木田 優夫(きだ まさお、1968年9月12日 - )は、東京都国分寺市出身の元プロ野球選手(投手)。東京都国分寺市出身。高校球児だった父親の影響で野球を始め、地元の少年野球チーム「スネークス」に入る。その後、父親の転勤に伴い小学生時代の後半の一時期を北海道札幌市で過ごしているが、転校の条件として「札幌でも少年野球チームに入れること」を掲げ、「北大パンサーズ」というチームに入っている。国分寺市立第五中学校在学時のに、関東代表として台湾に遠征した経験を持つ。中学卒業後、山梨県の日本大学明誠高校に進学(同高の同級生には元バスケットボール選手の小野壮二郎がいた)。高校時代は甲子園大会に出場経験がなく、無名の高校生だったが、1986年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツ(巨人)に1位で指名された。入団当時はカーブ等変化球習得に時間がかかったが、にはメジャー球団の傘下保有権がなかった1Aのマイアミ・マーリンズ(現・)に留学を経験した後、4月29日にプロ初先発初勝利を記録。には自身唯一となる二桁勝利を記録し、この年セ・リーグ最多のシーズン182奪三振を記録し、オールスターゲームにも監督推薦で出場した。その後は伸び悩んだが、先発・中継ぎ・抑えと何でもこなす役割を果たした。、オリックスとの日本シリーズで2試合で22人連続無走者に抑え、連続無走者のシリーズ記録を樹立したと一度は発表されたが、翌日になって1976年に小林繁が23人連続で抑えていたことが明らかになり、撤回された。、この年はリリーフに専念する。前半チームが低迷する中抑え投手を担当し安定していたものの、この年はリリーフ投手の起用がチーム全体で迷走してしまい、木田も調子は維持していたのに中盤以降起用法が不安定になってしまった。オフに右ヒジ遊離軟骨除去の手術を受ける。1月に野村貴仁との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍。1996年以来の先発で勝利し、後半戦では抑え投手として起用されると16セーブを記録する。オフにフリーエージェント権を行使した。1998年11月23日にデトロイト・タイガースと2年300万ドルで契約。日本人8人目のメジャーリーガーとなった。タイガースの入団会見では羽織袴姿で登場し、「ロボコップに会えなくて残念(映画の舞台がデトロイトであることから)」とジョークを飛ばして報道陣の笑いを誘った。、開幕はAAA級トレドで迎えるが、4月5日のテキサス・レンジャーズ戦の8回に登板しメジャーデビュー。4月は8試合の登板で防御率7.24、WHIP1.61を喫するが、4月後半から好投を見せる。5月16日のクリーブランド・インディアンス戦では7回から登板し3イニングを投げメジャー初セーブを記録し、5月は15試合の登板で防御率3.71、WHIP1.47を記録。6月14日のシアトル・マリナーズ戦でメジャー初勝利を挙げる。しかし、6月29日に左わき腹を痛め、7月1日に日本人初の故障者リスト入りする。28日に復帰するが、その後は好投と乱調を繰り返し、復帰後は15試合の登板で防御率8.30、WHIP1.40を喫しシーズンを終える。シーズン終盤には先発での登板を打診されたが、「やめた方がいいです」と自ら断ったことを帰国後の会見で語った。、AAA級トレドで開幕を迎え、5月8日にメジャー昇格。10日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦では野茂英雄と継投したが、17日のインディアンス戦で3点本塁打を喫し、19日にトレドに降格。6月9日にタイガースとの契約を解除した。オリックス・ブルーウェーブに復帰。マイナーリーグ時代は「野球だけじゃなく生活面でも苦労し、その苦労により白髪も増えた」と言い、「日本よりメジャーにいる時の方が3倍の早さで年を取る」とも語っていた。オフにオリックスを自由契約となり、数球団の入団テストを受けるも不合格。は腰痛治療のため、どの球団にも所属しなかった。にロサンゼルス・ドジャースと契約し再び渡米するが、3月に交通事故により全治6週間の重傷を負う(8月にメジャーに昇格)。9月にシアトル・マリナーズに移籍。、投法をサイドスローに改造したが、メジャーでは1試合しか登板できず自由契約となった。2005年オフに新監督に就任した古田敦也の誘いを受け東京ヤクルトスワローズに入団。は中継ぎで56試合に登板し、リーグ4位となる23ホールドを記録。また、監督推薦で16年ぶり2回目のオールスターゲーム出場(15年間のブランクは歴代最長記録)。にも50試合に登板する。は開幕時に一軍入りできなかった。二軍では先発としての起用が主だったこともあり、交流戦明けの7月に先発として一軍昇格の話もあったが、結局一軍合流は8月下旬までずれ込んだ。はオープン戦の先発で好投をし、プロ入り後初めて開幕先発ローテーションに入り、4月8日対中日ドラゴンズ戦で5イニングを投げ、3失点したが自身11年ぶりの先発試合を白星で飾った。5月以降はリリーフに回るも、防御率5.55と打ち込まれ、2度の二軍落ち。10月2日にヤクルトから戦力外通告を受けた。2009年11月27日に北海道日本ハムファイターズへ移籍。3月22日の対福岡ソフトバンクホークス戦にて、先発のボビー・ケッペルが故障のため降板したのを受けて緊急登板し、5イニングを無失点に抑えて移籍後初勝利。5月4日には通算500試合登板を達成した。・はシーズン通して二軍生活が大半を占め、2年間で計4試合の登板に留まった。2012年11月4日、球団から退団することが発表された。2012年12月21日に石川ミリオンスターズへの入団が発表された。は石川ミリオンスターズで主にクローザーとして活躍。公式戦72試合中、実に52試合に登板し3勝1敗15セーブ、防御率1.76でチームの前期優勝に貢献。その後地区チャンピオンシップ、BCリーグチャンピオンシップ、日本独立リーグ・グランドチャンピオンシップ2013でも登板し独立リーグ日本一の胴上げ投手となった。シーズン終了後に静岡県草薙総合運動場硬式野球場で行われた12球団合同トライアウトに参加。打者4人に対し2奪三振の好結果を残した。12月9日には石川のゼネラルマネージャーに就任。、NPB復帰を目指し、石川で投手兼ゼネラルマネージャーとしてプレー。前年と同じく抑えを任されたが、8月24日に金沢市内のホテルで会見を開き、今季限りでの現役引退を発表した。9月14日の群馬ダイヤモンドペガサス戦(石川県立野球場)で引退試合を行なった、試合には友人である明石家さんまが臨時コーチを務めた。9月13日の試合(福井ミラクルエレファンツ戦)が引退試合となり、背番号12番は石川の永久欠番となった。から、日本ハムファイターズのゼネラルマネージャー補佐に就任。同年3月4日、札幌ドームでの巨人とのオープン戦試合前にNPB引退セレモニーが行われ、原辰徳との一球勝負で空振りを奪った。群馬県前橋市出身の父・秀夫は群馬県立前橋工業高等学校時代、強肩の捕手として活躍。卒業時には大毎オリオンズからもスカウトされていた(プロ入りはせず)。後に読売ジャイアンツで木田を指導することになる宮田征典とは群馬県立前橋高等学校時代に何度も対戦しており、たまたま旧知の間柄であった。明治神宮野球場やロサンゼルスで子供達への野球教室を開き、また私財を投じてスワローズクラブハウス前にファン用テントを設置したり、自腹で約100万円をかけ、都営バス1台を2008年の開幕戦の広告で外装して運行を手配するなど、様々なファンサービスに取り組んでいる。タレントの明石家さんまと親交があり、さんまが司会を務めるテレビ番組に木田自身も出演することがある。明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショーには巨人時代の1996年からトナカイの着ぐるみを着て毎年出演するとともに、自身の関連景品を提供している。2000年にオリックス・ブルーウェーブに復帰した際には、『明石家マンション物語』内の『ダメダメボーイズ』コーナーの決め台詞と合わせた「DAKYXX(ダーキー・ダメダメ)」グッズが発売された。なお、最初のオリックス移籍当時(1998年)、オリックス戦のテレビ放送が少ないこともあってか「オリックスの木田」としての知名度は高くなく、さんまの番組に頻繁に出ていたことから「飲み屋で若い子に吉本の芸人に間違われることがあった」という。なおこの縁でさんまは2014年に石川ミリオンスターズ後援会に加入している。しかし木田はトークなどでの笑いに関して、さんまとはいわゆる「師弟関係」にはなく、その面での師匠は村上ショージであると、公の場で度々発言している。巨人時代に数回経験した引越しをかなり面倒に感じた事で、巨人退団後の10年以上に渡る現役生活はずっとホテル住まいだった。「家だと帰っても誰もいないが、ホテルはフロントでお帰りなさいませと言ってもらえるのが癒される」とも発言している。イラストレーションが得意で「木田画伯」と呼ばれる程の腕前を持つ。テレビ出演時には度々披露するほか、各プロ野球選手のイラストを描いた選手名鑑『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』を刊行している。
出典:wikipedia
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