F4U コルセア(F4U Corsair)は、アメリカのチャンス・ヴォートが開発し、第二次世界大戦と朝鮮戦争でアメリカ海軍と海兵隊が使用したレシプロ単発単座戦闘機である。ヴォート社の他にグッドイヤー社とブルースター社でも生産され、グッドイヤー社製の機体はFG、ブルースター社製の機体はF3Aという制式名称が与えられた。また、AUという呼称がある攻撃機型も存在する。F2A バッファロー艦上戦闘機などの後継として航空機メーカーのチャンス・ヴォートが1938年2月に開発を開始した。Corsair:コルセアとは海賊の意。前下方方向の視界を良くするためと、大直径プロペラ装備ながら主脚長を短くするために逆ガル翼が採用された特徴的な機体である。1938年2月に、アメリカ海軍が戦闘機の開発要求を出し、チャンス・ヴォートは4月に1,200馬力級エンジンを搭載するV-166A案と2,000馬力級エンジン搭載のV-166B案を提出した。当時、戦闘機用エンジンの主流は1,000馬力以下であったが、6月11日にV-166B案がXF4U-1として、海軍から試作発注がなされた。当時としては大きさも怪物級であり、海軍で一番大きなプロペラをつけた、海軍一重たい艦上戦闘機となった。初飛行は1940年5月29日である。試作機XF4U-1は一度墜落事故を起こしているものの、時速650kmを記録するなど、性能は良好であった。量産型F4U-1の初飛行は1942年6月25日である。機体は完成したものの、F4F ワイルドキャットの後継機としての座はF6F ヘルキャットに譲っている。失速挙動が危険・前方視界が不十分・プロペラブレードが長く、下手をすると着艦(着陸)時に甲板(地上)にプロペラを打ち破損する可能性がある、といったものがその原因であり、すでに艦上での実績と戦果もあるF4Fの設計改良版であるF6Fのほうが信頼性に優れるため、ということだったようである。このことから一部の意見では「航空母艦に搭載されるための機体設計をしなかった欠陥機」との意見もある。ただし、主脚の強度は自重に十分耐えられるものであり、F6Fでよく発生した自重による主脚損壊は本機の場合は発生例がほとんど確認されていない。機体下面には操縦席の真下に直結している窓が設置されていた。試作段階時では目視による爆弾投下を想定しており、それ用の下方視界を確保するためであったが構想倒れに終わっている。初期型ではその名残で窓自体は存在していたものの、塗装の時点で塗り潰されていた。航空母艦への着艦が難しいとの評価が下されると、初期生産機はすべて海兵隊に引き渡され、陸上機として運用された。この機体は主に太平洋戦線に投入されたが、1943年2月14日に陸軍航空隊と合同でブーゲンビル島を攻撃して零戦主体の日本海軍の防空隊と初交戦した際、米軍側が10機(P-38 4機、P-40 2機、B-24 2機、F4U 2機)被撃墜、日本側は零戦1機が自爆したのみという大損害を受け、「セントバレンタインデーの虐殺」と呼ばれる敗北を喫した。F4U-1後期型(F4U-1A)はF4U-1より着艦が容易になり、1943年11月、アメリカ海軍の空母エセックスとバンカー・ヒルに運用が開始され、持ち前の空戦性能を生かしての空中戦に加え、その馬力を利用した爆装も可能であり、戦闘爆撃機としての運用も行われ、硫黄島や沖縄などを攻撃している。なお、本格的に空母に搭載されるようになったのは、初の本格的な戦闘爆撃機型であるF4U-1Dからである。本機は加速性能はいいが上昇率は高くなく、最適上昇速度も232km/hと低い。運動性は高速時のエルロンの利きはいいが低速時は悪く、ラダーも重くてスピンからの回復が困難など問題を抱えていた。このような問題があるため、上述の「セントバレンタインデーの虐殺」となった。元日本軍側搭乗員に対する戦後のインタビューでの回答では、F6Fは手強かったという証言が多かったのに対し本機はそれほど苦手意識は持たれていない。むしろF6Fと比べるとかなり落としやすい機体という認識であり、それを裏付ける証言も多かった。アメリカ側でも運動性のいい日本機相手ならF6Fの方がいいというパイロットが多かった。この戦果は操縦者の技量による所もあり、大戦初期の日本軍は十分に時間をかけて訓練した熟練操縦者が中心であったが、後期以降は短期育成した新兵の比率が高くなっていた。太平洋の戦場だけでも、F4Uは64,051回出撃して、2,140機の日本軍機を撃墜しながら、F4U自体は189機を失ったのみであり、キルレシオは1:11.3である。F4Uは、イギリス海軍にも供与され、本格的な運用は1944年から終戦までと期間的には短かったものの、アメリカ海軍よりも先の1943年の時点で空母「イラストリアス」で運用を行った。イギリス海軍では左旋回しつつ着艦寸前まで視界を確保しながらのアプローチを行い、アメリカ海軍で問題とされた視界不良を緩和できた。F4U-1はコルセア Mk.I、F4U-1Aはコルセア Mk.IIと命名され、F4U-1Dとその後期型であるコルセア Mk.IIIとMk.IVは、天井の低いイギリス空母格納庫への収容と低空における性能向上のため、主翼の翼端が切り落とされていた。アメリカで製造されたコルセアはクォンセット・ポイントなどから護衛空母でイギリスへと運ばれた。戦艦「ティルピッツ」を攻撃するタングステン作戦では、爆撃部隊の護衛としてその役割を果たした。大戦末期にはイギリス太平洋艦隊へ編入された空母に同行し、日本近海でも作戦に従事した。大戦後は戦闘機のジェットエンジン化が進んだが、初期のジェット戦闘機は木造甲板空母での使用に難があったため、戦後もF4Uの生産は続けられた。純粋な戦闘機としての任務はジェット戦闘機に譲り、レシプロ機は戦闘爆撃機として使われる事になったが、F4Uはこの目的にぴったりであり、生産は1950年代まで続いた。この時期、チャンス・ヴォート社は超音速戦闘機であるF8Uの開発に着手しており、その傍らでレシプロ機である本機の生産を継続していた。朝鮮戦争では海兵隊所属機として開戦当初に活躍した。また、当戦争で米軍初のMiG-15 ジェット戦闘機の撃墜記録をもっている。戦後はアメリカの同盟国に供給され、ラテンアメリカ諸国では長らく現役の座にあった。1969年のサッカー戦争においても使用され、レシプロ戦闘機同士の最後の空中戦を行った。同年7月17日、ホンジュラスとエルサルバドル国境付近で起きた2度の空中戦において、ホンジュラス空軍のフェルナンド・ソト・エンリケス大尉が操縦するF4U-5が、エルサルバドル空軍のF-51D(米軍用機命名規則変更後でのP-51Dの制式名)1機とFG-1D(グッドイヤー社製F4U-1Dの呼称)2機を撃墜。ソト大尉は『最後のコルセア・ライダー』としてミリタリーファンによく知られる存在である。当機はエンジンの交換、電子ポッドの装備など、数多くの派生型が存在している。これは当機が大型であった上、馬力にもかなり余裕をもって設計されているためにできたことであり、当機の設計の優秀さを物語っている。アメリカ海軍軍用機の命名規則により、チャンス・ヴォート社に割り当てられた製造会社記号はUである。そのため、開発元のチャンス・ヴォート社が製造した機体であれば、この機体はチャンス・ヴォート社にとって4番目の海軍戦闘機なのでF4Uとなるが、グッドイヤー社(記号G)が製造した機体では、グッドイヤー社はこれまで海軍戦闘機を製造したことは無かったのでFGとなる。また、ブリュースター社(記号はAで、これまで2種の海軍戦闘機を製造)製造の機体はF3Aである。さらに、チャンス・ヴォート社が製造したF4Uの攻撃機型は、チャンス・ヴォート社にとって初の海軍攻撃機となったためAUという記号がついた。当時のアメリカ海軍の命名規則では、このように同一の機体が製造会社などの細かな差異のために似ても似つかない複数の制式名称を持つようになってしまっていた。一方、同じF4とついているグラマン社のF4F ワイルドキャットとはまったく別の機体である。このため、運用側(特に整備面)ではしばしば混乱を生じていたという。確かにF4という型番の機体が同時代に複数存在すると、紛らわしいのは事実である。また、ハイフンを入れないF4Uというような表記が正しい型式であり、Fと4の間にハイフンを入れてF-4Uなどと表記される場合も見受けられるが誤りである。愛称の「コルセア(Corsair)」とは大航海時代以降のフランスにおいて、サン・マロを拠点に英仏海峡で活動した私掠船の通称「コルセール」の英語読みである。なおフランスにはコルセールフライ (Corsairfly) という航空会社が存在する。アメリカ海軍は1966年に配備したA-7にコルセアIIの愛称を与えている。なお、日本海軍では同機をコルセアではなく主に「シコルスキー」と呼称していた。それは1939年、コネチカット州ストラトフォードへ本社を移転した際に、ユナイテッド・エアクラフトの1部門だったシコルスキー・エアクラフトと合併し、社名をヴォート・シコルスキー・エアクラフトと変えていた為である。尚、1954年、同社はユナイテッド・エアクラフトから独立し、社名をチャンス・ヴォート・エアクラフトとした。 1945年(昭和20年)2月16日の関東上空邀撃戦において空母ベニントン搭載の第123海兵戦闘飛行隊所属のロバート・M・シース少尉操縦のF4U-1Dが対空砲火によって茨城県霞ヶ浦海軍飛行場付近に撃墜され、鹵獲された。また同年3月18日には宮崎県北部の冨高基地を攻撃するために発進した空母エセックス搭載の第83戦闘爆撃飛行隊所属のF4U-1D16機に対し上空哨戒中の第二〇三海軍航空隊戦闘第三一二飛行隊浅井幾造大尉以下4機に邀撃隊の戦闘第三〇三飛行隊岡嶋清熊少佐以下32機、戦闘三一二飛行隊林美博大尉以下25機が加わり空中戦を展開。ワーレン・O・シグマン中尉、ウイリアム・F・ガーナ―中尉操縦の2機が未帰還となりガーナ―中尉機は海上に不時着水し、シグマン中尉機は鹿児島県笠ノ原海軍飛行場付近に不時着し鹵獲された。
出典:wikipedia
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