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ダグラス DC-8

ダグラス DC-8()は、アメリカのダグラス・エアクラフト社が開発した大型ジェット旅客機である。ボーイング707やコンベア880と並んで第一世代ジェット機を代表する旅客機で、世界で初めて超音速飛行を行った旅客機でもあった。1930年代以降、DC-3やDC-4、DC-6など数々のレシプロ旅客機を開発・製造し、1950年代当時、アメリカを始めとする世界の旅客機市場で最大のシェアを誇っていたダグラス社が、DC-7Cの後継機種として、初のジェット旅客機として1952年に基礎的な開発を開始した。当初は80席級の中型機として開発がスタートされたが、その後ライバルとなるボーイング707と同様の大きさに変更した。その後、1955年6月に正式に開発を発表し受注を開始。直後に当時世界最大の航空会社の一つで、ダグラス機の古くからのユーザーでもあったパンアメリカン航空から25機を受注した。その後も各国の航空会社から1958年までに133機を受注した。しかし、先に開発をはじめたボーイング707に対する遅れを取り戻すために、試作機の製作を省くという当時としては画期的な開発手法を取り、その結果大幅に開発期間を短縮し、DC-8の生産のために建造されたカリフォルニア州ロングビーチのダグラス社工場で1958年4月に初号機が完成。同年5月に初飛行を行った。その後テスト飛行を行いFAAの耐空証明を取得、ライバルのボーイング707の初就航から約1年遅れの1959年9月18日にユナイテッド航空およびデルタ航空の定期路線に初就航した。その多くが太平洋や大西洋横断路線、アメリカ大陸横断路線などの長距離かつ需要の大きい路線にボーイング707とともに投入され、その結果、1950年代に至るまでクイーン・メリーやユナイテッド・ステーツなどの豪華客船が大きなシェアを占めていた大西洋横断航路や、同じく客船が大きなシェアを占めていた太平洋横断航路は終止符を打たれることになった。日本航空やKLMオランダ航空、アリタリア航空、ヴァリグ・ブラジル航空などアメリカ以外の航空会社からの発注も受け、世界各国の長距離路線のジェット化に貢献した。就航当初は予定された性能が出ずに販売面でも苦労したものの、その後次々にスーパー60シリーズなどの改良型や胴体延長型をリリースしたこともあり(主脚の長さが短いボーイング707は胴体延長が困難であった)、順調に発注数を伸ばし、後継機とされたワイドボディ機のDC-10の生産が始まった直後の1972年に、DC-10の販売に影響が出ないように生産中止するまでに計556機が製造された。なお、1961年8月21日にアメリカのエドワーズ空軍基地上空で行われた飛行テストの際に、DC-8-43が52,090フィートという民間航空機の高度記録を達成した。その後降下角20度で急降下した際に高度41,088フィートでマッハ1.021の速度を記録、旅客機として世界初の超音速飛行を行った。現在は、最新のものでも納入後40年以上に達することによる老朽化や、航空機関士が必要なことや交換部品の調達などで運航コストがかさむこと、さらに燃費効率の悪さや騒音規制に対応できないこと(-70シリーズを除く)などから旅客便からはほとんど引退してしまった。なお、大手航空会社においては1980年代に退役が進み、1990年代初頭にはほぼ姿を消した。なおこれらの大手航空会社においては、DC-8の直接の後継機種のマクドネル・ダグラスDC-10型機(日本航空やタイ国際航空、アリタリア航空など)の他、座席数は同等ながら、双発で燃料消費が少ない上に、長距離路線への就航が可能なボーイング767型機(日本航空やユナイテッド航空、ヴァリグブラジル航空など)やエアバスA310型機など(デルタ航空やKLMオランダ航空、スイス航空など)がその代替となった。2000年代においてはDHLやUPS、アローエアーなどの貨物航空会社が主要オペレーターだったが、その中でもエア・トランスポート・インターナショナル(ATI)は-73, -71, -62を保有する有数のDC-8ユーザーであった(ATIはDC-8の他にボーイング757やボーイング767-200SFを運用している)。しかし2010年代に入り、ボーイング757やボーイング767、エアバスA300などの中古機が多数出回るようになったため、これらの先進国の貨物航空会社からも退役する機体が多数出てきており、その活躍の中心は南アメリカやアフリカなどの貨物航空会社へ移ってきている。なお現在も政府専用機や貨物機に改装された-70シリーズを中心に数十機が現役で運航されている。ダグラス社が、開発当時に想定することのできなかった機体の設計ミスにより発生した、DH.106コメット事故の調査に協力したアメリカの航空機製造企業の主任として参加した経験から、過剰なまでのフェイルセーフ思想が設計に透徹されただけでなく、独自開発で到達したスーパークリティカル翼型と呼ばれる翼型(翼断面形状)やカットバックパイロン(エンジン懸架装置)が半世紀を経た後まで使用されるなど、いくつかの技術史上特筆すべき業績を残した機種である。なお、DC-8のライバル機種にあたり、先行して開発が進められていたボーイング707に追いつくために最初から量産機を製造して直接各種試験を行い、その結果によってその都度修正していったため、試作機は存在しない。DC-8には上記のもの以外にも独特の技術が数多く採用され、フラッシングトイレやコックピット座席シートに使われる布素材(ギャバジンと呼ばれるズボンが摩擦することで起こる光沢を防ぐ布)など、多岐にわたって分析・開発が行われた。また、技術革新に併せて多くの派生型が作られ、特に胴体長を標準型に比べ10メートル以上延長し、当時世界最大の250人以上の座席数を持つ-61/-63(と-71/-73)が、乗客数増大への対応を望んだ航空会社の人気を博した。これに対しライバルのボーイング707は主脚の長さが短く、胴体を延長すると離着陸時に尻もちをついてしまう上、設計上主脚を長いものに変更することが出来ないことから胴体延長が出来ず、販売上大きな打撃をこうむることとなった。この事が後に世界最大の旅客機となったボーイング747の開発理由の1つとなった。ボーイング707をはじめとするジェット旅客機は、客室与圧用空気取り入れは通常エンジンから圧縮空気を抽出(ブリードエアと呼ばれる)して行うが、DC-8は機首先端にあるレドーム下部のエアスクープ(空気取り入れ口)から行った。これはエンジン故障の際、客室に潤滑油や煙などの汚れた空気が流入するのを防ぐという理由で、独自の空気供給源として設計されたもので(また電子機器の冷却にエアスクープから取り入れた空気を利用している)、このため構造が複雑となり床下貨物室のスペースがボーイング707と比較して小さくなった。その他、エンジンコンプレッサーから抽出された圧縮空気を使用した機能が比較的多く、エアスクープから取り入れた空気をキャビンターボコンプレッサーを回転させることで圧縮しコクピットおよび客室への与圧を行うほか(温度調節には圧縮空気の再循環による加熱と冷媒による冷却システムによって行われる)、エンジンへの異物吸入を防止し、コックピット風防の雨粒を吹き飛ばすブロウアウェイジェットなどがある。ブロウアウェイジェットは地上においてエンジンのエアインレットに異物が吸入されないよう圧縮空気を噴射するものであり、地上でのエンジンの空冷にも使用される。ブロウアウェイジェットで使われる圧縮空気はエンジンコンプレッサーから抽出されているため、離陸時推力が3%低下する。これは航空機関士によるマニュアル操作で一時的に解除でき、離陸後は自動的に元に戻る。また、雨天時にコクピット窓の水を吹き飛ばすレインリムーバルもエンジンコンプレッサーから抽出された圧縮空気を利用しているため、ジェット旅客機としては唯一ワイパーが装備されていない。ただ使用時の騒音も相当なものだという。DC-8にはAPU(補助動力装置)が装備されておらず(-70シリーズを除く)、地上においては支援機材が必要になる。エンジン始動には外部から圧縮空気の供給を要するが、一度1基のエンジンが始動してしまえば圧縮空気を他のエンジンに供給して始動させること(クロススタート)が出来る。DC-8に装備されているスポイラー(減速板)は全て着地後に使用するグランドスポイラーとなっており、飛行中に使用するフライトスポイラーはない(ただし、)。このため、飛行中の減速は主翼内側にある2基のエンジンを逆噴射(リバース)して行った。これはジェット旅客機ではDC-8のみの特殊なオペレーションである(他のジェット旅客機では飛行中にリバースを行うと失速し墜落する危険性があるため、接地しないとリバースに入れられないように安全装置が施している)。この空中リバース作動は独特の騒音と振動を伴うため、日本航空では乗客の不安を考慮した独自のアナウンスマニュアルを用意していた。また、これらの特徴が後述する日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故(離陸時に誤ってグランドスポイラーを展開して失速、墜落)や日本航空羽田沖墜落事故(着陸進入中に機長が故意に逆噴射をして墜落)の原因の一つになったと言われている。-50シリーズ以前のターボジェットエンジン(ピュアジェットエンジン)を搭載した機体の一部では、エジェクターと呼ばれるノイズサプレッサー(騒音減少装置)とバケット方式のスラストリバーサーが一体になった筒状の装置を搭載しているものがあり、日本航空が導入したDC-8にもエジェクターを装備した機体(-30シリーズ)が存在した。これは離着陸時にエンジン排気口の後ろを覆う形で展開し、ジェット噴射流とエンジン周囲の空気流とのスムーズな混合を促す事で騒音を抑え、またこれによって推力が増加するため離陸上昇時にも使用される。離着陸以外では推力増加効果が薄れ抗力が増加するため上空では格納される。高揚力装置は最大展開時50度のシングルスロッテッドフラップと、前縁のエンジンパイロン付け根付近胴体寄りにあるウイングスロット(スラット)であるが、-10シリーズにおいてはウイングスロットは装備されていなかった。これは後の-20シリーズアップグレード改修において装備されるようになった(同時に翼端の形状改修が施された)。DC-8のメインギア(主車輪)は、ノーズギア(機首車輪)のステアリングが15度以上切られると、メインギアボギーが油圧によって「く」の字に折れ曲がるようになっている。このため、全長が57メートルもある長胴型の-61/-63/-71/-73でも滑走路内での180度方向転換が可能である。DC-8の操縦系統はラダー(方向舵)が操縦索とタブによる人力操舵と油圧を用いた操舵、エレベーター(昇降舵)は人力操舵のみ(いずれもオートパイロット作動時を除く)であるため、ジェット旅客機としては唯一ガストロック機構(地上において強い風によって舵が動くのを防ぐ装置)を装備している。このガストロックの操作にはかなりの力を要したという。フラップやエルロン、スポイラー等は他のジェット旅客機同様に油圧で動作する。機内設備については、機内食を温めるためのハイテンプオーブンや水洗式のトイレ、座席内蔵型テーブルなど、機内サービスの充実と快適性の向上を目的とした最新設備が多数奢られた。なお日本航空では、ハイテンプオーブンの導入に併せて機内食の食器にノリタケカンパニー製の陶磁器が使用されるようになった。客室の窓は片側3列座席に座る乗客が同時に下を眺められるよう大きめの窓を低めの位置に作られ、窓の配列の間隔は他の旅客機とくらべて広く(JR新幹線のN700系の窓をイメージするとわかりやすい)、40インチピッチとなっている。これは当初座席間隔を広めに設定していた名残とされている(設計当時の一般的シートピッチは、ファーストクラスで40インチ、ツーリストクラスで36 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38インチだった)。しかしこのために、エコノミークラスでは窓がない座席が複数できてしまうこととなった。DC-8の最初期型の-10シリーズはターボジェットJT3C-6を搭載し、最大離陸重量の違いで-11型と-12型の2種類が製造された。当時はまだJT3C-6エンジンが軍事機密扱いだったため、アメリカ国内線向けだけに限られ、1959年9月18日にユナイテッド航空とデルタ航空により初就航した。後に15機がJT4Aに換装され-21型に、11機がJT3D-3に換装され-51型となった。-12型の機体にターボジェットJT4A-9を搭載した-21型のみ34機が製造された。翼端を延長し形状を改修したことで、-12型に比べ航続距離が10%改善されたため、中距離国際線用として1960年1月21日ユナイテッド航空とパンアメリカン航空によって大西洋線に就航した。また、特筆される事柄としては1982年から1993年までNGO団体のが「空飛ぶ眼科病院」として-12型から改修した-21型(ユナイテッド航空より寄贈)を使用していた。-21型でも太平洋横断路線に使用するにはまだまだ航続距離が不足していたため、燃料タンクを増設し、主翼用翼端を延長するなどの改修を施されて登場した本格的な長距離国際線用で-31型・-32型・-33型の三種類が製造された。-31型はJT4A-9を装備し、最大離陸重量を300,000ポンドにした機体であったが、まだ性能不足のため、わずか4機で製造が打ち切られた。-32型はJT4A-9またはJT4A-10を装備し、最大離陸重量が310,000ポンドに引き上げられた結果、航続性能が大幅に改善された。これにより航空各社から注文が殺到し、43機が製造された。日本航空もこの-32型を受領し、1960年8月12日に太平洋線に就航させた。なお、日本航空では1961年4月24日に羽田空港でオーバーランし機体に大きな損傷を受けたDC-8-32(JA8003)のエンジンをダグラス社でJT3D-3に換装させ、-53型(JA8008)として再使用した。-33型は特に日本航空やスカンジナビア航空からの要望で北回りヨーロッパ線に就航させることを狙った機体でJT4A-11またはJT4A-12を装備し、最大離陸重量を315,000lbに引き上げた機体である。この頃-50シリーズが発表されたため、製造された機体はわずか10機だった。これらのDC-8初期型はターボファンエンジンと違いバイパス構造を持たないターボジェットエンジン搭載のため、静粛性や燃費の面で劣り、航続距離も航空会社の要求を満たす物ではなかったため(気象条件によっては東京 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ホノルル間をノンストップで飛べないこともあった)、後にターボファンエンジンを搭載した-50シリーズが登場すると、多くの航空会社は早期にエンジンの換装、発注機種の切り替えを行った。-31型・-32型・-33型の機体にイギリスのロールス・ロイス製コンウェイ12(ターボジェットエンジン)を装備し、使い慣れないプラット・アンド・ホイットニー社製エンジンの選択に躊躇していた、イギリスやカナダ、バハマなどのイギリス連邦諸国の航空会社の採用を狙ったものだった。また-40シリーズは実験飛行に使われたものもあった。このうち1機は旅客機としては史上初の音速の突破に成功した。これによりDC-8の優秀さを示すことに成功し大きな宣伝にもなった。-50シリーズはプラット・アンド・ホイットニー製のJT3D(ターボファンエンジン)を搭載し、静粛性と燃費、航続距離を向上させた。その結果、初めて貨物型や貨客混載型がラインナップに加わった。ボーイング707より劣っていた性能を一挙に挽回した-50シリーズの就航により、多数の受注を得ることに成功する。スーパー60シリーズと呼ばれる最終進化型の-60シリーズには、-61、-62、-63の三種類が製造された。1965年に開発が発表されている。なお、これまでDC-8の特徴の1つとされたものの、整備のしにくさが問題視されていた座席内蔵の酸素マスクおよび照明ユニットが廃止され、他の多くの機材同様にオーバーヘッドストウェッジ内蔵のものに改められ、窓のカーテンも廃止され遮光シェードに改められた。-61は-55の最大離陸重量や最大積載燃料を変えずに胴体を約11メートル延長した大容量・中距離機で、主にアメリカ国内線や日本国内線、アジア域内線をはじめとする中・近距離幹線に多く使われた。-62は-55の胴体を2m延長すると共に主翼の翼端を改良し、エンジンポッドも空力特性の改良を加えたものにカットバックパイロンを採用、1万キロ近くという当時としては最も長い航続距離を誇った中容量・超長距離機で、東京-サンフランシスコ間の無着陸太平洋横断飛行や、東京-モスクワ間の無着陸飛行が可能となり、日本航空やスカンジナビア航空、タイ国際航空など多くの航空会社で長距離国際線の花形となった。-63は-61型の胴体と-62型の主翼を組み合わせた大容量・長距離機で、その積載容量の大きさから旅客型より貨客混載型や全貨物型の方が多く製造された。-63型はボーイング747登場前は長距離用機として世界最大の旅客機(最大離陸重量換算)であり、主脚の長さなどの問題によりボーイング707の胴体延長をできないボーイングをいらだたせ、ボーイング747の開発が行われる動機の一つとなった。なお-63型は、最初の設計段階では-71型として計画されていた。また、ヨーロッパ域内の短距離路線向けに、-63型の航続距離を2000マイル程度に抑えた機体を製造する計画もあり、-73型として検討されていたが、実現しなかった。さらに-62と-63には、エンジンをパワーアップしたJT3D-7を搭載したハイレンジ仕様(通称:-62H、-63H)も生産された。-70シリーズは、生産中止後に比較的機齢の若い-60シリーズのエンジンをアメリカのジェネラル・エレクトリック社とフランスのスネクマ社の合弁会社であるCFMインターナショナル(CFMI)製のCFM56に換装し、静粛性の向上と燃費効率の向上、推力の向上を図ったものである。静粛性を向上することで、欧米諸国や日本などの先進諸国で1980年代以降に導入された騒音規制をクリアすることを狙った。また、-70シリーズではエアリサーチ社製のAPUが搭載された。-70シリーズへのアップグレード改修費用は当時の金額でおよそ1,500万ドルであった。なお、エンジン以外のアビオニクスなどのアップグレードは行われなかった。最初に-61型を改修した-71が1981年8月に初飛行し、その後-62型を改修した-72型や-63型を改修した-73型が相次いで導入された。その後ユナイテッド航空やデルタ航空、アイスランド航空などの多数のDC-8-60シリーズを運航していた航空会社が改修を行ない、総計110機が改修された。新型エンジンの換装で騒音規制をクリアしているため、アメリカをはじめとする先進国の大手航空会社ではボーイング767型機やエアバスA310型機が行きわたった1990年代に至るまで、それ以外の国でも2000年代に至っても多くの機材が現役で使用されていたが、もともとの機体が生産中止から30年以上が経過しており、2016年現在ではすでに旅客機としては使われておらず、貨物機やプライベート機に改造された機体も続々と姿を消している。※日本航空仕様総生産数:556機 (1958年から1972年まで)日本のフラッグ・キャリアである日本航空は、会社発足間もない1952年に世界初のジェット旅客機であるデ・ハビランド DH.106 コメット機をパンアメリカン航空や英国海外航空、エールフランス航空などのライバル会社とともに3機発注したが、その後発生した同機の連続空中分解事故を受けて発注をキャンセルした。その後、ボーイングが同社初の本格的ジェット旅客機であるボーイング707の開発計画を、ダグラスがDC-8の開発計画の開始を表明し日本航空への売り込みを行ってきたが、日本航空社内では「DC-6Bと比べ、スピードが2倍、搭載量も2倍でペイロード換算では4倍のキャパシティを持つジェット旅客機の導入は時期尚早ではないか」という意見も多かった。しかし、アメリカやヨーロッパのライバル会社が次々とボーイング707やDC-8の導入に踏み切ると、「競争上不利になる」としてジェット旅客機の導入論が再び浮上した。そこで日本航空社内では、DC-8とボーイング707、そしてイギリス製の大型ターボプロップ機であるブリストル ブリタニアの3種の機材の導入が検討されたが、ブリストル ブリタニアは早期の段階で検討対象から外れ、残ったDC-8とボーイング707との間で引渡し条件や過去の関係などを勘案した結果、長年に亘るダグラス機の実績と、当時運航技術や機体整備で協力関係にあったユナイテッド航空が採用したという2点を踏まえて、1955年12月15日にDC-8の導入を正式に決定した。発注機数は4機(確定-32型3機、オプション1機。後にオプションを1機追加し-33型機に機種変更)で、当時日本航空および日本政府の外貨準備高がまだまだ低かったこともあり、DC-8を購入するにあたり、その購入資金の4分の3はアメリカ輸出入銀行とダグラス社からの借款によって調達した。なお、日本航空がオーダーする直前にユナイテッド航空やデルタ航空が大量発注したことや、初の本格的な国際線用機材であったこともあり、引き渡しが競合他社に比べ大幅に遅れることがわかったため、日本航空の技術駐在員がダグラス社との間で引き渡し順を繰り上げるよう交渉を行い、1960年7月には引き渡しを受けられるようになった。さらに1959年9月に予定されていたパンアメリカン航空のボーイング707の太平洋横断路線導入とのギャップを埋めるべく、ボーイングとコンチネンタル航空に対して、早期に引き渡される予定の2機のボーイング707をリースできるよう両社と交渉を行ったが、この交渉は不調に終わった。日本航空のDC-8の路線就航に11か月先立つ1959年9月7日に、パンアメリカン航空のボーイング707が太平洋横断路線に導入された。1960年7月16日に、ダグラス社のロングビーチ工場において-32型(JA8001・愛称「FUJI」)が引き渡された(日本到着は同月22日)。以降、同機には各機ごとに日本の名勝・観光地を愛称として採用しているが、この命名パターンは日本語表記で採用されていたDC-4のものを受け継いており、DC-8では英語表記に改めている。同機は「空飛ぶホテル」をコンセプトに、前田青邨によるファーストクラスラウンジの装飾画など機内を日本風の内装で統一し、また、ハイテンプオーブンを導入し、併せて機内食の食器を陶磁器のものに更新し機内食サービスの充実を図るなど、これまで同路線に就航していたレシプロ機のDC-7CやDC-6Bに比べ、スピードだけでなく機内サービスの質も格段に向上させていた。また、DC-8の就航にあわせ、社章もお馴染みの「鶴丸」に変更し、客室乗務員の制服も改定されるなど、大変な力の入れようであった。しかし、内装の特注は製造を請け負うダグラス社からは不評を買い、「たった4機でそんなことをさせるのか」と言わしめた逸話は有名になった。その後、ライバルのパンアメリカン航空のボーイング707の太平洋横断路線就航から遅れること約11か月の1960年8月12日に、羽田=ホノルル=サンフランシスコ線に就航させ、乗客98人と当日の朝刊300部を搭載し東京国際空港を飛び立った。その後の9月5日にはロサンゼルス線に、11月1日にはシアトル線に相次いで就航した。なお、-32型はターボジェットエンジンのため燃費が悪く、西行き便は太平洋上に浮かぶウェーク島のアメリカ軍基地に給油のためにテクニカルランディングした。11月2日には初の東南アジア路線である東京=香港線に就航した他、-33型の受領により1961年6月6日には、北回りヨーロッパ線(東京=アンカレッジ=コペンハーゲン=ロンドン=パリ)を開設した。しかし、発動機が燃費の悪いターボジェットだったため、逆風が強い場合アンカレッジ=コペンハーゲン間を直行できず、ノルウェーの北極部のボドーにあるアメリカ空軍基地に給油のため着陸する必要があった。また、この路線への参入にあわせて運航乗務員は、防寒や白熊に襲われたときの銃の撃ち方など、北極部への不時着時の際のサバイバル方法についての訓練を受けた。その後日本航空は、ターボファンエンジンを搭載した-53型、-55型、貨物型の-55F型、機体を大幅に延長した-61型、航続距離を飛躍的に増大させた超長距離型の-62型を逐次導入、1987年12月31日に全ての路線から引退するまでの27年間にリース機やイースタン航空からの購入機も含め計60機を導入し、延べ使用機数ではユナイテッド航空に次いで2番目のカスタマーであり、1967年3月6日に開設された世界一周路線(東京=香港=バンコク=ニューデリー=テヘラン=カイロ=ローマ=フランクフルト(またはパリ)=ロンドン=ニューヨーク=サンフランシスコ=ホノルル=東京)などの国際線、国内線の主力機として使用した。また、日本と中国共産党率いる中華人民共和国の国交が樹立され、それに伴い運休した日本航空の中華民国路線を継承するため設立された日本アジア航空も発足時に主力機材として使用した。なお、就航当初長距離路線や高需要路線を中心に使用することを想定されたDC-8を補佐するため、短・中距離路線用機材として、1961年に中型ジェット機であるコンベア880-22M型9機が導入された。しかし同機は操縦が難しく、整備も煩雑で故障が多く、定時出発率の確保が困難だったことに加え、その後のDC-8の各シリーズの大量導入と同サイズの新型機であるボーイング727型機の就航も重なり、1971年に早くも全機が退役、ボーイング747型機の下取りとしてボーイング社に引き取られた他、コンベア880型を多数運航していたキャセイ・パシフィック航空に売却された。長胴型の-61は1969年4月1日、コンベア880-22M型に替わって東南アジア線(東京=香港=シンガポール=ジャカルタ)に就航した。またオールエコノミーで252席のキャパシティを有する-61型の国内線仕様は、高度成長期真っ只中に開催された大阪万博開催の年である1970年4月1日に、羽田=札幌線、羽田=大阪(伊丹線)に投入され、激増する国内旅客需要への対応に貢献した。-61型の中には「EALタイプ」と呼ばれる機体があり、これは日本航空がアメリカのイースタン航空より購入またはリースしたものであった(リース機は契約終了後に購入または再リースされ、その結果日本航空が所有した-61型のEALタイプは合計14機にのぼる)。イースタン航空においてアメリカ国内線で運航していた機体をそのまま使用しており、長距離飛行に必要な航法装置(INS、ONS、ドップラーナビゲーション)が装備されておらず、その他のシステムもJALで使用している機体と若干違いがあったため、パイロット泣かせの機体であったという。また、-62型はその航続性能を活かして1968年6月16日にアメリカ西海岸直行線(東京=サンフランシスコ)を皮切りに、モスクワ経由ヨーロッパ線やサンパウロ線、バンクーバー経由メキシコシティ線などの長距離路線に就航した。特に、1970年3月28日に開設された世界初の西側航空会社の自主運航によるシベリア上空を通過するモスクワ線は、これまでアラスカのアンカレッジ経由で運航していたヨーロッパの主要都市への飛行時間と距離の短縮に寄与すると共に、長距離ノンストップ便のさきがけとなった。このように、DC-8はまさに高度成長期の日本航空を支える「花形機」であったが、その反面、ダッカ事件(JA8033/-62)などハイジャックの当該機になった他、1961年に羽田空港で発生したオーバーラン事故(JA8003/-32、修理復旧)を皮切りに、1968年のサンフランシスコ沖着水事故(JA8032/-62、修理復旧)や1972年のニューデリーでの墜落事故(JA8012/-53)やボンベイでの誤着陸事故(JA8013/-53)、モスクワ墜落事故(JA8040/-62)などの連続事故、1977のアンカレッジ(JA8054/-62AF)やクアラルンプールでの墜落事故(JA8051/-62)、1982年の羽田空港沖墜落事故(JA8061/-61)、上海(虹橋)空港でのオーバーラン事故(JA8048/-61)などの事故で合計7機が失われた。また、日本航空のDC-8は、昭和天皇のヨーロッパやアメリカ歴訪、ビートルズの来日、上野動物園に寄贈されたジャイアントパンダの空輸、横井庄一や小野田寛郎などの残存日本軍兵士の帰国、三井物産マニラ支店長誘拐事件の被害者の帰国時など、1960年代から1980年代にかけての日本の歴史の節目となるさまざまな行事・事件の際に政府特別機やチャーター機として特別運航され、その度に脇役としてテレビに映され、新聞の一面を飾った。また、TBS系列テレビドラマ「アテンションプリーズ」(昭和版)のオープニングでも飛行中の同機の映像が使用され、そのスマートな姿は「空の貴婦人」とも呼ばれ、全国のお茶の間でお馴染みとなった。特に運航成績のよかった、JA8010(-53型)とJA8019(-55型)、JA8052(-62型)は御召機、皇族乗用機や内閣総理大臣の日本国外への訪問特別機、または要人輸送用として活躍した。なお、系列会社の日本アジア航空でも使用されたほか、タイ国際航空やガルーダ・インドネシア航空、大韓航空やノースウェスト航空、スカンジナビア航空、KLMオランダ航空、アリタリア航空などの多くの航空会社が日本への乗り入れ機材に使用した。日本航空のDC-8は初就航から約27年後の1987年12月31日に、DC-8-61(JA8046)がラストフライトを行い全機が退役したものの、今でも人気の高い旅客機の一つであり、現在も貨物機や政府特別機として飛来すると多くのファンが空港に詰め掛けるほどである。なお、日本では騒音発生源対策の観点から1975年の航空法改正で「騒音基準適合証明制度」が設けられており、基準は段階的に厳格化された。そのため日本国内ではエンジン非改修型のDC-8の飛行は1988年1月以降、禁止されている。同時期に開発、導入された第1世代のジェット旅客機であるボーイング707やコンベア880などと同じく、機材や航法支援、空港設備など様々な要素における安全対策に対する技術がまだまだ低かったジェット旅客機の黎明期から多数の航空会社で運航されたため、100万時間当たりの全損事故率は5.91と、近年のジェット旅客機に比べて高かった(ボーイング747-400は1.02、エアバスA310は1.74、2002年までのデータ)。

出典:wikipedia

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