ジェームズ・N・マティス()は、アメリカ海兵隊の軍人。最終階級は大将。NATO変革連合軍最高司令官、アメリカ統合戦力軍(USJFCOM)司令官、アメリカ中央軍(CENTCOM)司令官などの要職を歴任した。通称は「カオス」、「戦う修道士」、「狂犬マティス」。1950年9月8日、ワシントン州プルマン生まれ。2007年から2009年まで、アメリカ統合戦力軍(USJFCOM)、およびNATO改革連合軍の司令官を兼務していた。その後、2010年8月11日をもってデヴィッド・ペトレイアスに代わりアメリカ中央軍の司令官となった。2007年以前は、第1海兵遠征旅団、アメリカ中央軍海兵隊、イラク戦争での第1海兵師団等の司令官を歴任していた。1950年9月8日、ワシントン州プルマンに生まれる。セントラル・ワシントン大学を卒業後、1972年1月1日付で海兵隊に少尉として任官した。その後中尉に昇任し、第3海兵師団のライフル小隊と武器小隊の指揮に、大尉に昇任後は第1海兵大隊(第1海兵師団・第7海兵連隊隷下)でライフル中隊と武器中隊の指揮にそれぞれあたった。少佐に昇任したマティスは、オレゴン州ポートランドにある新兵募集基地で新兵募集任務に従事した。中佐に昇任したのちは、大尉時代に隷下中隊に属していた経験のある第7海兵連隊・第1海兵大隊の指揮官(大隊長)となる。湾岸戦争において、同大隊は「砂漠の盾作戦」決行にあたって組織されたタスクフォースの1つ、「リッパー」(Task Force Ripper)の構成部隊の1つとなり、マティスも大隊長の1人としてタスクフォース・リッパーの指揮に関わった。その後大佐に昇任、第7海兵連隊の指揮官(連隊長)となった。准将に昇任したマティスは、南アフガンで展開中の「不朽の自由作戦」において、第1海兵遠征旅団と海軍隷下のタスクフォース58号を指揮する。同作戦で、マティスは海兵隊員としては初めて海軍のタスクフォースを指揮した人物となった。少将へ昇任後は、2003年のイラク侵攻では第1海兵師団(海兵隊から参加した第1海兵遠征軍の主力地上部隊)を率い、それに続くイラク戦争でも変わらず指揮をとった。2004年4月のファルージャでの戦闘()では、市内の暴徒たちの指導者との交渉で重要な役割を担う。またマティスは、11月の作戦(ファントム・フューリー作戦)の立案でも大きな役割を果たしている。その後は中将へと昇進し、マティスはの指揮をとることになった。そして2005年2月1日、彼はサンディエゴの討論会で次のような発言をする。アドリブによるマティスのこの発言は波紋を呼んだ。海兵隊の当時のトップである大将(海兵隊総司令官)もこのスピーチを問題視したものの、マティスは言葉をもっと慎むべきであるが、懲戒処分には当たらないとした。従軍している兵士の多くが市民を虐待していると仲間に告げていたことを示すアメリカ国防総省の調査を受けて、マティスは2007年の5月に「"市民に腹がたったりむかつくようなときこそ、アルカイダやその他の反乱分子への勝利だ"」と海兵隊員たちに語った。暴徒を抑えるためには戦場での休息こそが鍵になるという考えに対しては、「"イラク市民を揺さぶるたびに、アルカイダも墓場に転がっていく"」と答えた。大将としてのマティスは「"友よりましな敵はなし"」(もとはローマ人スッラの言葉)というスローガンを指針として浸透させた。この言葉は、彼のもとで小隊を指揮していたイラリオ・パンターノ少尉(自己防衛だとして非武装のイラク人を射殺した行為などが問題となった)の査問中にたいへん有名になった。2010年7月、マティスは国際治安支援部隊(ISAF)司令官兼アフガニスタン駐留アメリカ軍(USFOR-A)司令官に転出することになったデヴィッド・ペトレイアス陸軍大将の後任として、ロバート・ゲーツ国防長官の推薦により、バラク・オバマ大統領よりアメリカ中央軍(CENTCOM)司令官に指名された。正式な指名は7月21日付で発令された。本人事は、きわめて緊急性が高い人事だったこともあり速やかに上院軍事委員会による承認プロセスがとられ、8月5日に上院軍事委員会において承認に向けた公聴会が開催された。本人事は、上院軍事委員会およびその後の上院本会議での採決でも無事に承認を得て、マティスはペトレイアスの後任として8月11日付で正式に中央軍司令官に就任した。これにより、2011年7月にアレン中将が大将昇任・補職に伴って退任するまでの1年近くにわたり、同じ統合軍の正副司令官ポストを共に海兵隊出身の将官が務めるという状況が生まれた。このように、同じ統合軍の正副司令官ポストを共に海兵隊出身の将官が占めるということは、史上初めてのことであった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。