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自貢市

自貢市(じこう-し)は中華人民共和国四川省に位置する地級市。四川省の重要な工業基地の一つでもある。特に中国の「三線」政策により内陸のこの地に化学工業が集積した。また、古代よりこの地で産出される「井鹽」(井塩)という塩は貴重なものとして各地へ売られ、製塩業や塩の売買、塩に関係する工業で財をなした富裕な商人が多く住んだ。近代的な製塩技術が導入されるまでは、製塩と塩取引で栄える自貢は中国でも豊かな都市の一つであった。自貢市は四川盆地南部の丘陵部にある。東に瀘州市、西に楽山市、南に宜賓市、北に内江市と接する。市域は東西は119.6km、南北は97.2kmにわたり広がり、面積は4,373平方km、うち市区面積は812.6平方km。市域内は低い起伏の多い丘陵地帯が大半で、地勢は北西から東南へ傾斜し、海抜は250mから500mの間。市街地は海抜280mから400mにかけ広がる。市内の主要河川は長江水系に属し、また沱江の下流部分のうち127kmが市域内を流れる。市街地を流れる川・釜溪河は沱江の主要な支流で、その上流では旭水河や威遠河が合流しており、流域面積は合計3,490平方kmに達する。また市の西では越溪河が北から南に流れており榮県を貫き、岷江水系に属する。これらの河川は、四川省南部で最終的には長江に注ぐ。成都市、綿陽市に次ぐ都市であると同時にその歴史的な背景より国家歴史文化名城に指定されている。市内で発掘された恐竜の化石から「恐竜之郷」の別名が、古代からの製塩にちなみ「千年塩都」の別名がある。自貢の歴史は古いが、「自貢」という地名は近代のものである。1939年、この地域にあった自流井と貢井という2つの古い町が合併して市となり、頭文字をとって「自貢」という名になった。この2つの町の地名は、今も自流井区と貢井区という市轄区の名に残っている。どちらも塩水を採る井戸にちなんだ地名であり、製塩業で栄え、豊かな塩商人の活躍する町であった。自貢では深い井戸を掘って濃い塩分を含んだ地下水をくみ上げ、乾燥させて塩を取り出す製塩業が古代から盛んであった。こうした塩は「井鹽」(井塩)と呼ばれ、塩分の補給や野菜などの食物の保存のために飛ぶように売れた。近代に入り西洋の製塩技術が導入され、海の塩や岩塩が輸入されるようになり、1930年代を最後に製塩は下火になった。しかし古来の製法の製塩井戸は今も残り、四川の井塩は味のよさから最上級の塩として珍重されている。「塩都」と称される自貢において、井塩の生産は後漢の頃にはすでに行われ、富裕な塩商人による繁栄は清末期および中華民国初期まで続いた。明末期から清の初期にかけ、自貢のある四川の地は、張献忠による反乱と住民に対する殺戮、清軍と張献忠軍との戦い、南明と清の戦い、三藩の乱などの戦乱が30年以上にわたり続き、荒廃が進んだ。人口の激減した四川には華北のほか、湖北省・湖南省・広東省などからの移民数百万人が流入したが(湖広填四川)、さらに順治帝の五年には疫病、干ばつ、大飢饉が起こった。自貢の城内外には虎が出没して人を襲い、特に現在の富順県の街は虎や豹が跋扈し人の姿が見えないほどとなった。自貢に属する榮県は、中華民国や中華人民共和国の重要な指導者であった呉玉章の生地であり、近代革命の最初の震源地でもあった。榮県は旧王朝体制下で独立を宣言している。1911年に中国に帰国した呉玉章も四川に赴き、粵漢鉄道の国有化に反対する「保路運動」を指導し榮県独立を画策し、辛亥革命に向けての反政府運動のきっかけとなった。また発足間もない中華民国にとって、塩の専売化による大きな収入は、外国からの借り入れの際の担保として重要であったが、当時の中国で最もよい塩は四川の塩であり、四川の中でも自貢の井塩が最高品質の塩であった。1939年8月、四川省政府は主要な製塩地帯であった富順県第五区及び栄県第二区を統合し新に自貢市の設立を決定、9月1日に正式に成立した。当時は日中戦争が激化していた時期であるため、市成立直後の10月10日から1941年8月19日にかけての2年間、日本軍は7度にわたり自貢を空襲した。この間、自貢は大きな被害を受けたが、自貢に設置された高射砲が日本軍の爆撃機に対抗した。日中戦争では日本軍の爆撃を受け被害の大きかった都市でもある。また国民党軍の記録によれば、日中戦争を戦うための寄付金が最も多く寄せられた都市でもある。市内を流れる釜溪河の北岸にある「還我河山」の文字は、自貢の富裕な商人から戦費の寄付を受け取ったことをきっかけに、国民党軍の著名な軍人である馮玉祥が親筆をしたものである。1950年代に鉄道が通り、1970年代末から新市街の近代化が始まり、1990年代に入り近代化の勢いが加速した。旧市街はかつての「塩の都」であり、今も工業と農業が営まれる。一方、新市街は中国各地からの観光客のための施設が多い観光の町である。自貢で有名な高等教育機関は理科系大学の四川理工学院である。前身は華東化工学院(現在の華東理工大学)であり1965年に戦争に備えて内陸部に移転したが、1983年に四川化工学院、後に四川軽化工学院となった。2004年、自貢師範高等専科学校と自貢教育学院と合併して現在の四川理工学院となった。周辺にはハイテク工業団地も建設されている。などが自貢を代表する見どころである。自貢の「大山鋪恐龍化石群遺跡」は、中国で見つかった中でも最大級の恐竜化石群であり、面積は17,000平方mあまりに達する。1980年代、自貢市街地の西7kmにある大山鋪地区で大きな化石が発見され、そのうちのジュラ紀中期の竜脚下目に属する新発見の恐竜には、大山鋪(Dashanpu、ダーシャンプー)の名をとって Dashanpusaurus (大山鋪龍)と名づけられた。保存状態がよく興味深い化石が発見されるため、この地は世界の恐竜学者の関心を引いた。1987年にはアジアでも最初の恐竜博物館である自貢恐竜博物館が大山鋪に設立された。現在も大山鋪での発掘は続いており、恐竜や進化の歴史の解明に寄与している。これまで発見された恐竜には、オメイサウルス(Omeisaurus)、ギガントスピノサウルス(Gigantspinosaurus)、ヤンチュアノサウルス(Yangchuanosaurus hepingensis)、ファヤンゴサウルス(Huayangosaurus)、シャオサウルス(Xiaosaurus)などがある。自貢の燈会(ランタンフェスティバル)は唐代より続き中国国内でも伝統がよく保存されているもののひとつであり、北京や上海、香港、中国各地、東南アジアなどで近年行われるようになったランタンフェスティバルの原型でもある。年一度、農暦の正月(元宵節)の開始と同時に行われ、普段は静かな自貢に中国国内外からの観客が多数集まる。その他の観光地には次のようなものがある。4市轄区・2県を管轄下に置く。

出典:wikipedia

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