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高松空襲

高松空襲(たかまつくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月4日の午前2時56分から午前4時42分にかけてアメリカ軍により行われた香川県高松市に対する空襲(戦略爆撃)である。この空襲では連合軍のアメリカ軍の爆撃機・ボーイングB-29およそ116機が用いられ、爆撃を受けた高松市では空襲警報が解除された後の不意打ちであった。1945年7月3日午後4時23分(日本時間)、マリアナ諸島のグアム・サイパン・テニアンの3島4基地から、姫路・徳島・高知、そして高松への爆撃のため501機のB-29爆撃機が出撃し、硫黄島を経由して、それぞれの都市へと向かった。翌日未明、116機のB-29が高松市の上空に飛来。午前2時56分から同4時42分まで、焼夷弾などの爆撃を続けた。市街地の約80%が焦土と化し、1359人が死亡。高松赤十字病院は、絨毯爆撃によって全焼。入院患者は当直していた従業員の看護婦、医師等と共に全滅したとみられる。高松市立四番丁小学校も全焼。校歌には、1000名の小学校と歌われている。当時、香川県には木太郡林村の高松飛行場(後の旧高松空港)に明野教導飛行師団の戦闘機隊(五式戦装備)と第10飛行師団隷下の飛行第28戦隊(百式司偵装備)が、三豊郡詫間には海軍の水上機部隊が駐屯していた。しかし詫間の部隊は水上偵察機や飛行艇の部隊で迎撃戦は不可能であり、さらに陸軍部隊は戦力温存の方針で迎撃戦を行わなかった。だが海軍の大村飛行場を本拠地とする第三五二海軍航空隊の築城飛行場派遣隊(月光装備)が高松空襲の迎撃に出ており、1機の未帰還機を出している。空襲では高松市中心部以外にもその周辺地帯や軍用施設が立地していた郊外にも及んだ。屋島東町の被災は屋島山頂にある獅子霊巌の部分である。またこの地区の空襲は国道21号(通称・観光道路、現・香川県道155号牟礼中新線)の高松町字帰来付近にあった屋島飛行場を狙ったと思われるもので、現に高松空襲を行った第58航空団の攻撃目標には陸軍林飛行場(Takamatu)と陸軍屋島飛行場(Kirai Airfield)も含まれていた。ただ、これらの施設の損害について後にまとめられた米軍の報告書「第21爆撃隊本部作戦任務報告書」でも目視による損害なし(Non visible)とされており、実際にも被災は無かった。戦後30年経った1975年8月、高松病院南側の市道()で行われていた道路工事中に、地中から抱き合った母子の白骨死体が見つかった。母子は付近に住んでいた35歳の母親と3歳の長男で、空襲で亡くなったと判明し、後日現場では慰霊祭が営まれた。高松空襲に際して米軍が決定したMPI(爆撃中心点、)は現・国道11号高松北バイパスと高松中央商店街が交差する地点(→)。そこから半径4000フィート(1200m)の範囲が確率誤差円(照準円)であり、この範囲に高松市の重要部分が収まるように設定された。焼け残ったのは主に強固な鉄筋コンクリートで建造された建物で、被災区域との境目に当たる市街地外縁では木造建築も多く残っている。高松市は主要115都市に施行された戦災復興都市計画の対象となり、その一環として空襲によって灰燼に帰した中心市街地の大部分で区画整理が行われた。区画整理の施工面積は358.2ha(358万1838m²)に及び、3工区3次に分けて行われた。施行区域は塩屋町、福田町、古馬場町、片原町、今新町、大工町、桶屋町、御坊町、百間町、北古馬場町、野方町、丸亀町、外磨屋町、南紺屋町、古新町、兵庫町、一番丁、二番丁、三番丁、四番丁、五番丁、六番丁、七番丁、八番丁、九番丁、十番丁、天神前、田町、東瓦町、西瓦町、新瓦町、北亀井町、南亀井町、旅籠町、中新町、南新町、南鍛冶屋町、鶴屋町、本町、内磨屋町、上横町、通町、工町、八坂町、南瓦町、東田町、塩上町、寿町及び西内町の全域並びに築地町、新塩屋町、井口町、新通町、西通町、西新通町、内町、浜ノ丁、東浜町、新材木町、魚屋町、新湊町、玉藻町、宮脇町、松島町、花園町、栗林町、桜町、藤塚町、中野町、西の丸町、北浜町及び幸町の各一部である。区画整理の最終的な完工となる換地処分を終えたのは終戦から25年後の1970年(昭和45年)であった。この区画整理によって江戸時代の城下町の都市構造を受け継いだ道路・街区はことごとく再配置され、中央通りや観光通り、県庁前通りなどが拡幅あるいは新たに作られた。故に戦後から現在に至るまでの高松市中心部の道路・景観などはこの時に作り出されたものである。中でも中央通りは以降高松市のメインストリートとなる通りであるが、計画当初100mであった幅員はその後50m、そして市民の反対によって現行の36mと度重なる縮小を余儀なくされた。また、高松の戦災復興土地区画整理事業の特徴として一つひとつの街区規模が比較的小さく、細い街路が密度高く配置されているため土地が細分化されており、大規模な建築物が需要を増した現代の土地利用ニーズには必ずしも合致していないなど、後世の評価においては問題点も指摘されている。市街地に隣接し空襲被害を受けていながら戦災復興土地区画整理事業の対象とならなかった松島町周辺では、高松市が施工主となった松島土地区画整理事業が福岡町、松島町、花園町及び観光町の各一部に施工された。この区画整理は戦災復興土地区画整理事業とは別の事業として施行されたが、市街地との連続性や空襲被害を受けた地区であること、施行時期も戦災復興土地区画整理事業と同時(1954年-1974年)であることから事実上都心部と一体の区画整理となった。1952年高松復興都市計画図に記された計画は以下の通り。実現実現したが当初の計画とは異なるもの非実現

出典:wikipedia

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