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卜部喜太郎

卜部 喜太郎(うらべ きたろう、1868年11月25日(明治元年10月12日) - 1942年(昭和17年)11月13日)は、日本の弁護士、政治家。東京弁護士会会長、東京弁護士会常議員会議長などを歴任。明治元年、埼玉県児玉郡沼和田村(現本庄市沼和田)の名家である卜部喜平の長男として生まれた喜太郎は、沼和田学校・本庄学校で学び、在学中は終始首席であったとされる。児玉英和共立学校に進むと英漢数を修める。1887年(明治19年)、埼玉県で初めて小学校教員検定試験が行われる。これに受験し、百人に一人といわれる難関を突破し、1888年(明治20年)2月には本庄高等小学校訓導に任ぜられる。その1年後に辞任した喜太郎は上京し、英吉利(イギリス)法律学校英語法学科(現中央大学)に入学し、優秀な成績で卒業、1891年(明治23年)12月に代言人(今の弁護士)を免許された。時に23歳である。千代田区飯田町4丁目に代言人事務所を建設した喜太郎は、この頃に起きた「埼玉硫酸事件」に巻き込まれ(首謀者の根岸丹次郎が29歳ということもあって)、あやうくその一味とされるところであった。その後、日本で初めての弁護士法が制定されると、1894年(明治26年)5月に喜太郎は東京検事局へ弁護士登録し、神田区台所町に「卜部法律事務所」の看板を掲げた。喜太郎の理路整然とした参論は、もう一方の雄、花井卓蔵と共に、「刑事事件は、卜部か花井か」と並び称されたほどだった。喜太郎が担当した名高い事件として、「足尾鉱毒事件」、「シーメンス事件」がある。また、関東大震災後の混乱に生じた本庄事件の裁判において、主任弁護士を務めたのも喜太郎であった。1908年(明治41年)5月、衆議院議員の改選挙に犬養毅の又新会から立候補し、埼玉全県を一区とする大選挙制に当選。しかし、身辺の事情により、代議士生活はこの一期にとどまった。1921年(大正10年)、54歳の時、東京弁護士会会長に推され、内閣から法律取調委員に、さらに東京弁護士会常議員会議長に就任。喜太郎は法曹界の代表人物となった。1934年(昭和9年)に軽い摂護炎に侵され、入院した喜太郎は、その後、病状が悪化し、8年後の1942年(昭和17年)、大宮日赤病院で75歳の生涯を閉じた。墓所は沼和田宝輪寺。

出典:wikipedia

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