継続戦争(けいぞくせんそう、)は、第二次世界大戦中の1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で戦われた戦争である。戦争当事国の一方であるソ連では、この戦争は大祖国戦争(独ソ戦)の一部である。第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争とも呼ばれる。第1次ソ芬戦争については冬戦争を参照。フィンランドとソビエト連邦の第1次ソ芬戦争(冬戦争)は、1939年11月30日に始まり、1940年3月12日のモスクワ講和条約により3ヶ月で終結した。フィンランド軍は奮闘し国家の独立を維持したものの、カレリア地方などをソ連へ割譲し、ハンコ半島を租借地とすることを余儀なくされた。冬戦争の際に連合国はフィンランドに介入しようとしたが、その援軍を隣接国のノルウェー、スウェーデンが通過させず、連合国もそれ以上の介入はしなかった。ノルウェー、スウェーデンもソ連との関係悪化を防ぐためにほぼ中立を維持し、スウェーデンからは義勇兵は送られてきたものの、フィンランドへの公的な支援はなかった。このような各国の態度はフィンランドにとって厳しいものだった。冬戦争後、フィンランドはスウェーデンと同盟を結ぼうとしたが、ソ連の横槍が入ったうえ、中立を守ろうとするスウェーデンの「敗北したフィンランド」への対応は冷たいものだった。バルト三国がソ連領化されるとフィンランド国内では仇敵ソ連に対する脅威感が更に高まった。連合国も北欧諸国も助けにならないなか、共産圏の脅威が忍び寄るフィンランドは枢軸国ドイツとの関係を深めざるを得なかった。1940年8月にフィンランドはドイツと密約を結び領土内へのドイツ軍の駐留を認めた。貿易の上でもドイツとの関係を深め、物資をドイツに頼るようになった。しかしながらこのドイツ頼みの姿勢は、フィンランドが枢軸国と見られる理由を作ることにほかならなかった。1941年6月22日ドイツがソ連攻撃を開始すると、フィンランドは当初中立を表明した。しかし、フィンランド領内からソ連を攻撃したドイツ軍に対し、ソ連はフィンランド領内で空爆を行ったため、6月26日フィンランドはソ連に対して宣戦を布告した。フィンランドはドイツとは同盟関係にないことを再三強調し、この戦争は冬戦争の継続であるとした。このため、この戦争はフィンランドで継続戦争と呼ばれている。しかし、連合国はこのような主張を認めず、同年12月、イギリスはフィンランドを枢軸国とみて宣戦布告し、フィンランドに同情的であったアメリカ合衆国も国交を断絶、フィンランドの第二次対ソ戦が始まった。1941年7月、戦争が始まるとフィンランド軍はカレリア方面に攻勢を行った。準備の整わないソ連軍を相手にフィンランド軍は快進撃を続け、冬戦争で奪われた領土を再占領した。8月末には冬戦争前の国境線まで到達し、12月にはレニングラード近郊まで進出し、激しい戦いが行われていたハンコ半島からもソ連軍は撤退した。北部では銀狐作戦でドイツ軍と共に進出を開始、ムルマンスク港奪取とムルマンスク鉄道の切断を目指したが、ソ連軍の抵抗によってかなわなかった。その後、ドイツ軍のモスクワ攻略作戦での失敗もあって1941年末には戦線が膠着。フィンランド軍はさらなる進攻は行わずにドイツ軍の作戦支援を行い、カレリア一帯に塹壕と防衛線を築きながら防御体制に入った。1943年、ドイツ軍がスターリングラードの戦いで敗北すると、フィンランド首脳部は枢軸国不利と見て戦争からできるだけ早く離脱し、ソ連との講和を結ぶことを考え始めた。1943年にはリスト・リュティが大統領に再任され、内閣は早期の講和に向かって動き始めたが、その試みはすぐに暗礁に乗り上げる。フィンランドはドイツに対し、自国が継戦困難であり早期にソ連と分離講和をしたい、と伺いを立てたが、ドイツの猛反発を食らい食品などの必要物資の輸出を止められてしまった。ドイツに物資を頼っていたフィンランドは物資不足に陥り、戦争を継続することをドイツ側に伝え許しを請うことで、ようやく物資の輸入を再開できた。しかし、その後も枢軸国の不利は変わらず、フィンランドは戦争離脱を模索し続けた。1944年1月にソ連がレニングラード包囲戦でドイツの包囲を打ち破ると、フィンランドは2月にソ連に講和を持ちかけた。しかし、ソ連がフィンランドに出した講和条件は厳しいものだった。講和条件にはフィンランドは独力でフィンランド在留のドイツ軍を駆逐することという条件があったが、この条件は当時のフィンランド情勢から考えると到底受け入れ難いものであった。フィンランドより先に連合国と講和し、枢軸を脱落したイタリアやハンガリーでは講和し枢軸国を脱落した後、、マルガレーテ作戦でドイツ軍に占領されるという事態が起こっていた。ドイツ軍を国内から駆逐するという条件は、駐留ドイツ軍との全面戦争になり、国土を占領されるというイタリア、ハンガリーの二の舞になりかねなかったのである。フィンランドはやむなく講和交渉を打ち切り、カレリア地峡に前もって備えていた防衛線以外にも防塞の建築を始め、動員を拡大するなどソ連との戦闘に備えた。6月9日に連合軍のノルマンディー上陸作戦と呼応してソ連のフィンランドへの攻勢が開始された。ソ連軍の攻勢の目標はフィンランドの枢軸脱落とヴィボルグなどの旧領奪回などであった。ソ連軍はレニングラード方面軍、カレリア方面軍がこの攻勢に参加し、フィンランドはほぼ全軍をもってこの攻勢に対応した。フィンランドはカレリア地峡に作った主防衛線を破られ、VT防衛線のクーテルセルカで抵抗したものの、第二次世界大戦で冬戦争当時とは比べ物にならないほど戦闘技術の向上したソ連軍の圧倒的な攻勢と戦車や火砲などの火力を前に戦線は後退を続け、攻勢再開から半月を持たずにフィンランド第二の都市ヴィープリが陥落し、フィンランド軍は6月21日にはカレリア地峡の第三の防衛線VKT線まで後退した。フィンランドはドイツに援軍を求めていたが、ドイツは折から戦争からの離脱を試みていたフィンランドへの援軍に難色を示し、6月22日には外務相リッベントロップを派遣し、ドイツと共に継戦するように求めている。大統領であるリュティは「フィンランドはドイツと共に断固最期まで交戦する」と宣言することで援軍を確保した()。更に東カレリアで防衛を行っていた軍からも一部兵力を引き抜き、カレリア地峡方面に総兵力の半数以上をつぎ込んだ。クールマイ戦闘団や第303突撃砲旅団などドイツからの援軍、支援物資も到着し常に不足していた対戦車兵器もドイツから供与された。6月21日、ソ連軍はフィンランド軍の壊滅、コトカ、近郊のフィンランド本国到達を目標になどでVKT線に攻撃を始めた。フィンランド軍はVKT防衛線の各所で強固な抵抗を続け、タリ=イハンタラでは特に激しい戦闘が行われた。この地域は河川や湖沼などによって機甲師団の通れる範囲がタリ=イハンタラ近郊の非常に狭い範囲であったため、ソ連軍はこの十数km程度の区画に兵力の多くを集めて突破を図った。フィンランド軍は波状攻撃を続けるソ連軍に頑強に抵抗。ソ連部隊に損害を与えながら少しずつ戦線を下げていった。6月27日から30日にかけてのソ連軍の攻勢では損害が拡大し突破されかねない状態となったが、7月1日までには後方から援軍や対戦車兵器が前線に続々と到着し、ソ連軍の通信も傍受、7月3日にはフィンランド側の全火力を持ってソ連軍に反撃した。一区画に多くの兵力を集めていたソ連軍は大打撃を受け、一部の部隊は壊滅、ソ連軍の進撃の足は止まった。その後もソ連軍はヴオサルミの戦いやヴィープリ湾上陸作戦でフィンランドの防衛線を突破しようと試みたが、フィンランド軍はソ連軍の突破を許さず、地峡での攻勢は頓挫した。この後、兵力の薄くなった東カレリアに向け、ソ連軍カレリア方面軍が攻勢を開始した。しかし、こちらも遅延防御を続けるフィンランド軍に徐々に勢力をそがれ、フィンランド軍が築いていた防衛線近くまで下がり、そこまで到達するとそれ以上の進軍が難しくなった。また、イロマンツィの戦いではモッティ戦術でソ連軍の一部を壊滅させ、継戦能力がまだあることを見せた。フィンランド軍はソ連軍の侵攻を止めることに成功していたが、圧倒的な兵力差・物量差のためフィンランドはこれ以上戦線を押し戻すことは不可能であり、戦争が長引けば敗北は必至であった。一方ソ連は緒戦でのフィンランド軍の執拗な抵抗を見て、占領価値の低いフィンランドへの攻撃を継続することの無意味さを思い知った。また、連合国はノルマンディー上陸作戦を成功させヨーロッパを東進する構えを見せており、ソ連としては対枢軸国戦争後のヨーロッパでの勢力圏拡大の為に、フィンランド方面に兵力を貼り付けるより、東欧諸国へ攻撃を行うほうが理に適っていた。ソ連はバグラチオン作戦のためにドイツ戦線に戦力を集中させており、7月9日以降はフィンランドへの攻勢の主力となっていた戦車部隊や親衛狙撃兵軍団などをナルヴァの戦いなどに向けエストニア方面に移動させ始めた。このため、ソ連側から更なる攻勢は行えなかった。7月12日、ソ連軍は攻勢の停止指令を受け、塹壕を掘り防衛体制に入った。戦線の膠着が始まるとフィンランドは再度戦争終結のため、ソ連との講和交渉を再開した。また、ソ連もフィンランドが降伏するのであれば和平に応じる姿勢をみせた。フィンランドは一時はカレリアとの旧領を回復したが、ソ連軍の反攻によって奪還され、北極海に面するも失った。また、人員も冬戦争以上の多大な犠牲を払った。しかし、フィンランド軍は奮闘し、圧倒的な戦力差を誇っていたソ連軍はフィンランドの3倍以上という大損害を受けた。この結果は講和交渉の土台となった。ドイツからの援助を受けるためにリュティ大統領が個人名義で行った「ドイツと共に断固最期まで交戦する」という宣言のために、リュティ政権下ではソ連との講和に臨むことができなかった。このため、講和に先立ってリュティは大統領を辞し、軍の最高司令長官であったマンネルヘイム将軍に大統領の座を譲り渡した。フィンランドは政権交代が行われ親独政権ではなくなったことを強調。親独的であったのは前大統領のリュティだけであるとして、講和交渉を行った。ソ連が講和交渉の中で提示した条件には2月の講和条件と同じくドイツ軍との決別、フィンランド領内からのドイツ軍の排除が盛り込まれていた。しかし、交渉によってそれを行うための若干の猶予が認められた。そのほか、賠償金3億ドル相当の支払い、国境線を冬戦争後のものに戻すこと、ペツァモの割譲、フィンランド湾の要衝ポルッカラをソ連の租借地とすること、軍備の制限、戦争犯罪人の処罰、全体主義的団体の解体、第二次大戦終結までの間の飛行場や港湾の使用許可などが求められ、フィンランドはこの条件で講和を飲んだ。フィンランドとソ連の間で1944年9月19日にモスクワ休戦協定が調印され、その24時間後に完全に戦闘を停止した。ソ連との休戦と同時に条件であった駐留ドイツ軍をフィンランドから排除するためにラップランド戦争が戦われた。継続戦争で共に戦った兵士たちであったためドイツ軍はフィンランド軍と戦闘をほとんど行わず穏便に撤退したが、フィンランドの降伏に激怒したヒトラーはフィンランド湾の島々に強襲上陸を敢行。この後も戦闘は控えられていたものの、ゆっくりと退却を続けるドイツ軍を早期に排除するためフィンランドはドイツ軍との戦闘を開始。フィンランド駐留ドイツ軍が戦闘をほとんどしていないことを知って怒ったヒトラーの命令によって、ドイツ軍はラップランド地方で焦土作戦を行い、ラップランドは壊滅に近い被害を受けた。継続戦争での参戦によってフィンランドは第二次世界大戦の枢軸国側であったとされており、現在でも日本やドイツ等と同様に国際連合の敵国条項に含まれうるとの解釈が可能である。ソ連の侵略から国土を守るために、枢軸国の一員としてナチスドイツと手を組んだフィンランドが敗戦国となり、冬戦争という侵略行為で国際連盟から追放されたソ連は、アメリカやイギリスなどと連合国として手を組んだ。連合国陣営が勝利したことでソ連が国際連合の常任理事国になり、フィンランドから賠償金を取ることになった。フィンランドにとっては理不尽であるものの、ポーランド分割などとともに連合国の勝利した国際情勢下、ソ連側の行動が大きく非難されることはなかった。フィンランドが国際社会に復帰するのは1947年の連合国21ヶ国に対する講和条約、パリ平和条約の調印後になる。戦後、東欧ではソ連衛星国の樹立やソ連軍進駐、そして時に武力侵攻が行われた。フィンランドでは東欧のようになることなく、独立国としてソ連の支援下で戦う(ただし、フィンランド経由以外の攻撃に対処する義務はない)」という覚書まで提出し、さらにパーシキヴィ路線と呼ばれるソ連との友好的外交を行い、マスコミは自主規制を敷いてソ連の侵略への批判はタブーとなった。この状況は西側諸国から「非共産国でありながらソ連に宥和的姿勢を示す」ことを指して「フィンランド化」といわれるほどになり、フィンランドの対ソ宥和姿勢は属国化の典型とみなされるようになった。しかし、戦時の徹底抗戦と戦後の従属外交を使い分け、1956年にはポルッカラ租借地も返還され、ソ連崩壊まで独立と平和を保つことに成功した。ソ連は大きな損害を受けつつもポルッカラ以外の戦前要求していた領土は獲得し、公的に目的としていたレニングラード周辺の安全を確保した。さらに隣国フィンランドを勢力圏に組み込むことで、領土的・外交的勝利を達成した。戦時中、ドイツの援助を得るためにやむなく「個人として」協定を結んだ大統領のリュティは、ナチスに与した戦争犯罪人として裁かれ、禁錮10年の判決を受けた。その後、獄中で健康を害し1949年に釈放、その後は隠遁生活を送り、1956年に死去した。その葬儀はソ連側の非難があったにもかかわらず国葬でおくられている。戦時中、フィンランド軍の中にはユダヤ人も存在し、また新たにフィンランド国内へ逃げ込んで来るユダヤ人亡命者も数多くいた。フィンランドはそうしたユダヤ人達に対してフィンランド国籍を与え、ドイツへの引き渡しを拒否し、彼らを保護した。当然そのような行動はドイツとの関係悪化を招き、戦争を早期に抜け出せない要因の一つともなったのであるが、ユダヤ人に対し寛容との評価は国際的にはあまりなく、()にも見られる非ユダヤ人のみの組織構成の姿勢はファシスト的であると考えられている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。