川内町(かわうちまち)は、下北半島の中央部、陸奥湾に面していた町である。2005年3月14日に隣接するむつ市に編入したため廃止した。青森県下北半島の中央部に位置する。北部を恐山山地を構成する山々が続くが、海岸部まで迫るような急峻な地形はほとんど存在しない。町面積は県内4位の面積であったがその多くを山地にて占める。海岸線沿いの平野部に集落が存在する。山地の南側に位置することもあり、下北半島の中でも気候は比較的穏やかである。鎌倉時代には下北半島一帯は津軽安藤氏により支配されていたが、建武の頃(1330年代前半)から南部師行の目代である武田氏が当町に錦帯城(蠣崎城)を築城し支配する。武田氏五代目である蔵人信純が蠣崎氏を称する(東北太平記による説で、蠣崎蔵人の乱までは異説がいくつかあり、安藤氏の支配だったと言う説もある)。1450年代後半に南部氏に対する蠣崎蔵人の乱が起きると、南部政経(八戸政経)が追討し、蠣崎氏は北海道に逃走する。以降、この地は初代留守居を新田盛政とする南部八戸一族の支配地となる。江戸時代には田名部七湊の一つとして数えられる川内湊より北前船による交易が蝦夷地や上方と盛んに行われ、主として南部ヒバやヒノキ、海産物が運ばれた。大正時代には日本三大銅山に数えられた安部城があり、その周辺に集落が形成されたが20世紀前半に閉山した。この時期に行われた第1回国勢調査(1920年(大正9年))の結果、一時的に下北郡で最大の人口規模となり、郡の中心地であった田名部町や後に発展する大湊村を上回っていたが、鉱業の衰退に伴いわずか数年の間に人口も減少した。主産業は下北地方には珍しく農業及び観光である。かつては川内川沿いなどに森林鉄道があり、地元の足としても機能したが廃止された。
出典:wikipedia
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