東京オリンピック(とうきょうオリンピック)は、1964年(昭和39年)10月10日(後の体育の日)から10月24日の期間にかけて日本の東京で開かれた第18回夏季オリンピック。1940年大会の開催権を返上した日本及びアジア地域で初めて開催されたオリンピックで、また有色人種国家における史上初のオリンピックでもある。歴史的には、第二次世界大戦で敗戦し急速な復活を遂げた日本が、再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持つ。過去最高の出場国数。開会式は10月10日、閉会式は10月24日に行なわれた。開会式の10月10日は、1966年(昭和41年)以降体育の日として親しまれるようになったが、体育の日は2000年(平成12年)より10月の第2月曜日となっている。1940年(昭和15年)夏季大会の開催権を返上した東京は、1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補したが、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年(昭和34年)5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。得票数は東京が過半数を超える34票、デトロイト10票、ウィーン9票、ブリュッセル5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走したロサンゼルスの実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本レスリングの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。和田は育った御坊市で名誉市民第1号となっている。1957年(昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務めていた田畑政治は、オリンピック招致費用を2013年現在の価格に換算して1200億円掛かる事を懸念していた岸信介首相に、観光収入も見込めると直談判した。開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった。開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインは亀倉雄策が手掛けた。1963年2月7日、津島寿一の辞任後4ヶ月間空席だった大会組織委員会会長に、安川第五郎が決まった。各競技の詳細については、それぞれの競技のリンク先を参照のこと。東京オリンピックの入賞メダルは大蔵省造幣局の工芸官が原型を作り作成した。デザインは金・銀・銅、共に、表面は「勝利者を肩車した男性の群像」、裏面は「勝利の女神」が浮き彫りにされ、また「大会名、競技名」を記載してある欄があった。サイズは、金メダル・銀メダル・銅メダル共に直径6cm、厚さは3mm。重さは、金メダル90g、銀メダル82g、銅メダル69g。製造された数は、金メダル300個、銀メダル300個、銅メダル314個。価格は、金メダル12,500円、銀メダル7,500円、銅メダル6,000円。(全て昭和39年当時の価格)と発表されだが、この価格はあくまで造幣局が日本オリンピック委員会に請求した額であり、実際のメダルの製造では1枚のメダルを製作するのにプレス加工を合計25回も繰り返すなど手間のかかったものになっていた。大会後、製造したが余ったメダルは鋳つぶされている。参加メダルは岡本太郎(表)と田中一光(裏)によるデザインだった。この東京オリンピックの開催にむけて、競技用施設から選手村、公共交通機関などのインフラストラクチャーや観戦客を受け入れるためのホテルに至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされた。東京オリンピックの経費は265億3400万円といわれる(組織委経費の99億4600万と大会競技施設関係費の165億8800万円との合計)。東京オリンピックの開催期間中は千駄ヶ谷や代々木などのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模な交通規制が行われた。特に、10月10日の開会式では警視庁は1万人の警察官を動員して警備に当たった。開会式会場となった国立競技場の横の神宮外苑も開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。またそれ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - 西麻布交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外のVIPなどの移動をスムーズにするのが目的であった。また、その他にマラソン、競歩、自転車競技、など多くの競技で大規模な交通規制が実施された。東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。衛星放送技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。東京オリンピックの衛星中継は、現地の映像をシンコム3号で日本からアメリカへ送信し、さらにアメリカが受信した映像をリレー1号でヨーロッパへ送信するという方式で行われた。また当時初めてスローモーションの画像を使い、競技での微妙な結果をその場で確認でき、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。東京大会の日本での中継放送は、映像は一本化された単一映像をNHKも民放も使ったが、競技実況はNHKと民放は別々にアナウンサーをおいたので、同じ映像で違う実況放送であった。民放はこのために地方局からアナウンサーを集めていた。また開会式と閉会式は各局とも独自にアナウンサーを置いて別々に実況を行った。日本では1959年(昭和34年)のミッチー・ブーム以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23.6%だった普及率は1964年(昭和39年)には87.8%に達した。当時非常に高価だったカラーテレビ受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。メディアでの昭和世相史に関する記事等で「東京オリンピックの時期にカラーテレビが普及した」という趣旨の記述が見られることがあるが、1966年(昭和41年)まではカラーテレビの普及率は1%未満であり、メキシコシティオリンピックが行なわれた1968年(昭和43年)の調査でも5.4%で、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回ったのは1973年(昭和48年)である。また当時、アメリカ合衆国による沖縄統治下では、当時の琉球政府の大田政作主席が「早期復帰がかなわないのなら、せめて本土と同じ時間にテレビが見たい」と関係各所に陳情、これによって、電電公社のマイクロ回線が那覇市まで延伸されることとなり、山岳回折を用いた見通し外通信によって建設が進められ、東京オリンピック直前の1964年9月1日に開通し、現在の沖縄県でも同時に放送された。なお、沖縄からは出場した選手は1人もいない。NOCを作って、沖縄として出場する案もあったが、島ぐるみ闘争の激化で「1地域としての五輪参加は、アメリカ合衆国による沖縄の恒久支配を意味する」との意見もあり、結局設立されなかった。結果的に沖縄住民の日本人意識を高め、1972年(昭和47年)5月15日の沖縄返還へとつながっていった。開催前年の1963年(昭和38年)、組織委員会が置かれた赤坂離宮(赤坂迎賓館)に、デザイン室が開設された。入場券、メダル、ユニフォーム、競技パンフレット、プログラム、施設の標識、案内板などを制作した。多くは20代後半から30代前半のデザイナーだったオリンピックに際して原弘が、「ノイエ・ハース・グロテスク(後のヘルベチカ)というサンセリフ体を使いたい」と大日本印刷に打診、市谷工場に導入された。東京オリンピック第2号ポスター(9万枚作成)は、歴代大会のオリンピックポスターがイラストであったのを、グラフィックデザイナーの亀倉雄策のデザイン(文字は原弘)、ストロボ写真演出早崎治、ディレクター村越襄で、オリンピックポスター初の写真ポスターである。ポスターは全部で4種類が制作された。第1号ポスター(10万枚作成)は、縦長の全体が白地に、赤い日の丸の下に、金の五輪マークと金字のTOKYOと1964のイラスト。6人が3案ずつ提出した指名コンペにて満場一致で選ばれた、亀倉(文字は原弘)の大会エンブレムと同じデザインだった。赤と金の配色は豊臣秀吉の陣羽織(木瓜桐文緋羅紗陣羽織・大阪城天守閣蔵)から着想を得たともいわれる。オリンピック史上初めて五輪の輪の5色の標準色を詳細に決定もした。なお、1959年の招致ポスターは栗谷川健一が手がけた通称「富士山」だった。案内や誘導、競技種目表示においてピクトグラムが採用されたのは東京オリンピックが最初である。開催時に外国語(特に英語)によるコミュニケーションをとることができ難い当時の日本人と外国人の間を取り持つために開発された。制作にはアートディレクターを務めた勝見勝を中心に粟津潔ほか30名ほどのデザイナーが携わった。競技種目ピクトグラムを制作したのは山下芳郎1人である。東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。市川崑が総監督を務めて制作された『東京オリンピック』のフィルムを新たなスタッフが再編集・再構成し、シナリオを執筆した作品。1966年5月15日公開。市川の『東京オリンピック』に比べ、実況を含んだ解説の流れる部分が多く、「記録映画」の色彩が濃いため、いわゆる「ドキュメンタリー」に分類されている。 154分2013年8月にNHK総合テレビジョンで3部作として放送。東京オリンピックの行事で使用された楽曲は、オリンピック東京大会組織委員会に設けられた式典運営協議会で以下の5曲が決められた。「ファンファーレ」は広く一般から公募して、海外からの応募作を加えて414編の中から選ばれたもので、当時長野県在住の今井光也が作曲し、日本の伝統的音階を基調とした8小節の東洋的色調に溢れた作品で四部形式で書かれた純トランペットの曲であった。オリンピック東京大会賛歌は、東京大会のみに使われた賛歌で、開会式用の(A)、閉会式用の(B)の2曲があり、聖火が灯された直後と聖火が消えゆく直前に歌われた。選手団の入場行進曲は、世界各国の著名な行進曲12曲が選ばれて、最初と最後に使用される行進曲として「オリンピック・マーチ」を古関裕而が作曲した。1分間120の行進速度でコーダは「君が代」の旋律で結ばれている。なおこの他に、開会式冒頭には「オリンピック序曲」(作曲:團伊玖磨)が華やかな雰囲気の中で演奏され、天皇・皇后両陛下がロイヤルボックスに入られる直前には電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」(作曲:黛敏郎)が荘厳な雰囲気を醸し出していた。また国民の五輪への関心を高めるために、日本放送協会 (NHK)がオリンピック東京大会組織委員会、日本体育協会、東京都の後援で製作したのが以下の音頭と愛唱歌で、1963年6月23日に発表されてレコード会社各社から競作で吹き込み発売された。これとは別に、日本ビクターが公募して日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都が選定し、日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都、文部省、日本放送協会 (NHK)、日本民間放送連盟(民放連)の後援で1962年5月8日に東京都体育館で日本ビクター主催「オリンピックの歌発表会」で発表されたのが以下の2曲である。大会終了後、日本放送協会 (NHK) から開会式や閉会式、ハイライトとなった競技のラジオ実況放送を収録した磁気録音テープが発売されると共に、その音源をもとに記録LPレコードやフォノシートが製作された。またこのNHKのマラソン実況放送の音源の一部(国立競技場に戻ってきた時の円谷幸吉とベイジル・ヒートリーのデッドヒート)が、ピンク・ピクルスの歌う「一人の道」の冒頭に使用されている。
出典:wikipedia
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