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佐伯好郎

佐伯 好郎(さえき よしろう、明治4年8月1日(1871年9月15日) - 1965年6月26日)は、日本の言語学者(英語学者、西洋古典学者、ローマ法学者、東洋学者・東洋宗教史家。キリスト者でもある。英語名はピーター・(ヨシロウ・)サエキ。広島県出身。言語学・法学・歴史学など複数分野にまたがる西洋古典学の研究・教育で大きな業績を残したが、特にネストリウス派キリスト教(景教)の東伝史に関する研究で国際的に有名になり「景教博士」と称された。また日ユ同祖論の最初期の論者としても知られる。戦後は故郷・廿日市の町長を務めるなど、戦災や原爆で荒廃した広島県の再建に尽くした。広島県佐伯郡(現・廿日市市)で父・友七と母・トヨの間に生まれる(生家は厳島神社神主職を務めた佐伯氏の流れをくむとされる)。長じて上京し東京専門学校(現・早稲田大学)に入学して英文科(法律科とする説もある)に学び、1890年(明治23年)に卒業した。この間、19歳の時英国聖公会の東京築地教会で洗礼を受けキリスト教徒となった。卒業後、1893年アメリカに渡航したのち、当時英領であったカナダに移りトロント大学で言語学を専攻して英語・古典語の習得につとめ1895年卒業した。翌1896年に帰国した佐伯は、母校・東京専門学校および和仏法律学校(現・法政大学)などの英語科に出講し、正宗白鳥らの学生を教えた。その後彼は矢田部良吉に認められ、1897年春、高等師範学校(現・筑波大学)に招かれ講師となった。しかし1899年9月には同校を辞職し、かねてから尊敬していた内村鑑三が校長を務める独立女学校(現・東海大学付属望洋高等学校)の教頭となった。また内村が主筆をしていた東京独立雑誌の社員になった。しかし佐伯はほどなくしてある問題で内村と正面衝突し1902年には同校を退職、再び東京高師の講師に復帰して同校の附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の英語科主任となり、鳩山一郎らを教えた。その後1907年〜08年の欧州視察を経て1913年(大正2年)には第五高等学校(現・熊本大学)教授、1916年以降東京高等工業学校〈現・東京工業大学〉で教鞭を執り、1922年より明治大学法学部で講師として新設の羅馬法講座を担当した。英語教育のかたわら、佐伯は日清戦争を契機としてネストリウス派キリスト教(景教)の研究を志すようになり、1904年、33歳のとき英語学から中国学への転向を決意、1911年には景教研究の最初の著作『景教碑文研究』を刊行した。1931年(昭和6年)東方文化学院東京研究所(戦後東京大学東洋文化研究所に吸収)の研究員となり(〜40年)、同年、北京でシリア語の詩編の碑石を発見し、1935年『景教の研究』を刊行した。1941年1月には東京帝国大学(現・東京大学)から、景教研究により文学博士号を授与され、1943年それまでの中国キリスト教史研究の集大成といえる全5巻の大著『支那基督教の研究』を刊行した。学位論文の題は 「支那に於いて近頃発見せられたる景教経典の研究」第二次世界大戦末期の1944年より戦災を避けて故郷・廿日市町に疎開していた佐伯は、戦後の1947年1月、既に老齢(76歳)に達していたにも関わらず同町の町長に選ばれ、1956年9月まで在任した。同時期には、広島在住の文化人により同じく1947年9月に結成された「日本文化平和協会」の副会長に選ばれ、原爆投下により灰燼に帰した近隣の広島市の再建についていくつかの助言を行った。その一方で1952年頃犬塚惟重を会長として結成された「日猶懇話会」に顧問として参加するなど、多彩な活動を展開し、最晩年の1962年10月には日本人として3人目の「早稲田大学名誉博士」となった。1965年6月26日、老衰の上に肺炎を併発し廿日市の生家にて94歳で死去した。佐伯の宗教史研究は比較宗教学者マックス・ミュラー(アーリアン学説の提唱者)の影響を受けたものであり、彼の景教東伝史研究は、英語の著書も刊行されたことから日本国内のみならず国際的にも高い評価を獲得した。この結果、佐伯はその後長く景教史研究の国際的権威とみなされることになった。しかしその一方、1908年の論文「太秦を論ず」で発表された「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、古代日本の渡来人系有力氏族・秦氏の本拠地であった京都・太秦の地名・遺跡などを根拠としながらもほとんど語呂合わせ的なものであり、当時の歴史学界ではほとんど相手にされなかった(現在も否定されている)。彼の日ユ同祖論(日本人・ユダヤ人同祖論)を主張する人々からは、同祖論を学術的に根拠づけるものとして歓迎されたが、晩年、弟子の服部之総に「在来の、日本的に矮小な開発計画では駄目だ。ユダヤ人の大資本を導入してやろう。それにはユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」と、同祖論が単なる功利的な「企画」であることを語り、服部を仰天させた。幼少時は「神童」として知られ、1885年(明治18年)、明治天皇が山陽道巡幸の過程で廿日市に立ち寄った際に氷水の献上役を務めた。また学者らしからぬ度胸の持ち主で、晩年、廿日市町長であった時には、暴力団員のような若者が脅迫のため押しかけたさいに「ケンカなら外でやろう」と近隣の天神山の石段下まで連れて行きその男を辟易させたという逸話が伝えられている。すべてP.Y.Saeki名義。

出典:wikipedia

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