志賀越道(しがごえみち)は、京(京都)の七口である荒神口から、近江に至る街道。志賀の山越とも。室町時代には今路道(今道越)とも呼ばれ、近世の文献には山中越の呼称も見られる。京都府道・滋賀県道30号下鴨大津線の通称とも認識されるが、山中村(現在の滋賀県大津市山中町)以東のもともとの経路は崇福寺(志賀寺)近傍を経てに滋賀里へ出る道である。田の谷峠を経て錦織に至る現在の県道30号の経路は、1570年(元亀元年)年『多門院日記』においてその開削が伺われ、後の1881年(明治14年)の『近江国滋賀郡誌』には「白川越新路」として記されており、間道として活用されてきた。現在はこちらを通るルートが採用されている。また、京都側についても、府道30号が下鴨本通を起点として昭和初期に整備された御蔭通を東に進むのに対して、志賀越道は荒神口から鴨川を渡り、そこから北東に進み、いったん京都大学の本部構内で分断されるが、今出川通・白川通と交差し、北白川仕伏町にて上記御蔭通(府道30号)と合流する。ほぼ東西に走る横通りと南北に走る縦通りの交差によって碁盤の目状の街路となっている京都において、珍しく斜線状に延びている通りのようにみえるが、この街道は平安京の域外において古くから西近江と京を結ぶ交通路であり、近代から現代に掛けて拡大した市街地に取り込まれた結果であるに過ぎない。古くから京と近江方面を結ぶ内陸交通路として栄え、室町時代の『建内記』には「今路道下口」という率分所が設けられたとある。織田信長の入洛に際しては事前にこの街道の整備が命じられたが、その後、近江との主要交通路が三条街道(東海道)に移ることにより街道としては寂れてしまった。先述の京都大学吉田キャンパス(本部構内地区)による通りの中断は、幕末期における尾張藩下屋敷の新築に由来しているが、このことからみても当時既に街道としての重要性を失っていたことが分かる。
出典:wikipedia
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