八木(やぎ)は広島県広島市安佐南区の地名。一丁目から九丁目までが設置されている。郵便番号731-0101。2010年11月30日現在の人口は13,724人。八木は広島市域のほぼ中央に位置しており、町の中心に国道54号とJR西日本可部線が南北に走っている。八木3丁目に梅林駅、八木8丁目に上八木駅がある。山陽自動車道広島ICに近く、交通アクセスに優れる。南に緑井、東に川内、北に可部、西に安佐町が接する。阿武山(586.4 m)一級河川太田川、古川古の養義郷。935年の「倭名類授賞聚抄」には養我と書かれており、平安期以降に八木と呼ばれるようになった。大昔から極秘とされ窺い知ることのできない、得難い秘伝の謡や曲(『八木邑伝の大躍五番六調子』)が八木村にはあり、いつの頃からか雨乞いの祈願として使われるようになり名高い三種の雨乞い法があった。極秘にするあまり知るものが少なくなったため、大正6年80歳以上の老人が集まり村の若者に教え込み、光広八幡神社の大祭日である八朔に踊られた。かつて太田川は、阿武山の麓に環り流れていた。延喜2年の洪水の時、今井田の障子岩倒れで水勢川筋が移り現在の位置となったと伝えられている。出雲国につながる雲石街道、太田川の水運によって、古くより陸上交通、水上交通で大きな役割を果たしている。1221年の承久の乱で活躍した香川経景が褒賞として安芸国八木を与えられ、その子香川景光が八木城(現在の城山地区・八木5丁目)を築城した。その後毛利元就によって太田川を守る要塞となった。明治の廃藩置県で広島県沼田郡八木村になり、1955年に緑井村、川内村と合併して安佐郡佐東町が発足(国道54号佐東バイパスの名称は、この佐東町に由来)。1973年、広島市と合併して広島市佐東町になり、政令市に移行して広島市安佐南区八木となった。近年、トイザらス(広島1号店)、エディオン、ヤマダ電機、ユニクロなど、郊外型大型店舗やファミリーレストランチェーンなどの商業施設が多数進出しており、一大商業エリアを形成している。そごう八木店(サンホームズ)もあったが、そごう倒産による民事再生手続によって閉店した。2014年8月20日、豪雨による土砂災害が発生した。これにより、大きな被害を与えた。※昭和後期ごろまで警鐘台そばに太田川遊園地が営業しており、その近くには広島大学の馬術練習場があった。鉄道バス道路承久3年(1221年)、承久の乱の戦功によって、経景は安芸国八木を、義景は安芸国山県郡戸谷を賜わる。義景は、兄経景の長男である香川平太景光と共に、一門家の子郎徒を引き連れ、相模国から、八木山の裾野に太河に突き出したような山へ城(八木城)を築いた(貞応元年三月三日)。太田川の守り・要塞となった八木は繁栄した。安芸武田氏の滅亡後、毛利氏一門となり香川光景が家臣として活躍。毛利水軍の一角(川内水軍)も担って、多くの戦に参加して功績を上げた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで敗れた香川氏は周防国に移封され八木城は廃城。香川氏は岩国吉川氏の家老職となる。そこで香川正矩は『陰徳記』を記した。その次男の景継は延宝元年(1673年)、宣阿として『陰徳記』の加筆・修正を行い『陰徳太平記』を出版するなど、「梅月堂」と称する歌人として京(京都)の徳大寺家に仕えた。その子孫も代々徳大寺家に仕え、著名な歌人を輩出している。香川正経(正恒)は、現在も岩国市に残る「香川家長屋門」を建て、香川景晃は文化3年(1806年)、今津・室の木沖干拓事業を進め、「麻里布開作」と名付け、岩国を海上交通や物流の拠点とした。また、文人・歌人としての家系である香川氏らしく、国文学者や歌人としても活動。岩国市藤生の「松巌院」には、景晃の書が遺っている。
出典:wikipedia
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