長慶会盟(ちょうけいかいめい)は821年(唐:長慶元年、吐蕃:彝泰7年)に中国の唐朝とチベットの吐蕃の間に結ばれた会盟。会盟の内容から甥舅和盟とも証される。821年(長慶元年/彝泰7年)10月、唐朝の都城であった長安において唐朝は丞相である崔植、王播、杜元穎等17人、吐蕃は礼部尚書である論訥羅の間で会盟が成立、翌年5月には唐朝は専使として大理寺卿である劉元鼎以下の使節を吐蕃に派遣、吐蕃の鉢闡布·勃闌伽允丹を首班とする官員により邏些東郊で会盟を行った。会盟後は吐蕃は使節を劉元鼎に随行させ長安に派遣、また別に使節を大夏川(現在の甘粛省大夏河)に派遣、東道将領100余名に盟文を発表し、盟約を厳守することを要求した。823年(長慶3年/彝泰9年)、唐蕃両国は会盟の内容、参加使節名及びその経緯を刻字した石碑を、唐蕃国境の日月山(ニンダーラ、グング・メル山)、そして両国の都城である長安とラサ(邏些)の3箇所に設置された。長安及び日月山の石碑は失われたが、邏些に設置されたものは現在のチベット自治区ラサ市大昭寺に現存している(唐蕃会盟碑)。碑文では、中国語では「大唐」「大蕃」、チベット語では「大中国(rgya chen po)」「大チベット(bod chen po)」等と明記され、両国が対等の立場で和平条約を締結し、国境について合意した旨が記されている。あるいは{中国語では「和同為一家」、チベット語ではとし、}中国語では「社稷を一にせんと商議し(商議、社稷如一)」チベット語では、「国政を一つにしようと相談し(chab srid gcIg du mol nas)」、今後については、「蕃漢二國」すなわち「チベットと中国の二国(bod rgya gnyis)」が、相互に国境を犯すことなく、また兵を用いないことが強調されている。条文には、などと記されている。チベット亡命政権情報国際関係省の訳文では、とある。中華人民共和国はこの条文の解釈を以下のように解釈し、チベット併合の根拠にしている。このような中国側の解釈に対して、チベット亡命政府などは、まったくのでたらめであるとして反発し、唐と吐蕃は、それぞれ別の国として記載されていることを強調している。山口瑞鳳やハンガリーのJ・セルブらは1980年代にこの長慶会盟締結のときに、ウイグル帝国とチベット帝国との間にも講和が結ばれたとする仮説を提唱した。その後、森安孝夫がパリで敦煌文書の断片ペリオ3829番に「盟誓得使三国和好」という文言を発見した。また中国の李正宇がサンクトペテルブルクで敦煌文書断片Dx.1462から同様の内容の記録を発見し、三国会盟が締結されていたことが明らかになってきている。これらの研究を総合すると、820年代当時の唐・チベット・ウイグルの国境は、清水県の秦州や天水と、固原(原州)をむすぶ南北の線が、唐とチベットの国境線であった。また、東西に走るゴビ砂漠が、ウイグルとチベットとの国境であった。なお、ゴビ=アルタイ東南部のに、ウイグル語、ソグド語、漢文の三言語で記されたセブレイ碑文が現存しているが、森安は、このセブレイ碑文を、ウイグル側が三国会盟を記念して、建立したとしている。
出典:wikipedia
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