世良公則&ツイスト(せらまさのりアンドツイスト)は、世良公則を中心に結成された日本のロックバンド。後にツイストに改名した。ロックをメジャーに押し上げた最初のロックバンドである。バンドの前身といえるのは、世良が福山市の高校時代に加入したFBIバンドである。このバンドがブルース志向だったため、当時ブルースが盛んだった大阪にメンバー全員で進学、同時にバンド名を"ツイスト"に変更した。在学中に音楽コンテストの関係者から「ボーカルがヘタ」との指摘を受け、それまでベースの担当だった世良がボーカルに交代。1977年、メンバーの大学卒業、バンドの解散のけじめにヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)に出場。この際、メンバーで唯一プロを目指す世良に少しでも役立ててもらおうと"世良公則&ツイスト"にバンド名が変更された、と書かれた文献もあるが、世良自身は後述する新規メンバーでプロデビューした時、大学時代のバンド"ツイスト"と差別化するために、敢えて"世良公則&ツイスト"としてデビューしたと話している。1977年10月、「あんたのバラード」がポプコン本選会でグランプリを獲得。フォーク/ニューミュージック系シンガーが多かったポプコンでロックバンドがグランプリを獲るのは初めてのことで、ひとつの"事件"だった。世良公則&ツイストのグランプリ以降、ロック系の楽曲が増えた。世良公則&ツイストがこの後、大きな人気を得たことで、ポプコンの名が世間に知らしめられ、ポプコンはスターの登竜門として華々しくなっていった。11月の第8回世界歌謡祭でもグランプリを獲得、12日後の11月25日にキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)からシングル盤「あんたのバラード」を発売した。予想していなかった両コンテストのグランプリに、メンバーの中でやっぱりプロでやりたいと言う者が出てきた。グランプリを獲ったメンバーでこのまま続けても問題はなかったのだが、それでは世良に都合が悪かった。というのは、既に解散を決めており、コンテスト終了後は、大学の同級生で別バンドにいて仲の良かったふとがね金太と新バンドを結成しようと約束していたからである。結局、世良はふとがねとの約束を守り、バンドは予定通り解散させ神本宗幸を残し、ふとがねと新メンバーを急ぎ探した。これは、世界歌謡祭グランプリ歌手は「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)に出演するという慣例があって、出演が決まった1978年1月9日まで間が無く急ぐ必要があったためである。結局、ふとがね金太のバンドにいた大上明と、関西で名前が知られていた鮫島秀樹、太刀川伸一を勧誘して1977年12月21日、新メンバーで"世良公則&ツイスト"を「結成」した。このメンバーが、一般に知られる"世良公則&ツイスト"となる。こうした事情で、シングル「あんたのバラード」の演奏は、一般に知られるこのメンバーではなく、旧ツイストのメンバー(創始メンバー、Mas Sawadaら)によるものである。このような経緯から世良自身は「バンドとしての愛着は(旧)ツイストの方にあった」と述べている。「夜のヒットスタジオ」出演後、ヤマハのプロデューサーから勧誘を受け1978年2月に上京し正式にプロデビューとなった。セクシーな世良のボーカルスタイルは高い人気を得て、デビューシングル「あんたのバラード」(オリコン最高6位)、「宿無し」(最高3位)、「銃爪 (ひきがね)」(最高1位)、「性」(最高5位)、「燃えろいい女」(最高3位)と、立て続けに大ヒットを飛ばし一世を風靡した。ロックバンド・ミュージシャンが、シングルヒットを続けるのはそれまで前例が無かった。また1978年7月10日に発売したデビューアルバム『世良公則&ツイスト』はオリコンで1位を記録、日本のロックバンドとしては、デビューアルバムが、チャートの1位を記録したのはこのアルバムが初めてであった。世良公則&ツイスト、Char、原田真二の三組は「ロック御三家」と呼ばれ、それまでの日本のロックミュージシャンと違い、初めて『ザ・ベストテン』などのテレビのランキング番組や歌謡番組、「月刊明星」「月刊平凡」等のアイドル雑誌、「セブンティーン」「プチセブン」などのティーン雑誌やテレビに頻繁に登場・出演した。これがロックとは無縁だったファンを獲得することとなり、それまでのロックバンドにはなかった女性ファンを開拓して、新たな潮流を生み出すきっかけを創り出した。日本語でロックできるアーティストがブラウン管に出てきたことは、日本のミュージック・シーンにとって大きな衝撃だった。ロックをお茶の間に持ち込んだのが彼ら「ロック御三家」だった。「ロック御三家」のコンサートでは観衆の圧倒的多数は少女で占められた。「ロック御三家」の出現以降、ミーハー向けの雑誌に、かなり専門的な音楽用語が増えた。野口五郎がミュージシャンと言い始めたのは「ロック御三家」登場以降のこと。ロックと歌謡曲の境界線は曖昧なものとなっていく。Charは「俺たちがテレビに出たのが良かったのか悪かったのかは分からないが、要はロックはビジネスになって結果、他のジャンルの音楽と同じヒットチャートに入ってくるようになった」と述べている。当時ジャニーズ事務所でさえ存続の危機を伝えられるほど低迷したアイドル不在の時期に「ロック御三家」はロック・アイドルの時代を創ったのである。特に世良公則&ツイストの活躍が目立ったのが1978年1月から始まった『ザ・ベストテン』だった。社会的にも影響力の大きかった当番組に於いて、全盛期の沢田研二、山口百恵、西城秀樹、ピンクレディーら、歌謡曲の大スターを抑えて、初年度のシングル・年間第1位(「銃爪 (ひきがね)」)、年間第3位(「宿無し」)を獲得。特に3枚目のシングル「銃爪」は1978年の9月から11月まで同番組で10週連続1位と、3ヶ月の間1位に居座り、レコード売上げも94万枚に達した。『ザ・ベストテン』10週連続の1位は、「ルビーの指環」(寺尾聰)12週連続に次ぐ歴代でも2位となる。同じヤマハ所属の中島みゆきは、頑なに当番組に出演しなかったが、世良公則&ツイストは積極的に出演した。画面からはみ出す程のイキのいいパワーが視聴者を魅了した。『ザ・ベストテン』は、ニューミュージック系歌手の曲を紹介するというコンセプトで始まった番組であったため、番組立ち上げ期に彼らの出演がなければ『ザ・ベストテン』が伝説になることはなかった。番組プロデューサー・山田修爾は、「間違いなくツイストは『ザ・ベストテン』初期の功労者のひとりである」と述べている。「ロック御三家」のうち最初にテレビに出始めたのはCharであったが、女子中・高生を中心に爆発的人気を得たのは、1977年10月にデビューした原田真二と翌11月にデビューした世良公則&ツイストであった。特に1978年後半には、世良公則&ツイストは人気やレコードセールスの点では完全に他の二人に水をあけ、歌謡曲を含めてもトップスターになった。当時の音楽誌は「いまようやく、日本のロックは世良公則&ツイストの手で、メジャーになろうとしている」と書いた。歌謡曲とニューミュージックの全盛期に於いて「ロックも売れる」ことを初めて証明したバンドであった。ロックの楽曲が最初に売れたのはダウン・タウン・ブギウギ・バンドのシングル「スモーキン' ブギ」(発売は1974年12月)、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(1975年6月)であるが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド自体が"ロック"として見られておらず(宇崎竜童談)、また当時は歌謡曲、演歌、フォークが強く、他にロック系の後続がなくロックはメジャーにならなかった。"ロックのメジャー化"は、最も商業的に成功した世良公則&ツイストを筆頭とした「ロック御三家」と、マスメディアを拒否しながら、1978年に出したシングル「時間よ止まれ」と2枚のアルバム『ゴールドラッシュ』、『LIVE後楽園スタジアム』を全てヒットチャート1位にし、自伝本『成りあがり』のベストセラー、長者番付でロック系ミュージシャンとして初めて1位となった矢沢永吉や、「ロック御三家」より、ほぼ一年遅れで世に出たサザンオールスターズ、この年の年末から翌1979年にかけて大ヒットを出したゴダイゴ、甲斐バンドら、この時代誰も予想だにしなかったロック系のヒットラッシュからで、これらの大ヒットは音楽マーケットに大きな革命を起こした。J-POPシーンの盛況は、商売にならなかったはずのロックが商売になり始めた77~78年に始まったとも評される。但し前記のように"日本のロック"は「世良公則&ツイストがメジャー化した」とする文献や、「ロック御三家」が「日本のロックをメジャーに押し上げた」とする文献もある。またバンドの形態という意味でも大きな功績を残している。基本的に楽器を持たず、ボーカルに徹する強力なボーカリストをフロントに立てるバンドスタイルは、ツイスト以降、甲斐バンド、ゴダイゴ、RCサクセションらが商業的に成功した事で、日本のロックバンドの一形態を作った。これは現在も売れるバンドの常套手段となっている。ツイストらが興したロックのメジャー化は、後のロック・バンドへも多大な影響を与えることになった。なぜこの時期、日本のロックが売れたかと言えば、「ロック御三家」が出る前、1976年から1977年にかけてベイ・シティ・ローラーズやキッス、スージー・クアトロやランナウェイズら、英米のロックバンド・ミュージシャンが日本で売れて、日本のマスメディアにも大量露出した。スージー・クアトロは「サケロック大関」と日本酒のテレビCMもやった。こうした影響もあったかもしれない。1978年9月、大上が体調不良により休養。デビュー時から世良の人気が突出し、バンドながら雑誌類では世良一人での露出も多かった。大半の楽曲も世良が手掛けていたため、世良だけが注目されて、リーダーはふとがねというのも忘れ去られ、他のメンバーはただのバックバンドとして見られるようになってしまった。このため、バンドの結束を危惧した世良自身がバンド名から世良の名を外すとメンバーに提案し"ツイスト"に改名した。この1978年暮れの「第20回日本レコード大賞」は最優秀新人賞が本命視されたが、スケジュールの都合との理由でノミネートを辞退した。それまでもニューミュージック系歌手のテレビ拒否は珍しくなかったが、賞レースに関しては出演はしないまでも賞自体は受けていた。ましてやブラウン管でおなじみのツイストが賞レースを拒否したことは大きな物議を醸した。但し、同年の「第29回NHK紅白歌合戦」には出演した。全員初出場だったツイストやさとう宗幸、原田真二、渡辺真知子、サーカス、庄野真代の紅白六組は「ニューミュージック・コーナー」というあたかも隔離された一つのコーナーの括りのなかで続けて歌った後、ステージの上で一列に整列し、審査員の講評を受けるという前例のない非常に混沌としたステージをやった。1979年、春の全国ツアー終了後、太刀川が脱退し松浦善博が加入。1979年4月に出した二枚目のアルバム『ツイストII』もオリコン1位を獲得(二週連続)。資生堂の'79 夏キャンペーンイメージソング「燃えろいい女」(1979年4月発売、最高位3位)も大ヒット、SOPPO(1979年10月発売、最高位6位)もヒットし、この年の第30回NHK紅白歌合戦にも出場した。「ロック御三家」で二年連続出場したのはツイストだけで、この年、いずれも初出場だったサザンオールスターズ、ゴダイゴと共に出場。ロック系歌手の出演はこの三組だけであった。ただツイストがコマソンをやったことは、ポリシーを持ってやってると思っていたファンのイメージを下げた。当時はロックミュージシャンがCMをやると「商業ロック」「産業ロック」などと批判される時代であった。1980年1月、それまで所属していたヤマハから独立し、個人事務所・MRT(ミュージシャン・レヴォリューション・トレイン)を設立した。ヤマハから独立したアーチストで成功例がないため不安視されたが、やはりその後、セールスは下降していった。当時のテレビ局は、出演の機会を与える見返りとして、そのかわり売れたら協力してくれという暗黙の条件が含まれていた。賞レースの季節になると所属事務所は、そのことで毎月10日はテレビ局と喧嘩していたといわれる。ツイスト同様、2年目に各局の音楽祭に出る出ないで揉めたサザンオールスターズの所属したアミューズでさえ、当時テレビ局に潰されるのではと噂が出たほどである。個人事務所を立ち上げて人気を維持させるのは難しかった。また、世良が高校時代の同級生と婚約を発表したことも大きな影響があった。同年の「LOVE SONG」が最後のチャートイン曲となり、1981年12月25日に解散した。ベーシストの鮫島は解散後、いくつかのバンドを経てHOUND DOGに加入している。以下は1981年の解散時メンバー以下は途中脱退メンバー以下は準メンバー、サポートメンバー世良、ふとがね、鮫島、大上はともに大阪芸術大学の卒業生である。作詞、作曲は世良公則(「身に覚え」の作詞・作曲はふとがね金太)。「性」からはツイストに改称。「ツイストII」からはツイストに改称。1981年の最初の解散後、何度か再結成をしている。
出典:wikipedia
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