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吉永正人

吉永 正人(よしなが まさと、1941年10月18日 - 2006年9月11日)は、日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手、調教師。騎手時代に中央競馬史上3頭目の三冠馬ミスターシービーや、1982年の天皇賞(春)優勝馬モンテプリンスなどの主戦騎手を務めた。「吉永スペシャル」と呼ばれた追い込み戦法や、逃げ戦法など極端な作戦を取る個性派の騎手としてファンに知られた。作家の吉永みち子は2番目の妻。実弟の吉永良人は元騎手、調教助手(馬事公苑花の15期生のひとり)。長男の吉永護も元騎手である。1941年、鹿児島県肝属郡串良町(現・鹿屋市)で馬生産を営む吉永牧場に次男として生まれる。同場は吉永の曾祖父で、薩摩藩の馬術指南役を務めていた吉永新九郎が1890年代後半に興した一帯で最古の馬生産牧場である。長兄の清人は家業を継ぐため高校へ進んだが、正人は父親より騎手を目指すよう「命令」され、中学校在学中から減量をしながら過ごした。幼少期から家業を手伝っていたが、初めて競馬を見たのは中学2年または3年生のときであったという。中学校卒業前に日本中央競馬会の騎手養成長期課程を受験するも、落第。これを受け、父の伝を通じて東京競馬場に所属する松山吉三郎厩舎に入門し、内弟子として仕事をこなしながら、短期講習生として改めて騎手を目指した。松山にとっては最初の門下生であった。1961年3月に騎手免許を取得し、松山厩舎所属騎手としてデビュー。同年にデビューした騎手には横山富雄、中野渡清一らがいる。同11日に初騎乗に臨み、ダイサンイツで3着。初勝利は4月1日、ホールインワンというアラブ馬で、逃げ切りでの勝利であった。1964年にフラミンゴできさらぎ賞を制し、重賞初勝利を挙げた。しかし当時の松山厩舎は保田隆芳、野平祐二といった大騎手へ多くの騎乗依頼を行っていたため、吉永の騎乗数は伸びず、成績的には目立たなかった。しかし1969年、調教助手の不在で三井末太郎厩舎からライトワールドの調教騎乗を依頼され、これを縁に主戦騎手も任された吉永は、同馬とともに重賞3勝を挙げた。また、同年9月には負傷した古山良司に代わり、やはり三井厩舎に所属した「怪物」タケシバオーの手綱も任され、英国フェア記念に勝利した。翌1970年には従来の年間騎乗数の倍近い、133戦に騎乗して25勝、1971年には40勝を挙げて全国8位(関東6位)に付け、騎手生活唯一のベスト10入りを経験した。保田、野平が引退した1970年代からは松山厩舎の主戦騎手として、「追い込みゼンマツ」と言われたゼンマツ、逃げ馬として名を馳せた牝馬シービークイン、「白い稲妻」シービークロスといった数々の個性馬の手綱を取った。このころから寺山修司の競馬エッセイシリーズでたびたび取り上げられるようになり、逃げまたは追い込みに特化した騎乗ぶりから個性派の騎手として認知された。こうした活躍の一方で八大競走制覇には恵まれず、シービークロスで1979年春の天皇賞に敗れたころから、「八大競走を勝てない騎手」と言われ始めた。また同年にデビューしたモンテプリンスは、翌1980年の東京優駿(日本ダービー)と菊花賞、1981年秋の天皇賞でそれぞれ2着と惜敗して「無冠の帝王」と呼ばれるとともに、勝てない原因を吉永の腕に帰する論調も出始めていた。しかし翌1982年春、同馬で天皇賞に優勝し、吉永はデビュー22年目・八大競走通算54戦目での初制覇を果たした。競走後、師匠の松山は検量室で「正人、良かったなあ」と繰り返し声を掛けながら、感涙していたという。さらに1983年、松山吉三郎の息子・康久が管理するシービークインの産駒・ミスターシービーに騎乗し、常識外れと言われた追い込み戦法でクラシックの皐月賞、東京優駿、菊花賞を制覇し、中央競馬史上3頭目の三冠馬へと導いた。同馬とのコンビでは翌1984年秋の天皇賞もレコードタイムで制し、五冠を制したシンザンに次ぐ四冠馬となった。しかしその後、一歳下の三冠馬シンボリルドルフとの一連の対戦で全敗し、追い込み一辺倒の吉永の騎乗がふたたび批判に晒された。一方で中島啓之、小島太といった騎手は、ひとつ間違えれば暴走してしまう性格のシービーを御しての先行策は不可能であるとし、中島は「吉永でなければシービーは三冠馬になれなかった」と擁護した。なお、1984年には、モンテプリンスの弟・モンテファストで春の天皇賞も制覇している。1986年3月6日、松山を伴って記者会見を開いた吉永は、突如として騎手引退を発表。理由は減量苦から来る体力の限界であった。この引退については、同年クラシックでコンビを組もうとしていたダイナガリバーから降板させられたことが切っ掛けになったという見方も存在する。これについては「馬主の意向だった」という報道があった一方、同馬の一口馬主クラブを統括する吉田善哉は「私の方から一切そのような指示、依頼をしたことはありません。すべて松山先生の判断でおやりになったことです」と語っており、降板理由の真相は不明である。吉永自身はこうした憶測については言及していない。会見の3日後、3月9日の開催をもって騎乗を終え、最終レース終了後には通算1000勝未満の騎手として初めて引退式が行われた。式の最後には親しかった菅原泰夫の提案により、同僚騎手による胴上げで送られた。引退式で胴上げが起こったのはこれが初めての例であり、以後他騎手の引退の際にも慣例化した。松山厩舎で調教助手として3年過ごしたのち、1989年に調教師免許を取得し、同年美浦トレーニングセンターに自身の厩舎を開業した。1993年から1995年までは20勝前後の勝利を挙げていたが、全体的には中位から下位といった成績が続いた。1998年に管理馬ビクトリーアップが中山大障害(秋)に優勝したのが唯一の重賞勝利となった。2006年9月11日、胃癌のため64歳で死去。65歳まで調教師を勤め上げれば家族が年金を受け取ることができ、本人もそれを励みに闘病生活を送っていた中での死であった。調教師としての通算成績は3586戦199勝。吉永の騎乗の特徴として、馬群から離れた最後方追走からの追い込みや、逃げ戦法が目立ったことが挙げられる。とくに追い込みに関しては「吉永スペシャル」や、コニャックの等級をもじって揶揄的に「VSOP(=ベリー ・スペシャル・ワン・パターン)」とも呼ばれた。しかし吉永自身は、数例の追い込み勝ちが「書く側にいる人の印象に止まっただけのことで、僕が勝った全レースの中でいうなら、一割にも満たない」と語っている。ただし、極端な作戦を好む性向は認めており、その理由として「僕は人に迷惑をかけるのがいやなんですよ。馬混みに入ると、アクシデントが起きやすいからね。だから、逃げか追い込みが好きなんです」とも語った。また、キャリアを通じて減量に苦しみ続けた騎手としても知られる。引退時は公称で身長163センチメートル・体重55キログラムと、とくに体重面では騎手としては非常に重い部類だった。初騎乗時には、48キログラムの斤量に対して10日間をかけて減量し、なお1.5キログラムの斤量超過となって戒告を受けており、総じて斤量が軽くなる若い牝馬への騎乗は、キャリアを通じて少なかった。「雨の日に、帽子のひさしから落ちてくる雨水が本当にうまい」という吉永の言葉は、騎手の減量苦を象徴する言葉として書籍などで引用されている。吉永の言う「書く側」であった寺山修司は、吉永に対してことのほか愛情を注いだ。『優駿』に連載した騎手伝記の中ではコウジョウによる追い込み勝ちを取り上げ、「私の考えだけを言えば、吉永正人は当代随一の名騎手である。そのレースぶりには必ずドラマがある。松山調教師の個性的な馬づくりと合わせて、このコンビは武田-福永、高松-柴田と並ぶ屈指のものであり、しかも他の二者にはない競馬の翳をもっている」とし、「馬主各位。調教師各位。もっと吉永に乗るチャンスを与えてやって下さい」と公に訴えた。寺山は1983年、ミスターシービーが日本ダービーに優勝する直前に死去し、吉永がダービージョッキーとなる瞬間や、三冠達成を見ることはなかった。競馬評論家の井崎脩五郎は、菊花賞に寄せた観戦記で「あのダービーの強さを寺山さんに見せてあげたかった。ミスターシービーがシンガリからまくりきって勝ったあのダービーを見て、吉永を応援し続けた寺山さんは、なんと語っただろう」と綴り、その死を惜しんだ。中島啓之、横山富雄、大崎昭一、菅原泰夫、田村正光とともに、飲み仲間のサークルである「仲よし会」を結成していたことで知られる。会の活動を通じて、その様子をしばしば文章化して発表していた西野広祥(中国文学者、競馬ライターとしても活動)など、競馬サークル外部の人物とも親交を結んだ。西野はのちに吉永みち子との交際・結婚に至るまでの過程で、強硬に反対していたみち子の母を説得に当たるなど、私生活にも深く関わった。また、1年後輩で同郷の郷原洋行、梅内忍や、1969年に調教中の事故で死亡した小泉明東とも親しかった。一般に寡黙な人物として知られたが、「仲よし会」では率先して座を盛り上げていたという。やはり親しかった後輩騎手の嶋田功は、その人物を評して「吉永さんのことを無口、無口っていうけど、あれはマスコミがつくったイメージじゃないかな。ふだん、会えば冗談ばっかりで、冗談のかたまりみたいな人なんだよ。ただし、表には見せないデリケートなところのある人だね」と語っている。最初の妻(1974年に死別)との間に一男(護)二女、後妻のみち子との間に一男と、計二男二女の子があった。みち子とはのちに離婚している。前述の通り、曾祖父・新九郎は薩摩藩の馬術指南役を務め、また、祖父・栄蔵は九州で最初の開業獣医師とされる。家系は平家の臣であった藤原金益という公卿に遡ると伝えられるが、系図は西南戦争の際に焼失したという。※括弧内は吉永騎乗時の優勝重賞競走、太字は八大競走。

出典:wikipedia

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