ロックパイル (Rockpile) は、1970年代後半から1980年代にかけて活躍したイギリスのポップ・ロックグループ。メンバーはデイヴ・エドモンズ(ボーカル、ギター)、ニック・ロウ(ボーカル、ベース)、テリー・ウィリアムズ(ドラムス)、ビリー・ブレムナー(ボーカル、ギター)の4人で、ロカビリー、ロックンロール、ポップスなどをベースにした多様な音楽性は、パブロック、ニューウェイブミュージックに大きな影響を及ぼした。グループ名義でのアルバムは1980年の『セカンズ・オブ・プレジャー』("Seconds of Pleasure") 1枚のみであるが、エドモンズ名義の2枚、ロウ名義の1枚もロックパイルのメンバーによってレコーディングされた。エドモンズ、ロウのその他のソロ・アルバムでも、このラインナップでレコーディングされたものがいくつかある。ミッキー・ジャップやカーリーン・カーターのレコーディングにもバックバンドとして参加した。1970年、デイヴ・エドモンズが自らのアルバム『ロックパイル』("Rockpile")をリリースした際のプロモーションツアー中に、テリー・ウィリアムズを含むツアーメンバーでデイヴ・エドモンズ&ロックパイルを結成。
しかしツアー後にバンドは解散し、エドモンズは一旦スタジオワークに戻る。
ここで自らプロデュースしたパブロック・バンド、ブリンズレー・シュウォーツのベーシスト、ニック・ロウと知り合い、シュウォーツの1974年のアルバム『ザ・ニュー・フェヴァリッツ』("The New Favourites") の制作に協力する。
シュウォーツは、お返しに1975年のエドモンズのソロ・アルバム『Subtle As A Flying Mallet』の2曲でバックをつとめた。
シュウォーツは『ザ・ニュー・フェヴァリッツ』リリース後に解散、エドモンズとロウはセッションを開始する。シュウォーツのマネージャーだったデイヴ・ロビンソンがジェイク・リヴェラとともにスティッフ・レコードを設立、ロウが契約第1号アーティストとなり、ロウはエドモンズと組んで数曲をレコーディングし、ロウ名義のアルバムに収録した。スティッフはエドモンズとの関係も強化したがったが、エドモンズは当時リヴェラと折り合いが悪く、1976年にレッド・ツェッペリンのスワン・ソングとソロ契約を結んでしまう。エドモンズがロウ、テリー・ウィリアムズの協力を得て新しいソロ・アルバム『ゲット・イット』 ("Get It") をレコーディングしたのに続いて、ロウ、エドモンズ、ウィリアムズの3人にビリー・ブレムナーを加えた新生ロックパイルが結成された。2人のフロントマンが異なるレーベルに所属しているという不自由にもかかわらず、バンドは精力的に活動を開始。1976年から77年にかけて、エドモンズの新しいレーベルメイトバッド・カンパニーのオープニングアクトとしてツアーを敢行、またエドモンズはスティッフが企画したコンピレーションのために数曲を提供した。ロウ個人の人気が高まるにつれ、一時的にグループの活動は停滞する。1977年、ロウはスティッフ・レコード所属アーティストの企画ツアー"Five Live Stiffs"に出演、このときのバンドは Nick Lowe's Last Chicken in the Shop と名付けられ、ロックパイルからはウィリアムズのみが参加した。しかし、終了間際でエドモンズがバンドに飛び入り、ブレムナーはこのツアーには参加していなかったものの、まもなくロックパイルはフルタイムの活動に戻った。バンドはまず、1978年3月のロウのデビュー・ソロアルバム『ジーザス・オブ・クール』("Jesus Of Cool") にバックバンドとして参加(このアルバムはアメリカでは『ピュア・ポップ・フォー・ナウ・ピープル』("Pure Pop For Now People")とタイトルを変え、収録曲も変更され、メンバーもそれぞれに違うナンバーを演奏した)。
同年リリースのエドモンズのソロ・アルバム『トラックス・オン・ワックス4』(Tracks on Wax 4) もメンバー4人によってレコーディングされており、事実上ロックパイルのアルバムである。ロウとエドモンズの2人のアルバムが出そろったところでバンドはツアーに出かけた。また、ロウがプロデュースしたミッキー・ジャップのアルバム『ジャッパニーズ』("Juppanese") のSide-Aでバックを担当した。1979年には、エドモンズの『リピート・ホエン・ネセサリー』("Repeat When Necessary") とロウの『レイバー・オブ・ラスト』("Labour of Lust") をほぼ同時期にレコーディングした。エドモンズはエルヴィス・コステロ作の「ガールズ・トーク」("Girls Talk") をシングルとして出しヒットした。ロウの「恋するふたり」("Cruel to Be Kind") もヒットした。1979年12月29日、ポール・マッカートニー・アンド・ウイングス、クイーン、スペシャルズ、クラッシュ、イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズ、プリテンダーズ、ザ・フー、レッド・ツェッペリンのらが集結した「カンボジア難民救済コンサート」が開催され、ロックパイルとレーベル・メイトのエルヴィス・コステロも参加。ロックパイルは「スリータイム・ルーザー」("Three Time Loser") と、ロバート・プラントとジョイントしての「リトル・シスター」() を演奏した。1980年、エドモンズはスワン・ソングとの契約を完了するためにソロ・アルバム『トゥワンギン…』("Twangin") をレコーディング。これにより、ロックパイルはジェイク・リヴェラの新レーベル、Fビート・レコードから本当のバンドのレコードをリリースできるようになった。同年10月、ロックパイル名義での初アルバム『セカンド・オヴ・プレジャー』("Seconds of Pleasure")を発表。3人のメンバーがリード・ボーカルを分け合った。アルバムには「Nick Lowe & Dave Edmunds Sing The Everly Brothers」と題したボーナスEPが付いており、ロウとエドモンズは「テイク・ア・メッセージ・トゥ・メアリー」「クライング・イン・ザ・レイン」「プア・ジェニー」「ホエン・ウィル・アイ・ビー・ラヴド」の4曲をデュエットした。アルバムからはロウの歌う「ティーチャー・ティーチャー」 ("Teacher, Teacher") が小ヒットを記録した。また同じ年、ロウの新しい妻のカーリーン・カーター(ジョニー・キャッシュの養女)のアルバム『』をバックアップする。しかし、このころから2人のフロントマン、ロウとエドモンズの間に緊張が高まり、8月には有名なヒートウェイヴ・フェスティバルのステージに上がったものの、2人の間は修復不可能となり、1981年にロックパイルはその活動にピリオドを打った。バンド解散後にリリースされたエドモンズのソロ・アルバム『トゥワンギン…』の収録曲は、ほとんど彼の前のソロ・アルバムからのアウトテイクであり、11曲のうち9曲でロックパイルが演奏した。ウィリアムズとブレムナーは、1980年代にリリースされたロウのアルバム数作で共演したが、ロウとエドモンズは1988年のロウのアルバム『ピンカー・アンド・プラウダー・ザン・プレヴィアス』("Pinker and Prouder than Previous")まで一緒に仕事をしなかった。
出典:wikipedia
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