轡田 隆史(くつわだ たかふみ、1936年3月5日 - )は、日本のジャーナリスト、サッカー選手。元朝日新聞論説委員。父の轡田三男(旧姓 横村)もサッカー選手および報知新聞記者であり、学生時代にサッカー日本代表に選出された経験を持つ。東京府の出身だが太平洋戦争の戦火を逃れるため、従軍記者としてフィリピンへ赴いていた父の帰国と共に一家で埼玉県北足立郡与野町へ疎開をした。戦後に埼玉師範学校附属小学校から埼玉師範学校附属中学校へ進学すると中学1年時にサッカーを始め、埼玉県立浦和高等学校、早稲田大学政治経済学部へ進学後もサッカー選手としてプレーをした。1959年、朝日新聞社に入社。入社同期に筑紫哲也がいる。社会部次長、編集委員、欧米諸国や中東地域での特派員を務めた後、1980年から1983年までテレビ朝日系『BIG NEWS SHOW いま世界は』のキャスター、1988年に論説委員、1996年まで8年間に渡り夕刊1面コラム「素粒子」を執筆した。豆腐の薀蓄は朝日新聞の後輩である清水建宇に影響を及ぼした。編集局顧問を経て1999年3月に朝日新聞社を退社後、著作活動や講演活動のほか、テレビ朝日系の『ニュースステーション』や『スーパーJチャンネル』のコメンテーターを務めた。2000年6月からNHK-FM放送の番組『日曜喫茶室』に「常連客」として出演している。2014年の時点では日本記者クラブ、日本ペンクラブ、日本エッセイスト・クラブ、日本山岳会の会員を務め、さいたま市(旧浦和市)を中心に発行されている『浦和フットボール通信』でコラム連載や対談などを行っている。埼玉県立浦和高等学校ではサッカー部に所属し右ウイングを務めると1年時の1951年に高校選手権(第30回大会)優勝、国民体育大会優勝の二冠を経験。国体決勝の大阪府立三国丘高等学校戦では決勝点をアシストした。早稲田大学ではア式蹴球部に所属しハーフバックを務めた。同期には八重樫茂生や大橋謙三らがいるが、卒業を1年先延ばして1958年まで同部に在籍し、関東大学サッカーリーグ戦や東西学生蹴球対抗王座決定戦などのタイトル獲得に貢献した。轡田は自身のプレースタイルについて「私は低身長で鈍足な選手だったが、体力に恵まれなくとも『読み』と『ポジショニング』なら努力次第で身に付けることができる。どう学ぶかは『観察』である。派手な素晴らしいプレーではなく、ボールを保持していない選手の動きを綿密に観察することだ」と評している。1993年には自身のサッカー人生や埼玉県のサッカー史を記した著作を残した(下記参照)。2009年9月には、2018年・2022年W杯の日本開催(2018/2022年FIFAワールドカップ日本招致構想)を目指す招致委員会の委員に選ばれた。先述の様に父の轡田三男も元サッカー選手であり、神奈川県立横浜第二中学校、早稲田第二高等学院、早稲田大学に所属。早大1年時の1927年に日本代表選手として中華民国の上海で開催された第8回極東選手権大会に参加。続く満州と朝鮮への遠征にも帯同し、国際Cマッチ4試合に出場した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。