ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ Михаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов,(1814年10月15日(グレゴリオ暦)/10月3日(ユリウス暦) - 1841年7月27日(グレゴリオ暦)/7月15日(ユリウス暦))は、帝政ロシアの詩人、作家。スコットランド系の小地主貴族、退役陸軍大尉を父としてモスクワに生まれる。3歳で母を失い、母方の祖母に育てられた。モスクワ大学に2年間在学して中退し、サンクトペテルブルクの近衛士官学校を1834年に卒業後、近衛軽騎兵少尉に任じられ、ペテルブルクの上流社会に入った。レールモントフは早くから作品を書いていたが、有名になったのはプーシキンを決闘に追いこんだ宮廷貴族への憎悪に貫かれた詩《》(、1837年)以後である。"復讐を、陛下よ復讐を!"との叫びが入ったこの詩は筆写されて流布し、転任の形式でカフカスへ流される原因になったが、カフカスにおいて彼の才能はむしろ開花した。祖母の奔走により1年足らずで首都に戻ることはできたが、危険人物として政府に監視されることになる。フランス公使の息子との決闘事件のため、1840年に再びカフカスへ転任を命じられた。以後彼は軍務を厭うが、刑罰としての辺境勤務は自発的な退職を許されなかったため、絶望した詩人は山地民族討伐において命を惜しまず戦った。「できるだけ早く死にたいのだ」と2度目のカフカスへの出発のさいに友人に語っていたこともあり、死に場所を求めていたことが推測される。レールモントフに好意を寄せる上官は、〈勇敢〉のかどで再三賞与の申請をしたが、当局はそのたびごとに却下した。きわめて些細なことが原因で同僚士官マルトゥイノフ(Martynov)と決闘をして、ピャチゴルスクで死んだ。1825年のデカブリストの反乱に参加するには若すぎ、その後のニコライ1世の反動政治への押し殺された怒り・幻滅と疑いなどの気分が、レールモントフを雄々しくも近代的な憂愁を帯びた詩人としている。同時代ではイギリスのバイロンへの同感をもち、より以上に率直な深い洞察があったために、小説の中で自分と同じように絶望した人間を描き、プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』の登場人物〈オネーギン〉に続くロシア・インテリゲンチャの「余計者」()の典型を創造することができた。しかし彼自身は何の慰めも、献身の対象も得られないままに死んだ。デカブリストでカフカスの流刑者オドーエフスキー公爵に捧げられた詩に「君が死にのぞんで語った言葉を、耳傾けた者は一人として悟らなかった。君の、終わりの言葉にある深く苦い心は失われた…」とある。上記の他
出典:wikipedia
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