十段戦(じゅうだんせん)は、読売新聞社が主催していた将棋の棋戦。前身である全日本選手権戦、九段戦(全日本選手権戦)についてもこの項目で記述する。1948年に創設された全日本選手権戦が起源で、1962年に九段戦(全日本選手権戦)を改称して始まり、1987年に発展解消して竜王戦となった。十段戦七番勝負の勝者は十段と呼ばれ、タイトル保持者となる。十段はタイトル名であり、段位ではない(将棋の段級#十段と九段を参照)。予選と十段戦リーグによる。十段位を10期獲得した棋士には、永世称号である永世十段が与えられる(前身の九段戦も含んで数える)。永世十段の資格を持つ棋士は大山康晴、中原誠の2名。なお、塚田正夫は、前身の九段戦で永世九段(3連覇で獲得)の資格を得、失冠後も「塚田九段」と呼ばれ、没後に名誉十段を追贈された。全日本選手権者:木村義雄1948年に第1回「全日本選手権戦」が行われ、10名(塚田正夫名人・A級7名・B級選抜2名)が参加。トーナメント方式による対局を行い、木村義雄前名人・丸田祐三七段の決勝戦の結果、木村が初代優勝者となった。全日本選手権者:萩原淳1949年に行われた第2回全日本選手権戦は12名(塚田名人・A級全員・B級1名)が参加。トーナメントによる各ブロックの優勝者である萩原淳八段・木村義雄前名人・升田幸三八段の3名による決勝リーグが開催された。ところが、全員が1勝1敗で並んでしまったため、2回目の決勝リーグが行われ、結果、萩原が2勝0敗で優勝した(木村が1勝1敗の2位、升田が0勝2敗の3位)。ちなみに、このときの第1次決戦の木村-升田戦が、翌朝4時過ぎまでかかった210手の対局の後に「ゴミハエ問答」が行われたことで知られる金沢決戦である。全日本選手権者:名人九段戦の勝者1950年に行われた3回目となる全日本選手権戦からは名人に次ぐタイトルとして九段が制定された。九段はあくまで名人よりも格下のタイトルと規定され、名人以外の棋士によって争われた。名人は、九段戦五番勝負の勝者との間で名人九段五番勝負を行い、その勝者が全日本選手権者となった。すなわち、全日本選手権戦は、九段戦と名人九段戦を併せた呼称であり、名人九段戦がその決勝に相当するものである。ただし、1952年には九段位にあった大山康晴が新名人になったため、例外的に九段戦五番勝負に名人の大山が出場し、名人九段戦は開催しなかった。代わりに前名人の木村義雄と新九段の塚田との三番勝負が行われ、塚田が二連勝した。全日本選手権者:九段戦の勝者第7期九段戦(第9回全日本選手権戦)からは名人も本戦トーナメントに参加することとなり、名人九段戦は廃止された。また、名人九段戦がなくなったため、九段戦の五番勝負は七番勝負に変更された。制度変更に伴い、第6期九段の塚田のタイトルは返上となり、塚田も本戦トーナメントに参加した。決勝に進出した升田と塚田との間で七番勝負を行い、升田が新九段(全日本選手権者)となった。名人九段戦がなくなり、全日本選手権戦は九段戦のみとなったため、これ以降は九段戦と全日本選手権戦は同一棋戦の別称となった。名人九段戦は五番勝負。1950年九段戦は三番勝負、1951年から1955年までの九段戦は五番勝負。年は七番勝負が実施された時点。○●は名人・九段・十段から見た勝敗、千は千日手、持は持将棋。網掛けの対局者が勝者。リーグの定員は6名、入れ替えも年2名であったことから、リーグ戦入りは難関中の難関といわれた。過去の在籍者もほとんどがタイトル・A級経験者である(しかも、九段と十段の経験者は全員、他のタイトルを1回以上獲得している)。以下に各期リーグ戦の在籍者を記す(左から順位上位、◎は挑戦者、▲はリーグ陥落)。「上位者に有利」と言われたリーグ戦だったが、極めてハイレベルな戦いであったため、大山康晴や中原誠、谷川浩司といった永世名人資格者も陥落の憂き目を見ている。リーグ末期在籍者を除くと、一度もリーグから陥落しなかったのは米長邦雄だけである。第11期リーグでは、升田幸三が3局だけで休場したため、残り7局を指すためのピンチヒッター決定戦を塚田正夫・二上達也・桜井昇で行ない、二上がリーグ入りした。4勝3敗で勝ち越したが、取り決めにより陥落した。
出典:wikipedia
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