東沙諸島(とうさしょとう)またはプラタス諸島(Pratas Islands)は、南シナ海の香港の南東約340kmに位置する東沙島、北衛灘、南衛灘および周辺の環礁により構成される環礁群である。中華民国が実効支配しており、台湾では東沙環礁国家公園に指定されている。東沙諸島には、「東沙環礁」、「南衛灘環礁」、「北衛灘環礁」の3つの珊瑚環礁が存在する。東沙環礁は、島(東沙島)と水路がある円形の典型的な環礁で、南北約80km、海域面積約5,000m²ある。南衛灘と北衛灘も円形の環礁である。東沙島以外の環礁は、干潮時には海面上に姿を現しているが満潮時には水没するため、国際法上の「島」ではない。東沙島は元々無人島であったが、現在は領有権主張のため多くの台湾軍関係者が常駐しており、宿泊施設やテニスコート、飛行機の滑走路も建設されている。古くは明代の記録に現れるとされ、これをもって中国人による東沙諸島の開発と経営の開始であるとされる。1730年、清は東沙諸島を版図に編入し、広東省恵州の管轄とした。しかしその後は、わずかな漁民を除き長く無人であった。1907年になると、日本人が入植し事業を創め、日本政府に日本領台湾への編入を申請するに至った。このような動きに対し、1909年には広東省水師提督の李準が東沙諸島を訪れ、日本政府への抗議を行った。清との関係悪化を恐れた日本政府は、同年に清による東沙諸島の領有を確認し、李準は領有を示す建築物、碑、廟などをこの島に建設した。第二次世界大戦時には日本軍が施設を置いたが、戦後の1945年に、連合国の一員で戦勝国となった中華民国政府はこの島を広東省の管轄とし、1949年には海南特別行政区の管轄とした。1949年10月、国民政府が遷台すると、この諸島は太平島とともに中華民国政府の管轄下にとどまった。1979年に高雄市の管轄へと正式的に確認されたが、中華人民共和国では広東省の管轄としている。陳水扁政権の一連の動きに繰り返し抗議していた中国政府は、2008年中華民国総統選挙にからみ台湾の内政が激しく対立していた隙をついて、2008年4月に東沙島からわずか1kmの海上に大量の中国漁船団を向かわせ、貨物廃船を使った2万8千平方メートルの漁船基地を構築した。30人が常駐可能な簡易基地が突如出現したことは台湾国民に衝撃を与え、基地は海岸巡防署員らによってただちに撤去された。中国よりの発言や政策を提唱して当選を決めていた馬英九次期(当時)総統は、弱腰外交姿勢を厳しく糾弾されて自身の発言や政策の修正を余儀なくされた。2015年現在、東沙諸島は台湾が実効支配している。行政院海岸巡防署が管轄し、2007年10月に設立された海洋国家公園管理処が管理に当たっている。また台湾と対立する中国も領有を主張している。ウェブを中心に、第二次世界大戦中にこの島が日本軍により占拠され、新南群島の一部として西沙諸島等とあわせて平田群島(ひらだ-)と改称され、高雄州高雄市の管轄とされた、との記述がしばしば見られる。しかし、これは誤りである。実際には、「平田群島」との命名は、この島を日本人による新発見の島、と誤って伝えた第二次大戦前の新聞記事に端を発するものである。つまり、そもそも東沙諸島に対しての命名ではない。また言うまでもなく、この「新島」の発見が公式に認められた事実はない。なお「平田群島」とされたのは現在の西沙諸島であり、この中の「西沢島」と命名された島が東沙島にあたるとの説もある。第二次大戦前から戦中に至る日本の公式見解では、東沙諸島および西沙諸島と新南群島は明確に区別されており、新南群島の一部に含まれていたという事実はない。また同期間においては、一貫して中華民国(汪兆銘政権)の領有とされており、日本が領有を主張した事実はない。このような誤りが広まった原因は不明である。東沙島は約2,800m×860m、陸地部約1.74km²、潟湖面積は約0.64km²の島で、淡水があり樹木に覆われている。東沙諸島唯一の島で、南海諸島の中でも代表的な島である。現在は多くの建築物のほか滑走路も建設されている。台湾が実効支配しているが、中国以外の国との領有権争いはない。2010年9月この島が外国メディアに公開され、軍や海岸巡防署および海洋研究の関係者が、100人以上常駐していると報道された。立栄航空が毎週木曜日に高雄国際空港便を1便運行している。また、台湾空軍のC-130輸送機が補給のために飛来する。東沙空港の滑走路は、全長1,550mである。空港は現在、東沙島と台湾本島を連絡する重要な交通手段である。東沙群島の郵便番号は「817」である郵便局は中華民国国軍郵局「67局」
出典:wikipedia
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