元山市(ウォンサンし)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)江原道の道庁所在地(北朝鮮では道庁は道人民委員会と呼ばれている)。朝鮮東海側港湾工業都市であり、軍港である。日本の新潟港に入港していた万景峰号の母港でもある。国際観光都市として開放されており、中国人の観光客が多い。朝鮮半島東海岸中部の元山湾に面し、西には馬息嶺の山並みが連なる。首都平壌へ200km、金剛山へ120kmの地点にある。朝鮮半島東海岸にある東朝鮮湾の奥には、南の葛麻半島と北の虎島半島(咸鏡南道金野郡に属する)に囲まれた永興湾があり、朝鮮東海の荒波から守られた天然の良港になっている。葛麻半島の内側が元山港のある元山湾(徳源湾)で、葛麻半島の外の永興湾には薪島・大島・小島・熊島・麗島など20余りの離島が点在する。元山港の北西には海水浴場や遊園地のある松涛園遊園地が続き、元山港の東の葛麻半島西岸には明沙十里という長い砂浜があり、いずれも景勝地となっている。付近の山には長徳山・牛山・南山・北望山などがある。気候は海に面するために海洋性気候で比較的温暖である。最も寒い1月の平均気温は-2.2℃でケッペンの気候区分では温帯に属する。45洞・14里を管轄する。現在の元山港は、李氏朝鮮時代は元山津という漁村にすぎなかったが、1876年の日朝修好条規(江華島条約)により1880年に対外開港し、後に元山日本居留地が置かれた。1910年10月1日、徳源郡は「元山府」となった。1914年に京城府(現在のソウル)と元山府とを結ぶ鉄道(京元線)が開通し、天然の良港として、朝鮮の日本海側最大の都市として発展した。南北分断までは咸鏡南道に属していたが、1949年江原道に編入し北側の道都となる。朝鮮戦争では1950年9月、アメリカ軍を中心とする国連軍が元山上陸作戦を行ったが、中国人民義勇軍の侵攻により12月9日に韓国軍・国連軍とも撤退した。その後1951年から1953年にかけて国連軍は海上から元山港に対して砲撃を続けた。日本統治時代(1910年~1945年)においては、日本語読みで「げんざん」と呼ばれていた。地名も日本式の「町」がつくものが多かった。この節の出典水産物加工・造船・化学工業・紡績などの工場がある。農業は米・野菜の生産および畜産など。石板が馬息嶺付近から産出され、一部の地方で屋根を葺くのに使われていた。他にも十数校の大学がある。鉄道高速道路空港船
出典:wikipedia
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