小出 秀政(こいで ひでまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。豊臣秀頼の傅役の1人。和泉岸和田藩主。出石藩小出氏初代当主。尾張国愛知郡中村に、織田氏の家臣小出政重(正重)の長男として生まれた。豊臣秀吉とは同郷で、正室は秀吉の母大政所の妹・栄松院であり、秀政は秀吉の叔父(叔母婿)にあたる。甥の立身に伴ってその家人となった。天正10年(1582年)10月22日、播磨国姫路城の留守居とされた。天正13年(1585年)、和泉岸和田城3万石の所領を与えられた。慶長元年(1596年)、豊臣姓を下賜された。慶長3年(1598年)3月、醍醐の花見のときに秀吉の正室高台院に随伴した。8月、秀頼の補佐を依頼され、片桐且元ら傅役5名の内の1人になった。秀吉の死により、金30枚を受領した。秀吉より統治を委託された内府徳川家康と、五奉行の石田三成との抗争が始まると、秀政は病を称して閑居した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、次男秀家を家康に付き従わせた一方で、長男吉政には西軍に与させた。秀政は大坂城留守居で秀頼と共にいたが、吉政が率いる小出勢は、東軍に与した細川幽斎の守る丹後国田辺城の攻撃に参加した。このため、本来ならば戦後に処罰されるはずであったが、秀家が東軍に属して関ヶ原本戦で活躍したため、所領を安堵された。慶長9年に没す。享年65。法名は本光院陽雲日政大居士。
出典:wikipedia
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