由利本荘市(ゆりほんじょうし)は、秋田県南部に位置する日本海に面した市。日本海に面した市で、子吉川の河口から3kmほど遡った、子吉川の南側を中心に市街地が広がる。また、子吉川の河口には本荘マリーナ海水浴場があり、海岸沿いに酒田街道(現在の国道7号に相当)が南北へ伸びている。市域の中央部は、丘陵地(笹森丘陵)となっており、本荘街道、矢島街道(それぞれ国道107号、108号に相当する)が内陸部に通じる。面積は県内最大(秋田県の面積の十分の一)で、神奈川県の面積の半分に当たる。このため天気予報も『由利本荘沿岸』『由利本荘内陸』と分けて行われている。由利本荘市中心部(旧・本荘市)は、出羽国が設置された8世紀から、交通の要衝として栄え、子吉川河口付近には、出羽国府の出先機関である「由理柵(ゆりのさく・ゆりのき)」が置かれた。源頼朝による奥州合戦ののちは由利氏が本領を安堵されていたが、和田合戦を期に大井氏が地頭として入部し、大井氏の霜月騒動連座による失脚後は北条氏が地頭となり小早川氏が地頭代となったと考えられている。軍記物には応仁の乱のころに、信濃国佐久地方から由利十二頭が配置されたとされており、以後彼らが地頭として由利地域に割拠した。関ヶ原の戦いのあと、由利地域は、最上氏が治めることになり、その家臣・本城満茂が、現在の由利本荘市尾崎に本荘城を築いたことによって、本格的な城下町としての機能を持つようになった。慶長18年(1613年)ころ本城満茂が本城城を築き10年間居城した後、元和8年(1622年)最上氏の改易によって退去した。その後1年間宇都宮城主本多正純が減転封されたが、この間に城は取り壊された。その後、本荘城には常陸国から六郷氏が入部し、2万石の大名として本荘藩を立藩。また、亀田には、岩城氏が亀田城を築き、2万石の亀田藩となった。さらに、矢島には、讃岐国高松藩の藩主だった生駒氏が生駒騒動により、1万石で移封され、ここに、由利地域は、本荘・亀田・矢島の3藩による統治が行われることとなった。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が始まり、本荘・亀田・矢島の3藩は、奥羽越列藩同盟に参加。しかし、朝廷側から、幕府軍である鶴岡藩の征討を命じられ、由利地域は、3藩と鶴岡藩との壮絶な戦いの場となり、やがて、敗色が濃厚となった3藩の城下は、焼け野原と化した。郵便局簡易郵便局
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