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国鉄70系電車

国鉄70系電車(こくてつ70けいでんしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)で運用された旧形電車形式群の総称である。横須賀線・京阪神緩行線・中央東線など通勤と中距離の輸送性格を併せ持った路線用に開発された3扉セミクロスシート車。1951年から1958年にかけて、中間電動車モハ70形および低屋根構造で歯車比の異なるモハ71形・制御車クハ76形・2等車のサロ46形(後のサロ75形)の4形式合計282両が製造された。本系列に類する20m3扉車の新造計画については、戦後間もない時期から存在していた。その後計画が整理され、本系列は横須賀線と京阪神緩行線への投入が決定。3扉セミクロスシート車とされた。本系列の製造開始は80系2次車の登場後だったためクハ86形2次車と同様、前面2枚窓の「湘南形」とされた。車体および座席のレイアウトは戦前型の51系をベースに製造されたことから3扉セミクロスシートとされたが、2等車(のちの1等車→グリーン車)は2扉クロスシートで製造された。また、東海道本線(湘南電車)に比較すると乗車距離の短い横須賀線向けとされたことから、湘南電車80系のサロ85形とは異なり、70系の2等車は横須賀線在来車の32系サロ45形と同様にデッキと客室との仕切は未設置とされた。基本的に同一系列のみで編成組成することを前提とした80系とは異なり、横須賀線では32系・42系と、京阪神緩行線では51系・72系と、中央東線では72系との混結がそれぞれ実施された。長編成での使用を想定していなかったことや他系列との混結が前提であったことから編成上の車両数を充足していた3等付随車は製造されていない。初期には床や屋根が木造の半鋼製車であったが、1954年度には屋根を鋼製化、さらに1957年度製造の最終グループは全金属化され300番台を付番された。この他に国電初の全金属車・モハ71001が存在する。前面スタイルの特徴は80系に類似するがメカニズム面では72系に近い。だが駅間距離の長い区間での高速運転も考慮して、モハ70形の歯車比はモハ80形・モハ54形と同一の1:2.56に設定された。以下で解説を行うが、設計図だけで終了した2・3等合造車のクロハ75形が計画されていた説も存在する。本系列の基幹形式となる座席定員72名の中間電動車。モハ70001 - 70097・70101 - 70117・70120 - 70126・70300 - 70319の合計141両が製造された。窓配置は2D6D6D2で扉間にクロスシートを4組ずつ設置は51系と共通である。主要機器は以下を参照。さらに製造年度ごとの変化を以下に示す。1951年の新製当時は東京・大阪でジャンパ連結器の引通線の芯数が異なっていたため横須賀線向けを001 - 、京阪神緩行線向けを101 - にそれぞれ番台区分を実施した。その後に仕様が東西で統一されたために番台区分の必要がなくなったが、1957年に京阪神緩行線に投入されたモハ70120 - 70126は再び100番台の車両番号となった。1952年(昭和27年)に登場した中央東線向けの中間電動車。主電動機や主制御器はモハ70形と同一であるが、モハ70形とは以下の相違点がある。当初製造の17両は窓配置がモハ70形と共通であるが、全金属試作車の71001・木造車の鋼体化改造名義の71002 - 71005・新造車の71006 - 71017の3タイプに分類される。座席定員60名の制御車。クハ76001 - 76036・76037 - 76051の奇数のみ・76052 - 76096・76097・76099・76101・76300 - 76315の合計106両が製造された。クハ86形と同様に後位(連結面)側にトイレを設置するが、奇数車では3位側に、偶数車では4位側に、それぞれ配置することで東海道本線でのトイレ位置を海側に統一した。クハ76形の年次変化は、ほぼモハ70形と共通であるが以下に示す。定員64名の2等付随車。1951年・1953年・1955年に合計18両が横須賀線として製造された。通風器は本形式のみ押込式である。2等車であるため車体両端に幅700mmの客用扉を設置し、座席配置はサロ85形やオロ40形と同様の固定式クロスシートを採用。後位側にトイレと洗面所を設けたことにより窓配置はD8D1となったが、窓は高さが3等車他形式と同一の二段窓にしたものの幅はサロ85形と共通となる1,200mm大形窓である。製造年次により以下の相違点がある。本形式では座席の布地に化学繊維を多用していることが特徴である。当時はまだ化学繊維が珍しく、鉄道車両における活用も黎明期であったことから、目新しさを強調することを目的に採用したことがうかがえる。ただし後年に従来のモケット張りに変更された。1959年6月1日の車両称号規程改正による改番でサロ75形に変更された。1957年に横須賀線東逗子 - 逗子間で在日米軍のトラックと衝突して脱線・大破したクハ76005に施工した復旧工事である。1958年に大井工場(現・東京総合車両センター)で300番台並の全金属車体で復旧し、新番号のクハ76351となった。1951年前期製造車(昭和25年度製造)に対して、1959年から1960年にかけて施工した工事で内容はを以下に示す。全形式実施モハ70形クハ76形更新修繕工事と同時にモハ70形のうち4両を低屋根化・歯車比の変更改造を施工してモハ71形に編入した。なお豊川分工場施工の2両はぶどう色で出場し、1961年9月にスカ色へ変更されている。全金属試作車として製造されたモハ71001に対して1962年に施工された内装を中心にした以下の量産化改造である。横須賀線専用であったサロ75形は、地方転出後1等車の需要が減少することから、1965年から1966年にかけて13両にサハ75形(2代)2等車(現・普通車)への格下げ改造が施工された。なお、サロ75形改造車の車両番号は種車のものをそのまま承継する。1967年改造の5両は格下げと同時に先頭車化改造を施工。新形式のクハ75形とされた。これらの改造によって窓割はdD7D1となったほか、当初は3扉化する計画と形式図が存在する。1969年に中央西線および飯田線で運用されていたサハ75形にラッシュ対策のため3扉化改造を施工したための番台区分である。なお手続上の都合で改造と改番は同時ではない。1968年の両毛線電化に際し不足する先頭車対策として横須賀線の編成に組込まれていたサロ85形を3扉化のうえ先頭車化改造を施工し、新形式のクハ77形(2代)として落成させた。種車の関係でサロ85030改造のクハ77006のみ側窓が下降式(その他は上昇式)のほか、これらの改造によって窓割はdD3D31Dとなった。本形式ならびに上述クハ75形は、クハ103-269以降の高運転台車に類似する前面スタイルで、80系のサロ85形やサハ87形を同様に先頭車化改造したクハ85形とともに独特の外観を持つグループとなった。各地域の使用状況に応じた以下の改造を施工。先行した80系は車体塗色を湘南色もしくは関西急電色(クリームとマルーンのツートンカラー)として新製され、系列で統一されて運用されたこともあって塗色バリエーションがごく少ないのに対し、70系は他形式と混結されることが前提であったことから、併結する先行形式に合わせ、新製時から多様な塗色が採用された。  飯田線で流電編成の中間車として使用されたサハ75は、当初湘南色に塗装されたが、1968年以降スカ色に戻った。上述のように本系列は後年になってもさまざまな塗色に変更された。本項では、新製配置された地区でと地方転用後に分類して解説を行う。横須賀線用は全体の50%強となる157両が田町電車区(→田町車両センター→現・東京総合車両センター田町センター)に、京阪神緩行線用は1/4弱である65両が明石電車区(現・網干総合車両所明石支所)・宮原電車区(現・網干総合車両所宮原支所)・高槻電車区(現・網干総合車両所高槻支所)に配置。輸送力増強ならびに戦後混乱期に両線区に配属された63系や旧型車の置換えにも寄与した。中央東線用は1952年に10%弱の26両が三鷹電車区(現・三鷹車両センター)に配置され富士急行への乗り入れや臨時列車にも充当された。阪和線用1955年に1/8強の34両が鳳電車区(後の日根野電車区→現・吹田総合車両所日根野支所)に配置され、同線の特急(のちの快速、新快速)・急行 (のちに直行を経て区間快速)を中心に投入され従来の阪和形電車や52系に代わって主力車両となった。1951年2月から3月にかけて、モハ70形10両 (70001 - 70010) ・クハ76形30両 (76001 - 76030) ・サロ46形が10両 (46001 - 46010) の合計50両が落成して、42系と組んでそれまでの主力であった32系の置換えを開始した。同年秋にはモハ70形32両 (70011 - 70042) ・クハ76形14両(76031 - 76051 うち76037 - 76051は奇数のみ)の合計46両を増備し、一部のクハ47形とサハ48形・サロ45形を除く32系とモハ42形・クハ58形など42系の一部を置換え、戦後の横須賀線の主力となった。当時の編成は基本編成が7両。付属編成が4両もしくは5両。基本編成の中にはサロ2両組み込みとサロ1両の2種類があり、サロ2両組み込み基本編成については、そのうちの1両には極力サロ46形とし洗面所確保について考慮を図っていた。また、湘南電車の代走として東海道本線での運用、付属編成や予備車による高崎線・上越線のスキー臨時電車へ投入のほか、クロハ49形(のちのサロハ49形)やクハニ67形・42系などと組成した伊東線ローカル列車など通常とは異なる運用もあった。本系列の増備に伴って横須賀線のダイヤも整備され、1950年代前半にはラッシュ時15分・日中30分ヘッドのパターンダイヤが確立した。その後は宅地化による沿線人口の増加をはじめ東逗子駅や開業や横須賀線電車川崎駅停車など乗客の増加に伴い、増備で輸送力強化を図った。こうして順調に輸送力強化に努めてきたが、それでも輸送需要の伸びが旺盛であったことから1959年2月には終日15分ヘッドを基準ダイヤとしたほか、基本・付属編成を共通の6両編成として、ラッシュ時には2本併結の12両、日中は単独運行の6両での運転を開始した。その一方で横須賀 - 久里浜間は輸送需要が格段に落ちることから、日中はモハ43・53形 +クハ76形(クハ47形)の2両編成による現行ダイヤにつながる区間列車の運転が開始された。この時点での主な編成パターンを以下に示す。戦前・戦後の横須賀線の主力車両が混在編成であるが、サハ48形を中間車として組成する場合は「広窓流電・半流43系」同士で連結するなど編成美を考慮する一方で、43系とでは屋根高さが本系列が100mm低いことから高低差が目立った。横須賀線用両数は、京阪神緩行線からの転入車も含めて1963年初めには175両に達した。しかし一方で1962年からは後継車となる111系が、1963年からは出力強化型の113系として本格的な量産が始まり、1964年から横須賀線に投入された。本系列置換えを本格的に開始して、捻出された車両は新規電化区間の開業用や客車列車の電車化に投入され転用。横須賀線用車両は1968年までに113系に置換えられて全車転出。横須賀線と同時期の1951年2月から3月にモハ70形のみが17両配置された。塗装がぶどう色一色であることや51系と混結しての輸送力増強が目的であったことから、ジャンパ連結器も芯数が異なる点で100番台に区分された。その後しばらく増備は中断するが、1954年から1957年にかけてはクハ76形も含めて増備され、昼間時には以下の基本編成のような4両編成を主体に運用され、ラッシュ時には京都側に付属編成を連結して運用された。以下の編成はその一例である。京阪神緩行線運用で特筆すべきは代用「急電」(のちの快速)への投入である。1950年から急電に投入された80系は翌年からサハ87形を組込んで5両編成となり、ラッシュ時20分ヘッド、日中30分ヘッドで運行していた。しかし予備編成は1本しかなく、1952年夏期運用では日中に須磨まで延長運転した際に編成数が不足する事態となった。そこで運用に余裕のあったセミクロスシート化改造のクハ55形とモハ70形をぶどう色のまま5両編成を組成し、客用ドア横に急行表示の掲出と前面への急電羽根型ヘッドマークを装着して投入した。電動車比率が高いこと(MT比3M2T 80系急電は2M3T)のほか、塗色がぶどう色のままだったため誤乗車が相次ぎ乗客からの苦情も多発したという。同編成は運用終了後には復元されたが、翌1953年の夏期運用時にも再度急電の須磨延長を実施されたために再投入の際には前年の反省と秋以降の急電増発を考慮し、塗色をマルーンとクリームの関西急電色に変更とヘッドマークを装着で運行された。この代用編成では中央客扉は締切扱いと座席の仮設を施工した。急電色に塗装変更したため誤乗車に関する苦情は減ったが、今度は洗面所がないことの苦情が発生したとも言われる。夏期運用終了の9月1日からは、急電の終日20分ヘッド化を実施した。このため代用編成は秋以降も運用を続け、1954年4月の新長田駅開業に伴う朝ラッシュ時の鷹取駅区間延長もあり、1年以上にわたって投入され続けたが、1954年12月に80系1編成が増備され現状復帰された。その後はロングシート化の進展に伴って最後まで残っていたモハ70形が1971年に転出。本地区での運用を終了した。戦前に甲府まで電化されていたが、山岳区間となる浅川(現・高尾)以西への定期の電車運転は1948年に大月まで乗り入れが開始され、翌年には富士山麓電気鉄道河口湖線(現・富士急行富士急行線)河口湖まで乗り入れた。これらの運用に当初はモハ33・34・41形のほか後には80系も投入されたが、桜木町事故後は狭小トンネル内でのパンタグラフ絶縁距離が見直され、屋根高さを低く抑えた専用の形式が求められた。応急対策として30系のダブルルーフをシングルルーフに改造して投入したが、その間にモハ71形を改造・新造してこれらの車両を置換えた。しかし当時の中央東線では定期運用は河口湖直通列車と一部のローカル列車のみだったことから運用には余裕があった。そのためこの「山スカ」グループは、電化区間であればほとんどの線区に入線可能といった特性を生かした行楽や「自然科学電車」という遠足用をはじめとした波動団体臨時運用に投入されることも多かった。また1954年から1956年にかけて常磐線電車の有楽町駅乗り入れにより車両が不足したため断続的に松戸電車区(現・松戸車両センター)に貸し出されたほか、関西急電の80系が更新修繕で編成不足となるため1954年11月から12月にかけて宮原電車区に貸し出され、中央の客扉を締切として急電運用に投入された。このときの編成を以下に示す。波動運用は1950年代後半に入ると減少したが、72系山岳対応車のモハ72850番台とクハ79形の増備、前述のモハ70形→モハ71形車の編入や横須賀線用のクハ76形の転入により、1965年には43両まで増加した。モハ72形850番台やクハ79形を編成中に組込んだ4両編成で運用され、中央東線ローカル列車運用が主とされ客車列車の電車化に貢献した。これら「山スカ」グループは、1966年から配置された115系と共に運用を続け、中央東線の電化区間の延伸に伴って小淵沢まで運用区間を拡大したが、1975年から1976年にかけて中央東線に新製冷房車の115系300番台が投入されたことによって広島運転所へ転出し、呉線で運用されることになった。戦前の阪和電気鉄道時代から電車による高速運転が常態化していた阪和線は戦時買収私鉄の中でも他路線とは一線を画す存在であった。戦時中の荒廃がひどかったことによって復興には時間がかかったが、1950年には、京都 - 神戸間の急電を80系に置き換えて捻出された「流電」52系や半流43系の3連×4本により、新設の特急と従来の急行に投入した。これらの車両は利用者から好評であり特急や急行も増発されていったが、利用者の増加のペースも速く、2扉の転入車はラッシュ時の乗降に時間がかかるようになった。また買収国電である阪和形電車も国鉄形に比肩する性能と収容力から依然主力として運用されていたが、1950年代に入ると国鉄標準仕様への改造工事を更新修繕と同時に実施していたことから工場入場期間も長くなり、車両数は慢性的に不足していた。その一方で、1954年に南海電気鉄道が南海本線の特急・急行用にオール転換クロスシート2扉車の11001系を投入し、阪和線に対して質的優位に立った。同時に南海が、当時他の戦時買収私鉄各社(鶴見臨港鉄道や青梅電気鉄道など)とともに進めていた戦時買収線の復帰・払い下げ運動や阪和電気鉄道の旧経営陣が進めていた阪和電鉄の再興運動に加え、南海本線と比較して目に見えて復興の進まない阪和線に対して苛立ちを覚えた利用者や沿線住民の一部が同調し、大きな動きに発展する勢いがあった。国鉄としても阪和線に対し何らかの目に見える対策が必要であり、そのために阪和線専用の新車投入を計画した。以上の問題点とラッシュ時対応・乗り心地・居住性を考慮した結果本系列の投入が決定。阪和色4両編成×4本計16両が1955年の11月から12月にかけて鳳電車区へ新製配置され特急・急行運用を中心に運用を開始した。第2陣は1957年暮れから1958年初めにかけて300番台が18両投入され、従来車と合わせて4両編成×8本+予備2両の合計34両が配置された。この結果、1958年2月には「流電・半流43系」が飯田線に転出し、阪和線の主力となった7本系列が国電としては異例な「特急」「急行」のヘッドマークを掲出して運用された。1964年までに京阪神緩行線からの転入車も含めて4両×12本の48両にまで増加し、阪和形電車や40系などとともに快速・直行運用を中心に運用を続けた。1965年から天王寺 - 鳳間で快速・直行の6両編成での運用が開始されると和歌山寄りに阪和形電車や40系の2両編成を増結された。その後阪和色からスカ色への塗装変更が実施され、1968年からは阪和線初のカルダン駆動車として103系が投入。日中の快速運用は103系に代替されることになるが、70系は直行から改称された区間快速を中心に運用を続けた。1972年3月のダイヤ改正で阪和線にも新快速が設定され、東海道・山陽快速の113系冷房改造車が鳳電車区に転入。103系や本系列も交えた運用の見直しを行った結果、本系列は余剰の8両が長野運転所(現・長野総合車両センター)に転出。翌1973年10月の関西本線湊町 - 奈良間の電化開業に際して、113系予備車の運用を阪和線・関西本線の共通運用としたため、ここでも余剰となった本系列12両が長岡運転所(現・長岡車両センター)に転出。阪和線残存は28両と全盛期の半数近くまで減少した。しかし、40系や72系と組んだ区間快速運用を中心に快速から普通まで運用を続けた。だが山手線・京浜東北・根岸線からの103系の転入が進むにつれ6連運用は拡大され、1976年11月に日根野以南のホーム有効長4両分の駅について6両分に延長する工事を実施。羽衣支線を除く阪和線全駅のホームを6両対応とした。この時点で旧型車も含めて天王寺 - 和歌山間の完全6両化を実施。編成替えの中で多くの旧型車が運用を離脱する中、本系列は大半の20両が6両編成で再組成され本系列単独編成もしくは中間にモハ72形を組込み区間快速を中心に運用された。しかし1977年3月15日に阪和線の新性能化が完了。4月にモハ72形と組んでさよなら運転を実施した。余剰廃車となった4両を除く24両が福塩線に転出した。地方に転出した本系列は、新潟地区(信越本線・上越線)や中央西線など大半の線区では編成単位で運用されたが、東北・日光線、東海道線静岡地区や仙石線、飯田線のように一部の中間車のみが配置された地区も存在する。1962年の信越本線長岡 - 新潟間電化開業時に京阪神緩行線からクハ68形とともに転入。その直後の38豪雪や新潟地震といった災害発生時には、電車特有の機動力を発揮し有効性が証明された。その後も横須賀線と京阪神緩行線からクハ68形も含む転入が相次ぎ、当初の新潟 - 長岡間から運用区間も延長され上越線は高崎まで、信越本線は電化区間の拡大によって直江津から妙高高原まで拡大した。特筆すべきは、塗装を赤2号と黄5号の「新潟色」に変更された点である。その後も中央西線や阪和線から転入してきた本系列のみだけでなく、中間車用としてサハ87形が静岡運転所(現・静岡車両区)から転入し、これらの車両も「新潟色」に変更された。1972年の羽越本線・白新線電化に伴って、運転区間も交流電化区間との境界である村上まで延長され、北陸本線の一部区間を除く新潟県内の直流電化区間で運用され続けた。1966年7月の名古屋 - 瑞浪間電化に伴い、横須賀線と京阪神緩行線から大垣電車区(現・大垣車両区)に転入してきたクハ68形を含む72両によって同区間における運用を開始した。同年10月からは運行区間を東海道本線浜松 - 米原間まで拡大。客車列車の電車化に貢献した。1968年には所属を新設の神領電車区(現・神領車両区)に移管。同年10月のダイヤ改正では中央西線では電化区間の延伸によって中津川まで拡大した。中央西線では基本編成6両・付属編成4両で組成されラッシュ時には10両での運転も実施された。また基本編成の中間には格下げ車のサハ75形・サハ85形が組込まれており、これらの車両に等級帯がなく後に3扉化されたとはいえ横須賀線全盛期の雰囲気を漂わせていた。その後は東海道本線内の運用を80系に、中央西線ラッシュ時の運用の一部を72系にそれぞれ変更され規模を縮小。余剰車は新潟や長野に転出となった。1973年の中央西線・篠ノ井線全線電化では坂下まで、1975年には南木曽まで運用区間を延長した。1976年には新規開通した岡多線に付属編成2本が投入された。1968年の両毛線電化に際し横須賀線で最後まで運用されていた42両(クハ77形6両を含む)を4両編成に組替えて新前橋電車区(現・高崎車両センター)に配置した。1970年の吾妻線長野原 - 大前間開業に伴い同線の一部運用も受持つことになった。1971年にモハ70形1両が仙石線に転出したほかは大きな動きはない。1972年3月のダイヤ改正で、阪和線および中央西線から長野運転所に転入した車両により信越本線長野地区で運転される普通列車の電車化を実施した。運用区間は軽井沢 - 柏崎間で、同時に投入された80系とは異なり「横軽越え」には投入されていない。1974年には長野運転所への381系増備に伴って普通列車用の本系列と80系は松本運転所(現・松本車両センター)に転出となり、出入所運用として篠ノ井線松本まで運転区間を拡大した。また輸送力増強のため、1975年には仙石線からモハ70形3両、1976年には新潟地区からモハ70形を1両とクハ68形が2両転入した。電化前の呉線の通勤列車は、C59形・C62形といった蒸気機関車が10両近く連結されたスハ32系・オハ35系を牽引するものであった。電化時に一部EF58形牽引の客車列車は残ったもののローカル列車の主力は80系であり、通勤列車は首都圏から転入した72系10両編成で運行された。しかし、72系は確かにラッシュ時の詰込みはきくものの車内のアコモデーションや居住性は従来の客車列車や同時に投入された80系に比べて大きく劣るものであり、利用者から不満の声が出ていた。一方、中央東線では115系300番台に置換えられた本系列であるが、転出先の線区の選定が難航していた。しかし呉線通勤電車の72系置換えに白羽の矢が立ち投入されることになった。1976年1月から3月にかけて三鷹配置車からモハ71形全車とクハ76045・76071の2両を除く18両の合計39両が72系の一部とともに広島に転入。従来から配置されていたウグイス色のモハ72形の一部と10両編成3本・8両編成1本を組成して、広・呉 - 広島間の通勤列車をはじめ呉線・山陽本線広島 - 小郡(現・新山口)間で運用を開始した。編成単位での転入はなかったものの一部の中間車が転入したケースがある。宇都宮運転所には1965年にサロ75010が転入。2等車代用として40系の編成に組み込まれたが、翌年には豊橋機関区に転出し、飯田線用となっている。東海道線静岡地区(静シス)には1965年にサハ75011が転入。クハ47形やサハ48形と共に80系編成に組み込まれたが、後に神領電車区に転属し3扉化改造を施工された。飯田線(豊橋機関区)には1966年にサハ75形が4両転入。流電編成の中間車に組成された。1969年には3扉化改造を施工された。仙石線には1971年に最後まで京阪神緩行線に運用されていたモハ70形が3両転入。通風器の押込形への換装や車体塗装もウグイス色に変更。同様に以前京阪神緩行線から転入していたクモハ54形・クハ68形と編成を組成され特別快速や快速を中心に運用された。同年に両毛線用のモハ70形が1両転入するが、1975年に3両が信越本線長野ローカル用に松本運転所に転出。配置は1両のみとなった。本系列の廃車は1976年から開始された。1977年には、阪和線用として最後まで運用された4両、仙石線で1両のみ残留していたモハ70形、三鷹配置で波動輸送用として残留していたクハ76形もモハ72形と同時に廃車となった。以後は以下の要領で新性能電車への置換えが進行した。1976年1月 - 2月にかけての豪雪の際に信越国境の急勾配区間で本系列が空転を発生させ、多くの普通列車が遅延や運休を余儀なくされた。この事態を憂慮した当時の長野鉄道管理局が国鉄本社に対して置換えを要請。国鉄本社も当時推進していた地方線区近代化の一環として耐寒耐雪構造を強化した115系1000番台を松本運転所に投入。1978年1月に一気に置換えを完了した。1977年から115系1000番台への置換えを開始していたが、1978年3月までに両毛線・吾妻線内の運用が置換えられ全車廃車。置換えは大規模なもので、以下の2回にわけて実施された。当初は1978年7月までに置換え完了であったが、同年5月に発生した信越本線関山 - 妙高高原間での地すべりと6月の集中豪雨による柏崎駅冠水により計画が遅延した。同年7月以降は115系の投入も順調に進んだことから、8月23日に上記編成によるさよなら運転を実施し、新潟地区での運用を終了した。1978年7月から神領電車区に113系2000番台を配置。同年10月からは岡多線に投入。12月には全車の置換えが完了した。同月17日に中津川 - 名古屋間でさよなら運転が実施された。呉線・山陽本線では1978年9月から広島運転所の2000番台をはじめとした115系に置換えを開始し同年12月に営業運転を終了。1978年には福塩線のみの運用となったが、105系の投入によって同線における運用は1981年3月1日に終了。これをもって30年にわたる営業運転の歴史は終了した。一時期モハ71001が広島工場内において保管されていたが、後に廃車解体されたため保存車両は存在しない。

出典:wikipedia

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