歌川 芳虎(うたがわ よしとら、生没年不詳)とは、江戸時代末期から明治時代中期にかけての浮世絵師。幕末から開化期にかけて、歌川貞秀と並び最も活躍した絵師の一人である。歌川国芳の門人。姓は永島、名は辰五郎(あるいは辰之助、辰三郎とも)。歌川を称し、一猛斎、孟斎、錦朝楼などと号した。嘉永3年には南鞘町六左衛門店に住んでいた。後に長谷川町、中橋松川町2、明治期に神田鍛治町6に住んでいる。11歳のときに国芳の門人となり、天保(1830年 - 1844年)の頃から作画を開始している。国芳が得意であった武者絵に秀で、役者絵にも錦昇堂版の役者大首絵などの力作がある。例として「新洞左衛門娘夕しで 坂東三津五郎」があげられる。また美人画シリーズや相撲絵、横浜絵などにおいても活躍しており、幕末の時期において活動的な絵師であった。相撲絵は、国芳門人の中で最も多くの作品を残している。天保7年(1836年)から慶応の頃にかけては草双紙の挿絵も手がけている。天保8年または嘉永2年(1849年)閏4月に描いた錦絵「道外武者御代の若餅」では、家康の天下取りを揶揄した落首「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」に着想を得て、織田信長と明智光秀が搗き、豊臣秀吉がこねた餅を徳川家康が食うという絵を描く。当初この絵を検閲した係名主がその隠された意図に気づかなかったのでそのまま出版されたが、評判となって半日で没収、家康の天下取りを諷刺したとされ、芳虎は手鎖50日の処罰を受ける。芳虎の諷刺精神も国芳に倣うものであった。嘉永4年(1851年)に刊行された合巻『濡燕稲妻草紙』(調布作)3、4編、嘉永5年(1852年)刊行の合巻『長壁(おさかべ)狐妖婦奇談』(西馬作)、嘉永6年(1853年)刊行の合巻『桜紅葉(はなもみじ)命棧』(琴彦作)、安政4年(1857年)刊行の合巻『小夜鵆白波草紙』(仙果作)、安政4年から安政7年(1860年)に刊行の狂歌本『扶桑名所名物集』、文久1年(1861年)刊行の合巻『童絵解万国噺』(仮名垣魯文作)、文久3年(1863年)刊行の合巻『こがね(金+黄)花猫目鬘』(魯文作)、慶応2年(1866年)刊行の合巻『金鈴善悪譚』。同慶応2年刊行の合巻『藪黄(麗+鳥)八幡不知』(有人作)初編の挿絵が知られている。その後、安政5年(1858年)に師の国芳より破門を言い渡される。これは国芳と不和になったからといわれるが、国芳が芳虎を破門するに当たり、「乍憚以書付奉申上候」と行事(町役人)に宛てて出した書状の下書きが残っている。それによれば「芳虎こと辰五郎が腹を立て、俄かに絵師を廃業し歌川芳虎の名も返上すると言い出した。それがどういう理由か自分にもわからないが、当人のたっての希望なので致し方なく絵師を廃業させます」(要約)とあり、要するに国芳には芳虎に対して何の問題も無く、芳虎の側が一方的に師である国芳とは縁を切りたいと申し出たようである。しかし実際には芳虎こと辰五郎は、その後も画業と「芳虎」の名を捨てることなく作品を世に出し続けた。文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が大規模な大名行列を引き連れて江戸を旅立つと、江戸幕府の意向か「おらが将軍様が京都へ向かった」という重大行事への江戸っ子の贔屓か、江戸の版元10数軒が協力して歌川派の絵師10名以上に制作を依頼、この行列をシリーズの浮世絵で描くという企画が持ち上がった。これは「御上洛東海道」と銘打って、日本橋から京都まで、既に歌川広重が幾通りものシリーズで描いた名所をおよそ160点、全ての作品に将軍の行列を加えながら、わずか2、3か月で完成させたものであった。この「御上洛東海道」に芳虎も参加しており、他には四代目歌川豊国、二代目歌川広重、歌川芳形、歌川芳艶、月岡芳年、歌川国貞、歌川国福、豊原国周、歌川国綱、河鍋暁斎など合計13名の絵師が参加するという豪華な合作であった。慶応3年(1867年)のパリ万博では、歌川貞秀らと合作「浮世絵画帳」に加わり江戸美人を描く。その後も錦絵や版本の挿絵にと幅広く活躍し、明治元年(1868年)には錦絵師番付で貞秀に次いで第2位となり、人気絵師のトップクラスに上っている。芳虎が最も活躍したのは明治維新前後の目新しい風俗を描いた横浜絵や開化絵の分野で、質的には濫作の弊を免れていないといえるがその作品数は多い。横浜開港後に「武州横浜八景」や「万国づくし」などの外国人や居留地の風俗、また「北亜墨利加洲」や「亜墨利加国」のような、当時の多くの日本人にとっては未知の外国風景も描いた。明治に入っても「当世十二時」シリーズのように吉原美人を描く一方、「蒸気車陸道通行図」のような鉄道物の錦絵や「新聞名所」で洋風建築を描き、西南戦争を扱った錦絵の戦争画も手がけた。明治6年(1873年)に国芳の十三回忌が行なわれた際、三囲神社の境内に国芳を記念する石碑が立てられた。この石碑には当時すでに故人だった者も含めた国芳一門の名が刻まれているが、そのなかに芳虎の名は見当たらない。芳虎は国芳に破門されていたので、国芳一門の内に入れられなかった。作画期は現在のところ、一枚絵では明治12年の「東京新開名勝図会蓬莱橋家族銀行」、版本挿絵では明治15年(1882年)5月刊行の『楠公一代記』、『清正一代記』が最後で、それ以後の消息と没年については不明である。河鍋暁斎の『暁斎画談』外篇・巻之上では、芳虎は歌川芳員の上に乗り掛かって暴れている様子が描かれており、気性の荒い人物だったと伝わる。門人には永島春暁、歌川虎香がいる。
出典:wikipedia
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