ピーター・ウォー("Peter Warr" 、1938年6月18日 - 2010年10月4日)は、イギリス出身のレーシングチームのマネージャー。F1のロータス、ウルフ、フィッティパルディを指揮した。レーシングドライバーとしても活動し、日本グランプリの初代優勝者として名を残す。1938年、当時ペルシャに赴任していた両親の元に生まれる。学生時代は英国で過ごし、その後1956年から1958年まで英国陸軍に入隊(英国の徴兵制度最後の世代である)。1958年の除隊後、自宅近くのロータス社屋を見学しに行き、その場で誘われて入社する。ロータス・コンポーネンツ(レーシングカー販売部門)のセールスマネージャー兼社員レーサーとして各地のレースに参加。日本グランプリには2年続けて来日し、第1回大会(1963年)はロータス・23に乗って国際スポーツカークラスで優勝。第2回大会(1964年)はロータス・27に乗ってJAFトロフィーで2位。その後レーサーとしての活動を終える。1966年、ロータス本社がロンドン近郊のハートフォードシャー・チェスハントからノーフォークに移転することを決めたときに、「田舎に引っ越す」ことを躊躇してロータスを辞するとともにレースからも引退、ロンドンにて模型屋(スロットカー・レーシングの店)を営む。1969年、前任者のアンドリュー・ファーガソンが辞することから誘いを受け、ロータスのチームマネージャーとして復帰する。1976年末にロータスを離れ、ウルフチームのチームマネージャーに就任する。ウルフチームは1979年に解散し、チームを買収したフィッティパルディ・チームのマネージャーを1981年まで勤めるが、同年11月にロータスに復帰する。1982年にロータスの創始者コーリン・チャップマンが急逝すると、マネージャーとしてチームを指揮。1983年には、デザイナーのジェラール・ドゥカルージュ獲得、1985年には有力若手ドライバーのアイルトン・セナと契約、1987年には、キャメルブランドのR.J.レイノルズとスポンサー契約および、ホンダのターボエンジン獲得などの実績を残す。1989年にチーム社長のフレッド・ブッシェルがデロリアン疑惑で逮捕されると、シーズン途中に辞任してチームを離れる。FIAの主席競技委員やイギリス・レーシングドライバーズクラブの役員を務めた後レース界から引退し、フランスに移住。2009年4月には鈴鹿サーキットのリニューアルオープン記念イベントに招かれ、ロータス・23の同型車でサーキット内のデモ走行を行った。2010年10月4日、心臓発作によりフランスにて死去。。ロータスのチームマネージャとしては、トールマンと複数年契約をしていたアイルトン・セナを引き抜き、1985年ポルトガルグランプリでチャップマン没後初勝利を果たす。1987年には、セナの要求に応じてホンダエンジンを獲得、中嶋悟をセカンドドライバーに起用した。1988年には前年のチャンピオン、ネルソン・ピケと契約する。一方で、ホンダエンジンを失った1989年には持ち込んだ車のレギュレーション違反を逃れるために予選セッション中にリヤウイングを鋸で切り落とすなどの失態も見られ、評価が分かれるところである。1987年にピーター・ライトが開発したアクティブサスペンションをロータス・99Tに登載して実戦投入した件についても、。また1987年には、当時全車にダミーウェイトが載せられるわけではないためハンディになると知りつつ中継用車載カメラを中嶋悟車に搭載するなど、前衛的な、悪く言えば大味なマネージメントを行うマネージャであった。なお当時の車載カメラは大型で空力的にも不利であり、重量と併せてラップタイムにして1秒近くロスすることになったとも言われており、「ルーキードライバーには酷である」とカメラを取り外すようセナがウォーにかけあったが、すでに契約していたために外せなかったと言われている。ピーター・ウォーは、中嶋悟が当時ロータスチームのスポンサーであったJPSが冠スポンサーをつとめる1982年JPSトロフィーで優勝した時の賞典である、イギリスのドニントン・パークで行われたロータスF1カーテストドライブの際のマネージャーであった。また、前記の通り1987年に中嶋悟がロータスでF1デビューする際のマネージャでもあり、中嶋悟との接点は意外と濃い。ナイジェル・マンセルとは折り合いが悪く、彼がロータスを離れる際「オレのケツに穴があいている限り、オマエは優勝しない」と批判した。マンセルは、その後ウィリアムズに移籍して初優勝を果たし、「今ではきっと、彼はひどい便秘になっていることと思う」と皮肉った。日本食が好き。一説によると中嶋悟に影響されたとも言われている。
出典:wikipedia
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