皆与志町(みなよしちょう Minayoshi-Chō)は、鹿児島県鹿児島市の町名。旧日置郡鹿児島近在比志島村及び鹿児島郡鹿児島近在皆房村、鹿児島郡伊敷村大字比志島及び鹿児島郡伊敷村大字皆房(かいぼう)の全域。郵便番号は891-1206。人口は1,512人、世帯数は485世帯(2010年2月末現在)。鹿児島市北部、甲突川の中流域に位置している。町域の北方には東俣町、北方から東方にかけては本名町、南方には岡之原町、花野光ヶ丘、犬迫町、東方には岡之原町、西方には川田町がそれぞれ接している。町域の中央部に鹿児島市立皆与志小学校、南部に鹿児島県立皆与志養護学校が所在している。中央部を南北に比志島川が流れており、南端にて甲突川に合流している。集落は皆房、無田平、下組、比志島、菖蒲谷、転住、中組、塚谷がある。古くは比志島は鎌倉期より見え、薩摩国満家院のうちであり、江戸時代以前、比志島村は日置郡に属し隣接する郡山地域及び小山田村と共に満家院を構成していた。皆房は古くは室町期より見え、薩摩国鹿児島郡のうちであり、寛正6年の鹿児島諏訪社祭次第では「五番 <己丑年> 有馬 <皆房之村>」あり、この頃より皆房という地名が見える。比志島は戦国期までは比志島氏、戦国期以後は島津氏直轄領となった。比志島、皆房両村ともに江戸期には薩摩国鹿児島近在のうちであった。但し、比志島村は日置郡に属していた。比志島村の村高は「天保郷帳」では1,113石余、「旧高旧領」では956石余であり、皆房村の村高は「天保郷帳」では152石余であった。天保年間に一度皆房村が比志島村に編入され、明治初期に再び皆房村を分村した。1889年(明治22年)には町村制が施行されたのに伴い、上伊敷村、下伊敷村など周辺8村の区域から伊敷村が成立し、江戸期の比志島村は伊敷村の大字「比志島」となり、皆房村は伊敷村の大字「皆房」となった。1950年(昭和25年)に伊敷村が鹿児島市へ編入されるのに伴い、皆房と比志島は統合され、鹿児島市の町名「皆与志町」となった。1992年(平成4年)には皆与志町の一部より花野光ヶ丘一丁目及び花野光ヶ丘二丁目が設置された。市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる。
出典:wikipedia
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