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大原麗子

大原 麗子(おおはら れいこ、1946年11月13日 - 2009年8月3日)は、日本の女優。本名は飯塚 麗子(いいづか れいこ)。老舗和菓子屋の経営者を父として、東京都文京区で誕生。潤徳女子中学校、北豊島高等学校卒業。六本木野獣会に属し、大野伴睦の長男で東京放映の社長である大野直にスカウトされ、芸能界入り。中尾ミエ主演の東宝映画『夢で逢いましょ』(1962年)にも端役で出演していたが、1964年(昭和39年)、テレビドラマ『幸福試験』(NHK)の出演でデビューし、翌年、東映へ入社。佐久間良子主演の『孤独の賭け』で初めて本格的な映画に出演し、高倉健の『網走番外地』シリーズ、千葉真一主演作品での助演、梅宮辰夫の『夜の青春』シリーズをはじめ、数々の映画に出演したが、梅宮の主演映画では酒場のホステスやパンスケ役が多かったが、1971年に東映との契約切れを機に渡辺プロダクションに移籍した。1970年代以降はテレビドラマを中心に一転して「しっとりとした日本的美人像」を演じ、映画『おはん』の魔性の女などさまざまな役を演じ分け、独特の存在感を発揮した。その演技力を買われて主演した橋田壽賀子脚本の『春日局』では大河ドラマ歴代3位となる平均視聴率32.4%(ビデオリサーチ、関東地区調べ)を叩きだした。東映を退社してからの所属芸能事務所は長年「オフィス・アール」であったが、晩年には「ワンポイント」に属していた。映画『男はつらいよ』シリーズでは、マドンナ役を2度務めた。CMへの出演も多く、とりわけ、和服姿でぷっとほっぺたを膨らませ、かすれた声で甘えるように「すこし愛して、ながーく愛して」というセリフを言うサントリーレッドのCMは、その言葉どおり多くの人に長く愛され、1980年(昭和55年)から1990年(平成2年)まで放送された。歌手としても、数枚のレコードをリリースした。明石家さんまや清水ミチコによく声真似をされた。1975年に神経疾患であるギラン・バレー症候群を発症。47歳のときには乳がん手術を受けた。1999年11月から翌年にかけてギラン・バレー症候群が再発したとして芸能活動を休止した。休止後も生前親交のあった橋田壽賀子や山下真司とは不定期ながらも連絡を取り合っていたという。2008年11月には足元がふらついて自宅で転倒、右手首の骨折と膝の打撲という重傷を負った。これは同症候群の影響で身体のバランスを崩したものとされていたが、同じくギラン・バレー症候群を患った演出家の鴨下信一や専門医はこの病が再発することは滅多にないとして再発に懐疑的であり、大原の実弟も再発は姉の思い込みだったのではないかと否定的である。2009年8月6日、連絡が取れず不審に思って警察に通報していた実弟らによって、自宅で死亡しているのが発見された。行政解剖の結果、死亡推定日時は同年8月3日。死因は不整脈による脳内出血であると診断された。満62歳没(享年64)。かつて映画で共演した夏木陽介は、「話し相手になってあげればよかった…」と追悼のコメントを寄せた。最後のテレビドラマ出演は、かつての夫である渡瀬恒彦との共演で、2004年の「十津川警部シリーズ」『東北新幹線「はやて」殺人事件』であった。8月23日、東京の青山葬儀所で「お別れの会」が開かれ、森光子、石井ふく子、浅丘ルリ子らが発起人となり、元夫である渡瀬恒彦や森進一のほか、八千草薫、池内淳子、徳光和夫、加藤和也、井上順、堺正章、松原智恵子、音無美紀子、浅野ゆう子、中村雅俊らが参列。大原が実の姉のように慕っていた浅丘は弔辞を述べ、浅丘が骨折した大原を見舞いに訪れると、大原が早く会いに来てほしかったと抱きついて怒りながら号泣していたことを明かした。また高倉健は、この時参列しなかったが、11月に墓参に訪れ墓所を掃除し、30分以上故人に語りかけていた事が2010年8月に報じられており、その後も親族に向けて定期的に線香を贈り、墓参を継続していたという。墓所は世田谷区の妙壽寺。戒名は「花香院麗風妙舞大姉」。父(実家)は東京・文京区で、老舗の和菓子屋「田月堂」を経営していた。3歳年下の弟・大原政光は、のちに銀行員を退職したあと、大原の所属事務所の社長となる。弟が生まれると母の愛情を独り占めしたい大原は、母のオッパイを吸い始めた。母は止めさせるために乳首に唐辛子を塗ったが、それでも我慢して吸い続けた。子供の頃、ケンカが強くて男みたいで、頼りがいがあったという。幼い頃から父から暴力をふるわれ、父に殴られて鼻の骨の右側がやや盛り上がってしまった。大原は女優になったあと、そこが目立たないように、写真の撮られ方を気にしていた。8歳(小学2年)のとき父の浮気が原因で両親が離婚し、母に引き取られた。弟は父に引き取られた。母は大原と共に東京・赤羽にある母の実家に戻った。両親の離婚後、父と弟の住む家を毎週のように訪ねていた。弟も大原と母の住む家を訪れ、弟が帰るときは3人で泣いていたという。母子家庭で育ったため生活は豊かではなかったが、母は大原に愛情を注ぎ、大原をバレエ教室に通わせた。異性に対して父や兄を求めてしまい、ファザコンであるとのこと。躁鬱的な性格をしていて、躁状態になるとよく喋るとのこと。物事を決めると行動するのがとても早いとのこと。短所は気が短いこと。好きな男性のタイプ=毅然としている人、強い人、繊細な人。六本木野獣会のメンバーである。1965年に18歳で高倉健主演の映画『網走番外地』シリーズで初共演をして以来、高倉を尊敬する兄として慕っていた。『網走番外地 北海編』(1965年)など多くの作品で高倉健と共演しているが、この作品の撮影時、高倉に行書で書かれた大原家の家系図を飜訳してもらったところ、赤穂藩主の浅野内匠頭の一族の子孫にあたることが判明したという。麻雀好きで、徹夜で打つこともあった。1973年(昭和48年)9月、俳優・渡瀬恒彦と結婚したが、5年後の1978年(昭和53年)2月13日に離婚。1980年(昭和55年)6月には、歌手・森進一と再婚したが、1984年(昭和59年)に破局に至った。森との結婚生活については離婚会見で「家庭に男が2人いた」と振り返った。死去後のお別れ会には森、渡瀬の元夫2人も出席した。渡瀬恒彦と結婚していた頃、渡瀬の子供を身籠ったが、子宮外妊娠だったため胎児が死んでしまった。渡瀬恒彦と離婚したあとも、渡瀬恒彦のことが好きだったという。渡瀬との離婚の原因については、大原ははっきりとしたことを言っていない。仲の良い芸能人=森光子、浅丘ルリ子(姉と慕っていた)、鹿沼絵里(大原とドラマで共演してから仲良くなり、鹿沼の結婚式では大原麗子・森進一夫妻が媒酌人をした。親友であり、大原からマネージャーになってほしいと頼まれたこともある)。森進一と結婚していた頃、森の子供を身籠ったが、仕事を優先させて堕胎した。子供を欲しがっていた森に大原の弟・政光が、「離婚して他の女性と子供をつくってください」と頼み、約一年後、森は大原との離婚を決意したという。テレビ番組に出演したとき好きな男性のタイプを聞かれ、「おとなしい人が好きです。うるさい人は疲れる」と答えたことがある。子供に恵まれなかったため弟の息子(甥)をとても可愛がり、甥が書いた絵を額に入れて飾っていた。甥と月に一、二回は一緒に食事をしていた。森進一と離婚した2年後の1986年、世田谷区成城に150坪・床面積260平方メートル・3億円の豪邸を建て、68歳の母と一緒に暮らし始めた。この地に家を建てたのは、憧れの人物・高倉健の自宅に近かったからとのこと。子供の頃苦労して育ったため、働いて立派な家を建てることは長年の夢だったという。自宅を新築したとき高倉健から新しい電話番号をプレゼントされ、電話番号の末尾4桁は「0015(レイコ)」となっていた。高倉健から万年筆をプレゼントされ、その万年筆には「0」から始まるシリアル番号が刻印されていた。「0」は高倉が所持していて、「1」は大原に贈られた。大原は「健さんに1番に選ばれた」と言ってとても喜んでいた。NHK大河ドラマ『春日局』に主演したとき、春日局が臨終間際の徳川家康と語り合うシーンで、橋田壽賀子作の脚本にはなかった「女(おなご)は強うございますから」というセリフを書き加えさせた。研究熱心な“演技の虫”であり、台本のセリフを自分なりに書き換えたりしていた。そのため脚本家や演出家と口論することがしばしばあった。1992年にNHKのテレビドラマ『チロルの挽歌』で主演・高倉健の妻役(ヒロイン)として高倉と共演。ギャラクシー賞奨励賞を受賞。大原はこの作品を「生涯の代表作」と自負していた。バラエティ番組への出演はさほど多くなかったものの、1994年(平成6年)放映の「ダウンタウンDX」(よみうりテレビ)では、本人たっての希望で、うさぎの着ぐるみを着たり、禿げかつらをつけてコントをしたり、さらに番組内の一コーナー「ダウンタウンの社会見学」ではセーラー服姿でダウンタウンの2人に同行した。売れていき地位が上がるにつれ、映画やドラマのスタッフに対して脚本と演出の注文を付けるようになり、それが年を重ねるごとにエスカレートしてしまったという。それが原因となり、一時はどこからも出演オファーがなかった。仕事が少なくなったため住んでいた世田谷区の豪邸の維持費(固定資産税・年間89万円、光熱費・毎月数万円など)に苦しんだ大原は、貴金属を売って維持費をつくるようになった。1999年に左目の二重まぶたの整形手術をしたが手術は失敗し、まぶたが腫れ上がってしまったため、主演が決まっていた映画『天城越え』(第二弾)を降板した。その後、再手術をして可能な限り元に戻したが、自宅に引きこもるようになってしまった。同年11月、ギラン・バレー症候群が再発したこともあり、芸能活動を休止した。現場復帰に向けて、自宅でリハビリと筋力トレーニングに励んでいたという。晩年は母親の介護や自身の病気療養もあって公の場に姿を見せる機会はめっきり減っていったが、俳優仲間にはたびたび電話をかけ、ドラマを観た感想などを語っていたという。ギラン・バレー症候群の主治医が亡くなったあと、うつ病になってしまった。孤独を癒すために、昼夜を問わず友人に長電話をかけていた。2009年3月頃、長年同居してきた介護が必要な91歳の母を介護施設に預け、一人暮らしを始めた。大原は自宅を売却してマンションへ引っ越すことを考えていたが、高額であるためなかなか買い手がみつからなかった。2009年8月、自宅2階の寝室の床の上で仰向けに倒れて死亡したとき、携帯電話を取ろうとして手を伸ばした状態だった。携帯電話までの距離はわずか15センチで、もしこの時携帯電話に手が届いて電話をかけていれば、救助されて死なずにすんだ可能性もある。真夏に冷房なしの部屋で死んでいたが、死臭や腐敗はなかったという。行政解剖の結果、遺体は死後3日経っていた。大原が死んだ日、大原の寝室のDVDプレイヤーの中には、高倉健と共演したテレビドラマ『チロルの挽歌』のDVDが入っていた。大原はこのドラマをいつも観ていたようである。『レイコの歯医者さん』『徳川慶喜』などで組んだ脚本家の田向正健は、死去に際して、「ユニークで、年齢というものをあまり感じない人だった。(…)最近はいわゆる俳優というものが日常のドラマからいなくなっている。日本を代表する女優の一人がまた消えたかという感じがする」とのコメントを出した。死後、大原の遺品の中から、高倉健の記事だけをまとめたスクラップが発見された。そのスクラップには大きな文字で、「好きです。尊敬しています」と書かれていた。遺品の中には多くの台本があった。台本には場面ごとに細かく立ち位置がメモされ、セリフも自分なりに変更されていた。弟・政光は、「姉の夢は、監督・脚本から主演までをこなすことだったと思います」と述べている。大原の「お別れの会」のとき森光子は弔辞のなかで、「あなたは時間に関係なく真夜中でも電話をかけてきましたね」と述べた。同じく浅丘ルリ子も弔辞のなかで、大原からの一方的な長電話に苦しめられたと述べた。大原の死後、弟・政光がテレビ番組で、「姉は左目のまぶたが一重で、メイクのとき自分で二重まぶたにしていた」と告白した。2011年7月、前田忠明著・大原政光監修のノンフィクション『大原麗子 炎のように』が出版された。2013年3月、『大原麗子 炎のように』を原作とする同名のテレビドラマが、テレビ東京系列・内山理名主演で放送された。このドラマでは、大原が生前住んでいた家でも撮影が行われた。2015年10月、弟が管理していた世田谷区にある大原の豪邸が、2億5千万円で売却された。高額であるため、大原の死後6年間買い手がなかった物件だった。売却された大原の豪邸は生前の大原の希望通り、取り壊されることなく原型をとどめている。

出典:wikipedia

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