香川 伸行(かがわ のぶゆき、1961年12月19日 - 2014年9月26日)は、大阪府出身のプロ野球選手(捕手、内野手)、野球監督、野球解説者。野球選手としては非常に横幅の大きな体格で、水島新司の野球漫画『ドカベン』の主人公・山田太郎に体型が似ていたことから、ドカベンの愛称で呼ばれた。マスターズリーグでは、その「ドカベン」を登録名にしていた。浪商高校で牛島和彦とバッテリーを組み、高校3年の1979年に第51回選抜高等学校野球大会で準優勝。同年の第61回全国高等学校野球選手権大会にも出場し、3試合連続本塁打を記録するなどの活躍を見せたが惜しくも準決勝で敗退。1979年のドラフト会議で南海ホークスに2位指名され入団。7月8日の対近鉄戦(投手・井本隆)ではボールカウント0-3から日生球場レフト場外への特大の初打席初本塁打を放った。には規定打席未満ながら打率.313、15本塁打でベストナインに選出された。しかし、その後は太り過ぎにより成績が下降。これは、人柄の良い香川が、関係者からの食事の誘いを断れなかったからだとされる。体重が150kg近くまで激増したこともあり、球団も減量のための様々な策を採り、毎シーズン野球がオフの時期になると、きまって減量に取り組む香川の姿が報じられた。には三塁手へのコンバートも経験している。1987年に最初の夫人と離婚。1988年には再婚している。南海が福岡ダイエーホークスに変わったに戦力外通告を受け、同年限りで現役引退した。引退後はRKB毎日放送の野球解説者(1990年から2002年まで)、日刊スポーツの野球評論家を務めたほか、水島新司がパッケージをデザインした讃岐うどんの通信販売も手がけた。プロ野球マスターズリーグの福岡ドンタクズには「ドカベン」の登録名で参加。長男の在学していた中学校の野球部コーチをしていたこともある。讃岐うどんの通信販売は1998年で手放し、1999年に2度目の離婚。2001年に高校時代の恋人と再々婚する。家族を養うべく、2002年に福岡市博多区中洲で居酒屋を経営する傍ら、福岡県粕屋町で野球学校を開校。佐渡ヶ嶽部屋の力士から千葉ロッテマリーンズに入団した市場孝之ら元プロ野球選手もコーチとして参加している。居酒屋は香川見たさの客が多く、経営も順調だったが、急性腎不全により緊急手術。その後3年間療養生活を余儀なくされ、居酒屋を手放し、RKBの野球解説者の契約を解除される。週3回人工透析を行っていたという。放送大学教養学部を修了した。2005年11月30日に福岡県に拠点を置き、自身が監督を務める社会人野球チーム「福岡ミサキブラッサムズ」(現・福岡オーシャンズ9)を結成した。総監督には福岡出身の歌手である森口博子が就任、コーチは元ロッテの市場孝之が務めていた。生花装飾業「美咲」(本社・福岡市)が資金援助していたが、2006年をもって撤退、香川も森口、市場と共に退団した。2009年12月30日に放送されたTBSのドキュメント番組、『壮絶人生ドキュメント 俺たちはプロ野球選手だった』では香川の現役時代のエピソードや引退後の波乱万丈の人生と現状が関係者(牛島和彦、門田博光など)の証言や再現VTRを交えて紹介された。2010年10月29日に開催された「プロ野球OBオールスターアスリートカップ」にも出場し、吉永幸一郎や藤本博史などとともにパシフィックリーグチーム選手の1人として打席に立った。2011年2月3日、福岡県筑紫野市の自宅を2008年に市に差し押さえられ、住宅金融支援機構が競売申立て後、落札されていたことや、その後、自己破産していたことが週刊文春などによって報じられた。また自己破産しても立候補はできることから、2011年の統一地方選挙で福岡県の太宰府市議会議員選挙に出馬を検討していたが、結局取り止めた。2014年9月26日に福岡県朝倉郡の自宅で倒れているところを家族が発見し、救急搬送されたが死亡が確認された。死因は心筋梗塞。。急逝前(9月16日)に週刊プレイボーイ「現代プロ野球にはないあの時代を語ろう 80年代パ・リーグ伝説の瞬間」(集英社、2014年9月29日発売)の取材インタビューに答えており、結果としてこれが香川の生前最後のメディア登場となった。通夜は9月29日、告別式は9月30日に福岡県朝倉市の斎場で行われた。通夜にはソフトバンクからヘッドコーチの小川史、投手コーチの加藤伸一、打撃コーチの藤本博史、告別式には元南海選手の藤原満や元近鉄投手の佐野慈紀がそれぞれ参列して故人の冥福を祈った。弔辞は佐野が読み上げた。戒名は「訓明院球道伸行居士」(くんみょういんきゅうどうしんこうこじ)で、漫画「ドカベン」に登場する明訓高校から「明」と「訓」の2文字が付けられた。
出典:wikipedia
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