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横綱土俵入り

横綱土俵入り(よこづなどひょういり)は大相撲の最高位である横綱が本場所の幕内取組前や巡業先などで行う土俵入りである。片屋入り(かたやいり)とも呼ばれる。力士が化粧廻しを付け、顔見世披露の意味で行われる土俵入りは、十両では十両力士全員、幕内では大関から前頭の力士全員で構成されるのに対して、横綱土俵入りは純白の綱を腰に締めた横綱が、露払い(つゆはらい)と・太刀持ち(たちもち)を従え、四股踏みやせり上がりなどで構成される単独での土俵入りを披露するものである。横綱土俵入りの型は「雲龍型(うんりゅうがた)」と「不知火型(しらぬいがた)」の2種類が存在し、それぞれ雲龍久吉と不知火光右衛門が行っていた土俵入りの型を起源として伝えられたものとされ、綱の締め方やせり上がりの型に差異があるのが特徴である(詳細は雲龍型の土俵入り・不知火型の土俵入りを参照)。しかし実際には、四股を踏む前の掌を返す時の構えなどの細部で、指導する親方や横綱自身のアレンジなどによって動作が異なっており、完全には2つの型に集約できないのが実状である。一例として、1987年9月場所後に大乃国康が横綱となった際、12代佐渡ヶ嶽・18代間垣・13代鳴戸が土俵入りを細かく指導しているところ10代二子山が「好きにやれ。横綱がやれば、それが横綱土俵入りだ」と一喝したことがある。また現在の「雲龍型」と「不知火型」は、その呼称が逆であるという指摘もある(後述参照)。歴代横綱の土俵入りの型は「横綱一覧」を参照。横綱土俵入りは、幕内力士全員の土俵入りが終わった後で露払い(つゆはらい)・太刀持ち(たちもち)が各1名、合計2力士を従えて行われる。この役は通常、横綱と同じ相撲部屋に所属して、かつ番付が関脇以下の兄弟弟子が務めている。原則的には幕内力士でなければならないが、横綱と同部屋の幕内力士がいない場合(または不足する場合)は一門から借りることがほとんどで、稀に一門外から選出する場合もある。幕下付出として初土俵を踏んでからスピード出世し、髪が伸びないまま幕内に昇進した場合など、大銀杏が結えない場合は露払い・太刀持ちも務めることが出来ない。露払いや太刀持ちでも部屋が異なれば、横綱と対戦することがある。その場合は、当日の横綱土俵入りを別の力士に交代してもらう。通常の露払いと太刀持ちの間で対戦がある日も、どちらかが外れることとなる。土俵入りでは、横綱を中央に向かって左側に太刀持ち、右側に露払いが並ぶ。横綱は柏手を打ち、四股を踏み、せり上がった後に再び四股を踏む。四股を踏むときには観客から「よいしょ!」と掛け声が飛ぶ。右足を上げる四股が2回、左足を上げる四股が1回である。行司は立行司である木村庄之助・式守伊之助が務めるが、庄之助・伊之助が不在の場合には三役格行司が務める。なお、雲龍型は攻守兼備、不知火型は激しい攻撃を表すという説が巷間信じられているが、この説に明確な根拠はない。これは10代秀ノ山(元関脇・笠置山勝一)が、昭和初期に北京での皇軍慰問の巡業中、双葉山定次と羽黒山政司の型の違いについて説明を求められたとき、戦時中に相応しい返答をしたものが後にもっともらしく流布したものである。せり上がるときに左手を胸の近くに当てて右手を伸ばす土俵入りで、大多数の横綱がこちらを選択している。2代梅ヶ谷藤太郎が完成したとされ、以降、栃木山守也・双葉山定次・大鵬幸喜・北の湖敏満・千代の富士貢といった大横綱も多くこの雲龍型である。平成以降では曙太郎・貴乃花光司・武蔵丸光洋・朝青龍明徳らが選択しているが、先述の4人は全て幕内優勝を10回以上果たし、横綱の地位も4年以上に渡って務めていた。上記のように比較的縁起の良い型と見られることは多いが、横綱在位場所数最短の前田山英五郎(在位6場所)と2位タイの三重ノ海剛司(在位8場所)など、雲龍型を選択しながら短命に終わった横綱も存在する。なお、出羽海一門と高砂一門および時津風一門の横綱は、全員がこの型であり、二所ノ関一門の横綱も大半がこの型を選択している。横綱が不在・空位だった時代を除いては、梅ヶ谷以降2010年2月に朝青龍が引退するまでこの型を選択した横綱が絶えることは無かった。この雲龍型横綱不在は2014年3月場所後に時津風一門の鶴竜力三郎が横綱に推挙されるまで続いた。ただし上記の4年間で、現役の雲龍型横綱が不在でも、公の場での雲龍型土俵入り披露は3回存在した。綱の締め方は輪を一つで締めて、不知火型用の綱より短く軽量とされている。雲龍型と違って、せり上がるときに両手を伸ばす土俵入りで、太刀山峯右エ門が16代木村庄之助より習った型とされる。戦前から戦後にかけて長期間活躍した羽黒山政司がこの型を継承し、主に旧・立浪一門(現・伊勢ケ浜一門)がこの型を選ぶ傾向にあるほか、二所ノ関一門もこの型を選ぶことがある。堂々とした迫力のあるスタイルで、伝統的に大柄な力士が演じると見栄えの良い型とされている。一方でこの型を選んだ吉葉山潤之輔が、横綱昇進時33歳と高齢ながら4年務めたにも関わらず、これをある相撲記者が玉の海正洋の昇進時に「不知火型は短命」というジンクスを表現し、その玉の海が在位中に夭折したことで、以後不吉とされることが多くなってしまった。但し、短命ジンクスには諸説ある(例.明治時代初期に活躍した大坂相撲の横綱・不知火光五郎があまりの強さから妬まれて毒殺され、その怨念があるという説)。そんな中で琴櫻傑將(在位8場所)と隆の里俊英(在位15場所)は、不知火型自体の後継者が少ないことから、型の保存の意味も込めてこの型を選択したとされるが、二力士共に壮年期の横綱就任ということもあり、長く在位することは叶わず、短命ジンクスを強調する結果となった。また、昭和時代末期に横綱昇進した双羽黒光司(実質在位8場所)は一度も幕内優勝せずに廃業してしまった為、不知火型のマイナス面を強めた印象の感は否めない。さらに平成時代に入ってからは、旭富士正也(在位9場所)と若乃花勝(在位11場所)が不知火型を継承するも、両力士揃って横綱昇進後2年足らずの短命で終わっている。しかし、2007年に史上3番目の若さで横綱昇進を果たした白鵬翔が旧・立浪一門として不知火型を選択し、この型の横綱として大鵬が持つ幕内優勝32回を超えたり、史上2位の63連勝を記録するなど、紛うことなき大横綱となっている。そして2012年には同門の日馬富士公平もまた不知火型を選び、大相撲史上初めて不知火型の横綱が同時期に2人並び立つなど、この型の悪いイメージは次第に払拭されつつある。なお、不知火型は輪を二つ作るように綱を締めるため、概して不知火型用の綱は雲龍型用のそれより長く重い。これまでに雲龍型・不知火型両方を行ったことがある横綱力士は2人居る。雲龍型の土俵入りをしていた北の富士勝昭は1971年8月、A班・B班の2班体制で行われていた巡業においてA班に参加していたが、B班の玉の海正洋が虫垂炎による急病との報を受けて急遽B班の巡業先であった秋田県に合流し、土俵入りをすることになった。しかし、急な話だったために自らの雲龍型の綱が入った明荷が間に合わず、巡業先に置かれたままであった玉の海の不知火型の綱を締めて異例の形で不知火型の土俵入りを行った。北の富士は高砂一門の横綱であり、一門としても唯一の不知火型経験者である。不知火型の土俵入りをしていた白鵬は、2011年12月に双葉山生誕100周年を記念して双葉山の出身地である大分県宇佐市の宇佐神宮で行われた奉納土俵入りで、双葉山に敬意を表するために、自分の不知火型用の綱を切り、雲龍型用の長さに調節した横綱を締めて双葉山と同じ雲龍型で横綱土俵入りを行った。現在、雲龍型は「せり上がりで左手を胸に当て右手を伸ばす」、不知火型は「せり上がりで両手を伸ばす」、という区別が定着しているが、この呼称があべこべと指摘されることがある。モチーフである不知火光右衛門の土俵入りには好角家の丸上老人の証言があり、それによると「腰を落として左手をワキに当てて右手を伸ばしてせり上がる」という動作(現在の雲龍型)をしている。ただし、その後に「立ったところで両手を広げた」という形を示しており、終わりの場面だけを見れば現在の「不知火型」ともなるため、全体の流れとしては現在に残る二つの型のどちらにも当てはまるものではなく、むしろこの他の型が存在していたことを裏付けている(後述参照)。しかし、1869年の撮影と推定される不知火と鬼面山谷五郎が並んで土俵入りのポーズを取っている写真では、不知火が左手を胸に当て右手を伸ばしており(雲龍型)、鬼面山が両手を広げている(不知火型)。鬼面山が実際に、最初から両手を広げてせり上がったかは不明だが、少なくとも不知火の方は前述の証言と、この写真からしても現在の「雲龍型」に近い型であったことがわかる。さらに、太刀山(不知火型)が横綱となった際に、16代木村庄之助から土俵入りを勧められ、「横綱雲龍、即ち後の追手風になった人の型です」と発言している。また当時の相撲雑誌で、鳳谷五郎(雲龍型)については「梅ヶ谷同様不知火の型に則って」と報じられている。ただ、太刀山自身が雲龍型であると言う一方、当時の新聞ではこれを「不知火型」とするものと「雲龍型」とするものが分かれるなど、認識が一定していなかった。ところが相撲評論家の彦山光三が戦前から戦後にかけて、太刀山と同じ型を継承した羽黒山と吉葉山について「不知火型」と断定し、新聞や雑誌に書き広めたのをきっかけとしてこの呼称が定着していった。この過程では相撲博物館初代館長の酒井忠正があべこべ説を提唱し、論争に発展した。彦山は、不知火光右衛門の師匠である不知火諾右衛門の錦絵に描かれた、両手を広げている姿が「せり上がり」であるから、これが「不知火型」であると主張。これに対し酒井は(前述のように)「せり上がって立った後に両手を広げる」例もあり、ゆえに錦絵の一場面のみでせり上がりの形を断定することはできないと反論したが、彦山は緻密な論証を成さぬままに、不知火諾右衛門が初めから両手でせり上がったとする自説を押し通した。このように、彦山説が一般に流布された結果、「雲龍型」と「不知火型」は戦前までの証言や報道とは呼称が逆のものとなり、今日に定着している。その後もたびたびこの2つの型が「逆転」していると指摘されることはあるが、マスコミや日本相撲協会にも修正する動きは見られない。しかし、不知火のように右手を広げてせり上がり、立ってから両手を広げるという動作は現在の横綱土俵入りにはないものであり、また雲龍が太刀山と全く同様、初めから両手を広げてせり上がったという確証も得られていない。さらには太刀山時代にメディアを二分するほど混乱していることや、羽黒山以降の呼称逆転論争が不十分であることなどもあり、現在残っている2つの型を「雲龍型」「不知火型」と呼ぶこと自体がしばしば疑問視されている。ゆえに、現在に伝わる型を確立した2人の横綱から、「梅ヶ谷型」(=「雲龍型」)、「太刀山型」(=「不知火型」)と呼ぶのが正確ではないかという指摘もある。現在では「雲龍型」「不知火型」と呼ばれる2種類しか土俵入りの型が用いられていないが、古くはそれらとは異なる型が存在した。そもそも現在の型が明治後期(2代梅ヶ谷と太刀山)に確立したものとされているため、その前には古い型の土俵入りが存在したのは間違い無い所である。例えば不知火光右衛門や大砲万右衛門は雲龍型に近いせり上がりを行なった後で両腕を広げ、常陸山は拍手の直後に両手を広げていた。またそれ以前の映像が無い時代の横綱についてはもはや土俵入りを見ることは不可能だが、恐らく現在見られるものとは全く異なる土俵入りをしていたと思われるものも少なくはない。ただし後継者が存在しないため現在に伝わっておらず推定の域を出ない。中でも不知火諾右衛門については綱姿で両腕を広げた錦絵が常陸山型の土俵入り(柏手の直後に両手を広げる型)を認める根拠にされたとも言われ、どのような土俵入りであったのか議論され今で言う不知火型の元祖だと言われたこともあったが、土俵入りのどの部分を描いたのか判明しておらず、錦絵のために特別に用いた構えの可能性もある(現在でも優勝額や銅像において本来綱を締めて行なうことの無い構えを用いることがある)ため結論は出ていない。当時は写真も無かったため確認するのは非常に難しい。また横綱が番付に記載されない名誉称号とされていた時代には綱の締め方も今とは異なっており、右に輪を作り綱の両端を左に出す、あるいはその左右逆という片輪結びとなっていた。現在に残る錦絵によれば江戸時代の横綱は全員この締め方で、現在のように正面の部分を太くした綱ではなく、正面と結び目でさほど太さの変わらない綱を用いていた時代には標準的な締め方だった。後に現在に見られる締め方が登場すると片輪結びは用いられなくなっていき、大正の末に横綱免許を獲得した3代西ノ海嘉治郎がこの締め方を復活させているが、これを最後にこの型で締めた横綱はいない。横綱に推挙された後その土俵入りを初めて披露するのが横綱推挙式と共に明治神宮で行われる奉納土俵入りである。奉納土俵入りは毎年の正月に同じく明治神宮で行われる他、例年春巡業で組まれている伊勢神宮の神宮奉納大相撲、出雲大社や靖国神社など神社施設、或いは国家関連の行事・イベントなどでも執り行われる。新横綱誕生の際には、横綱力士碑のある富岡八幡宮や野見宿禰神社への奉納土俵入りと、横綱碑への刻名式も行われる。相撲部屋が新設される、あるいは既存の部屋でも移転などにより新築されると、稽古土俵完成に合わせて現役の横綱が呼ばれて土俵入りを披露して土俵開きを祝う慣習がある。一門内に横綱がいればもちろんそちらが呼ばれるが、いない場合は門外の横綱でも構わない。例えば立浪部屋(当時立浪一門本家)が移転完成した際には当時現役だった朝青龍(高砂一門)が呼ばれ土俵入りを披露している。幕内力士のいない部屋であれば露払いと太刀持ちも当然呼ばれるが、いる部屋であれば自分の部屋の力士(1人しか幕内がいない部屋では片方)を使うので、普段とは違う顔ぶれの土俵入りとなる。ただし、土俵開きした部屋の師匠が喪に服している期間と重なった場合は土俵入りをしないこととなっているので横綱が呼ばれることも無い。元横綱が引退相撲を行う際に、断髪式の前に最後の横綱土俵入りを行う。かつては、この時に従える露払いと太刀持ちに現役の横綱を充てることが原則であった。また横綱が露払いと太刀持ちを務める場合は、自身も綱を締めて登場する。但し引退相撲時に現役横綱が不在または一人だったり、又は直前の本場所での休場などの事情があると、大関・関脇以下の現役幕内力士が、それぞれ露払いと太刀持ちを務める事例もある。大関が務めた例としては北勝海信芳の露払い小錦八十吉のように、当時の一人横綱・曙太郎に次ぐ大関として採用されたもの、また北の湖敏満の露払い・北天佑勝彦、武蔵丸光洋の太刀持ち武双山正士のように、同部屋の現役大関が務めるというものもある。さらにこの両パターンを合わせ持つ例として、隆の里俊英の露払い若嶋津六夫(同じ二子山部屋、太刀持ちは当時一人横綱の千代の富士貢)がある。なお、現役横綱が2人以上存在しても、休場が出た場合には三重ノ海剛司(2代若乃花幹士が休場のため、露払い大関千代の富士)、曙太郎(貴乃花光司が休場のため、露払い大関武双山)のように、大関が務める場合がある(なお、前出・北の湖の露払い北天佑も、隆の里が休場しているという事情がある)。こうした現役横綱の休場や不在が顕著になることにより、同部屋又は同一門で関脇以下の現役幕内力士が露払い・太刀持ちを務める例も現れる。1968年の佐田の山晋松(露払い福の花孝一・太刀持ち海乃山勇)の場合は大鵬幸喜・柏戸剛の両横綱が休場したことに起因する。また1992年には大乃国康(露払い隆三杉太一・太刀持ち三杉里公似)・旭富士正也(露払い旭里憲治・太刀持ち旭道山和泰)と、同年のうちに2例続く事態が生じたが、これは同年5月に一人横綱だった北勝海が引退し、60年ぶりの横綱不在の時期を迎えたことによるものだった。ところが、2003年の貴乃花光司の際には武蔵丸光洋(実際は前場所を休場)・朝青龍明徳と現役横綱が2人いたにも拘らず、露払い・太刀持ちのいずれも同部屋から貴ノ浪貞博と安芸乃島勝巳(直前に引退したため年寄・藤島)が選ばれた。その後に引退した横綱もこうした方法を半ば踏襲しており、引退相撲における横綱土俵入りの露払いと太刀持ちは、従来の現役横綱を優先した原則が薄れる傾向にある。2016年時点で3横綱が揃った土俵入りは、2000年の若乃花勝(露払い貴乃花・太刀持ち曙)が最後である。以下に今までの引退相撲における横綱土俵入りを示す。○ - 当時大関、△ - 当時幕内(関脇以下)。なお※印の横綱・旭富士と幕内・安芸乃島の二人は当時引退直後。横綱経験者が還暦(60歳)を迎えた際に、長寿祝いとして行われる土俵入りを還暦土俵入りという。通常の横綱土俵入りでの白い綱に対して、還暦土俵入りでは特別に赤い綱を締めて土俵入りを披露する。露払い・太刀持ちは横綱経験者が務める場合も多いが、その際は自ら白い綱を締めて土俵に上がり担当する。なお、赤い綱の下に垂らす御幣(ごへい)は、通常の横綱土俵入りと同様に白色が用いられてきたが、2015年の千代の富士貢の際には初めて綱と同じく赤色の紙垂(しで)が使用されている。1937年の太刀山峯右エ門が第1号であり、2016年までに過去10人の元横綱が還暦土俵入りを披露している。また、体調不良などの事情で還暦土俵入りを行わなかった場合は、赤い綱のみを作成し記念に所持する横綱もいる。

出典:wikipedia

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