないか」との意思を示した。天皇は、条約改正と憲法について、その原点に立ち返って考えなおし、政治的に幅のある対応をすべきではないかとの判断を下したのである。9月22日、天皇は閣議だけでは条約改正の是非についての議論を十分に行えない状況を踏まえ、これに枢密顧問官も加えて新しい合議体たる合同会議を創設し、そこで改正の得失と善後策の検討を審議してはどうかと伊藤に提案した。つまり、政府における最終的な意思決定の場を設け、そこで条約改正の中止を決めるべきではないかと勧めたのである。これに対し、伊藤は内閣の国務大臣だけでまず会議を開くことが妥当である旨、使者の元田に答えた。天皇は伊藤と黒田によって先導されてきた「内閣・枢密院包摂体制」を合同会議の創設によって前進させようとしたのであるが、伊藤は、この体制は政治的決定の一致をみてこそ盤石の体制となるものの、分裂が決定的となってしまっている状況において合同会議を創設することは、むしろその分裂を固定化する役割を担ってしまい、かえって混乱が拡大してしまうと懸念したのである。業を煮やした天皇は、9月23日黒田首相を呼び出し、閣議を開くよう命じた。黒田は恐懼したものの自宅に籠もったままとなり、あくまでも条約改正断行の意志を変えなかった。なお、9月27日には、立憲改進党のグループが全国同志大懇親会を京橋区の新富座にひらいて条約改正を断行すべしという運動を展開している。政局が膠着し、条約改正断行派も中止派もともに相互にまったく調整不能な状況となったなか、1年間のヨーロッパ視察を終えて山縣有朋内務大臣が帰国した。ここで、これまで条約改正問題にまったく関与してこなかった重鎮の山縣に一切の決裁を委ねてはどうかという状況判断の生じる余地が生まれ、黒田と伊藤のどちらが先に山縣に接触し、その同意を取り付けるかが競われた。同じ長州藩出身でありながら、政治路線の異なる伊藤博文と山縣有朋の関係はすこぶる微妙なものではあったが、結果的に両者の合意が成立した。10月3日、天皇はいつまでも黒田が閣議を開かないことを憂慮し、伊藤に対して善後の措置をきちんととるように命じた。大隈はといえば、天皇が陪食を命じても病気と称して出てこない有様であった。10月10日、明治天皇は黒田と伊藤と大隈の3人で話し合いをし、その結果を報告するよう命じた。そもそも、この3人の協議がまとまらなければ、他の一切は定まらないと判断されたためであった。10月11日、山縣内相が参加しての閣議が伊藤枢密院議長臨席のもと開催された。閣議の席では、松方蔵相が条約改正に際しては条件整備のために準備委員会を設けるべきだと切り出した。これは改正交渉遅延の手段に他ならなかったが、一応の諒承を得た。次いで、後藤逓相が条約改正を中止するか断行するかの決断を首相に迫った。それに対し黒田は間髪を入れず「それは8月2日にすでに決めたことではないか。一事不再理である」と応答し、その後も同様の断定的意見に終始した。事ここに至り、ついに伊藤が枢密院議長の辞表を提出、しかし、なおも黒田と大隈は自説を曲げなかった。10月15日、条約改正を閣議が再び開かれたが、これは明治天皇が臨席する異例の閣議となった。ここでも議論は紛糾したが、黒田・大隈はともにまったく引く構えを見せず、夕刻となったため議決せずに散会した。ここでは山縣は意見をはっきりさせなかった。10月18日、黒田は再度条約改正の是非についての閣議を開いた。ここでついに山縣が条約改正の実施は時期尚早であると述べ、延期しなければ今後の展望が拓けないと主張、松方・西郷・大山らも同調して閣議は中止論に傾きかけた。しかし、なおも首相と外相は断行論を唱えたため、またも結論が出ないまま散会した。事態が急変したのはその直後であった。閣議からの帰途、馬車に乗っていた大隈が東京外務省の外相官邸に入る門前で、改正案に反対する国粋主義団体福岡玄洋社の前社員来島恒喜から爆裂弾を投げつけられ右脚切断を要する重傷を負ったのである(大隈重信遭難事件)。来島は爆弾投下直後、皇居にむかって割腹自殺した。大隈遭難事件翌日の10月19日、黒田首相と山縣内相は明治天皇に拝謁して条約改正延期を伝えた。21日、入院中の大隈が不在のまま閣議は条約改正中止を決定、米・独・露3国とのあいだの調印済の条約にもその延期を申し入れた。22日、総理大臣黒田清隆以下、大隈を除く全閣僚が総辞職の意向を明らかにした。閣議でいったん決定した条約改正を反古にしたのであるから、すべての大臣に責任があるとの論理からであった。こののち、黒田清隆は後継に山縣を推薦して10月25日に内閣総理大臣を辞任、山縣は首相拝命を固辞したため三条実美暫定内閣が成立した。当初、内閣総辞職となるはずであったが首相と外相以外の全閣僚が留任のかたち
出典:wikipedia
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