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深見東州

深見 東州(ふかみ とうしゅう、本名:半田 晴久(はんだ はるひさ)1951年3月18日 - )は日本の芸術家、福祉活動家、実業家、宗教家、フィランソロピスト(慈善活動家)、評論家。歌手、オペラ歌手、画家、書家、能楽師、詩人、作曲家などとして、幅広い活動をしている。主に、芸術活動や宗教活動を行う際は、深見東州(ふかみ とうしゅう)という通名を使用している。公益活動や実業家として、また学術活動や評論活動を行う際は、本名の半田晴久(はんだ はるひさ)で活動している。また、劇団団長や小説家、詩人等の文芸活動を行う際は、戸渡阿見(とと あみ)というペンネームを使用している。ほか、上記のあらゆる活動を行う人物として、レオナルドTOSHU(レオナルドとうしゅう)というペンネームをラジオパーソナリティ名やTwitterで使用している。過去には、深見青山(ふかみ せいざん)というペンネームを使用していた。実践することで初めて分かる本当の良さ、面白さがあるとして、意欲的に芸術活動に取り組む。また、普遍的な宗教性を広めることが大切であるという考えに基づき、特定の宗教に偏らない人類愛、人道主義、平和のメッセージを実行できるよう、活動内容によって、NPO法人など別個の法人格を持つ複数の団体を設立し代表を務めている。1951年、兵庫県西宮市で生まれる。生家は代々酒樽製造業を営んでおり、最盛期には灘五郷の酒蔵の酒樽作りを一手に引き受けていた日本一の酒樽屋だった。子どもの頃は、昆虫や魚を追いかけて外を駆け回り、テレビアニメや漫画に夢中で、いつでもどこでもアニメ主題歌を大きな声で歌っていた。これについて深見は「心と魂の一番深い部分にある、音楽のルーツこそが、昭和のアニメソングとテレビ主題歌である」と述べている。1962年、10歳の頃から近隣の世界救世教で信仰に目覚めた母より宗教心を育てられる。1967年、15歳で世のため人のために生きるという人類救済の発願をする。中学3年から川柳をはじめる(後述)。兵庫県立鳴尾高等学校に進学し、16歳のときに、字の綺麗なラブレターをくれた女子にふられたことをきっかけに、字が上手になりたいと書道をはじめ、田端曲全に師事し書道部部長をつとめる(後述)。この頃、母の原因不明の病気治癒がきっかけで救世教から大本教へ転向し、大本の教典である『お筆先』や出口王仁三郎の著書『霊界物語』を繰り返し読み、救世教当時の疑問を解決する。18歳より俳句をはじめる(後述)。大学入学前に突然読書に目覚めて一日一冊以上読破するようになり、純文学、恋愛小説、哲学書など1000冊以上をこの時期に読む。また、中学からクラシック音楽を聴くようになり、大学に入るまでに、有名なクラシックはほとんど聴き終わった。同志社大学経済学部に進学すると、父と神戸大学ESSで活動した叔父の二人から半ば強制的にESSに入るように命じられ、後にESSのプレジデント(委員長)とディスカッションセクションの代表を務め400人の部員をまとめ組織改革を行う。専攻は国際金融論。ゼミのテーマは「南北問題の経済援助について」。同志社大学能楽部宝生会にて、柏原仁兵衞及び辰巳孝に師事し、能をはじめる(後述)。20歳より茶道をはじめる(後述)。大学4年から森田流笛(能管)をはじめる(後述)。同志社大キャンパスがある京都は外国人観光客が多く、在学中に日常的に英語で話しかけられたり名所巡りの指南をする場面があった。そのため、日本文化を英語で論理的に説明することに興味を持ち、ESSでディベートやディスカッション、スピーチをするなかで、日本文化のアイデンティティを英語で伝達出来るようになったという。ESSで英語コミュニケーション能力を培った京都での4年間が、のちの活動のベースになっていると思うと、深見は述べている。大和ハウス工業に就職し、営業マンとして東京に赴任する。1977年に大本と提携している銀座の道院紅卍字会で根本宏に師事をし、中国の古典や様々な宗教の原典を学び、根本より任天(にんでん)の導師となる人に違いないと評された。1978年、大和ハウス工業を退職して独立し、25歳で予備校みすず学苑を設立して、その経営母体でもある株式会社ミスズを創設する。1984年、ワールドメイト(旧コスモコア)を設立し講演活動を始める。35歳から絵画を始めて初めて著作を執筆し、1987年にたちばな出版を創業する。37才でオーストラリアのパースで会社を買収し、海外においても企業経営を始める。37歳でゴルフを始め、オーストラリアのパースで視覚障害者のロン・アンダーソンとともにプレーし、ブラインドゴルフを知る。ロンの優れたプレーに感動し、また、ロンが底抜けに明るい性格のおかげもあり、深見らは、心のそこから楽しみ笑うなどのひとときを過ごす。これが「スポーツの力を最初に実感した瞬間であった」と深見は述べている。そして、障害を持っていても健常者とほぼ同じルールでプレーできるブラインドゴルフに、福祉の本来のあり方や人間の本来の姿を見いだし、視覚障害者のためのゴルフ組織を設立しようと決心する。翌年日本ブラインドゴルフ振興協会を設立し、初代会長には、かねてから「視覚障害者があらゆる障害者の中でも恵まれない環境にある」と、視覚障害者福祉の必要性を深見に述べていた松井新二郎(当時は日本盲人職能開発センター所長)が就任した。松井との出会いの後、自ら主宰するセミナーで、日本女子大教授(当時)の一番ヶ瀬康子が述べた「福祉とは障害のある方が自己実現することを手伝うことだ」という言葉に感銘を受けていた深見は、「福祉活動の原点とは、障害者に、自己実現できる場所や環境を提供すること」であるという考えに到り、ブラインドゴルフにその可能性を見いだす。日本に初めてブラインドゴルフを伝えた「日本のブラインドゴルフの父」と呼ばれている(後述)。書は、16歳より兵庫県立鳴尾高等学校書道部部長として、田端曲全に師事し、その後は独学で続けていたが、35歳より竹中青虎に学び、西川寧の孫弟子となる。作品「把手共行」は第67回謙慎書道会展で「秀逸」を受賞。その他の謙慎展でも、「岳」「無位真人」が「褒状」を受賞している。2001 年に「現代書家の名品」の一つとして、書作品『恕』が大英図書館に永久収蔵される。2014年に大英博物館で、現代の代表的な書家として大英博物館主催の書や水墨画の個展を開催している。個展の初日には、大英博物館のグレート・コートで、書のデモンストレーションを行った。絵画は、35才より独学で始める。その後、仏画を浅井秀水、日本画と水彩画を犬飼得之に、油絵と西洋画を松下友紀に、水墨画を安永麦州に師事し、様々なジャンルの学びを深める。1997年に初の個展を開催し、1997年にはニューヨークソーホーのグラントギャラリーで個展を開催。2001年から毎年、誕生日の前後に1年間書きためた新作の展覧会を開催している。遊美堂刊の「2000年度優秀美術作品全集」に作品2点が選ばれ、収録される。2002年9月、より、中国美術界最高称号である外国人初の一級美術師称号を授与され、アクリル画「青龍神と緋鯉」が永久所蔵される。2003年10月、『日豪芸術交流祭』において、水墨画「キラキラ天の川」作品が、330人の日本の画家の中から選ばれ、「西オーストラリア州芸術文化大臣賞」「パース市長賞」「審査員最優秀賞」の3賞を同時受賞し、パース市より「名誉芸術家」の称号を授かる。2006年に 清華大学美術学院美術学学科博士課程修了、文学博士を取得する。博士論文のタイトルは、「芸術市場の流通の変遷における日中美術品から見た芸術と市場の関係」(从中日美术品在艺术市场的流通变迁看艺术与市场的关系)であり、日本語の書籍としても出版されている。子どもの頃はなんら音楽教育を受けることなく、35歳からピアノを始め、36歳からバイオリンを、38歳から作曲と和歌(岡野弘彦に師事)をはじめる(後述)。40歳から本格的に声楽を学ぶことを志して歌手デビューを果たし、毎年、コンサートに出演する()。そして同時に「能や茶道などはアマチュアでもできるが、オペラは素人が何年やってもできない」とも痛感する。42歳よりクラシックバレエをはじめる(後述)。43歳より京劇をはじめる(後述)。音楽の勉強に励む中、奄美大島から船で5時間かけてトカラ列島で釣りをし、ムロアジを餌にして37キロのロウニンアジ等16匹の大物を釣り上げる体験をする。その際に「はるばると、誰も来ないような遠くの海で、美しくて大きい感動的な魚が釣れた」ことで、「はるばる音大に行かなければ音楽理論の基礎や歌やオペラの高い領域には行けない」と感じ、44歳に音大受験を決意し、音楽理論や指揮の勉強を始める。1997年、46歳で武蔵野音楽大学パルナソスエミネンス(特修科)声楽専攻を修了し、オペラ歌手デビューを果たす(後述)。さらに翌年の1998年には47歳で、西オーストラリア州立エディスコーエン大学芸術学部大学院(西オーストラリアパフォーミングアートアカデミー, WAAPA) に入学してオペラ等の舞台芸術を学ぶ。50歳からはオペラの主役を毎年つとめ、2002年(51歳)に西オーストラリア州立エディスコーエン大学芸術学部大学院を修了し、創造芸術学修士を取得する。修士論文は "The living artist"(原文は日本語)。1994年、ロンドンのロイヤルアルバートホールでチャリティーコンサートを開催し歌手として出演する。以降、イングランドにおける福祉活動を積極的に行う (後述)。この年には年に8回のコンサートを主催して音楽活動を本格化し、指揮者としてもデビューする (後述)。1996年、世界芸術文化振興協会 (IFAC) を設立する。東京のほかにも、ロンドン、ニューヨーク、パースにも拠点を設け、国際的な芸術活動や支援を行う (後述)。同年より、古典芸能における活動も本格化し、6月には能『猩猩』のシテ(猩猩)を舞って能楽師として舞台デビューし、能管や太鼓の生演奏CDをリリースする (後述)。同年12月、カンボジアのプノンペンにシアヌーク病院を設立する。以降、カンボジアにおける福祉活動を積極的に行う (後述)。45才で文芸家としての活動をはじめ、詩を発表する(後述)。1997年9月21日に初の書画展を開催し、以降毎年、書画の展覧会を開催する(後述)。同年、世界ブラインドゴルフ協会を発足させる (後述)。1998年6月、能の宝生流嘱託免状を取得する (後述)。同年9月から、浙江大学大学院日本文化研究所客員教授をつとめ、以降、中国文化と日本文化に関わりについて実演講義を行う (後述)。1999年に48歳で中国京劇の泰斗・(おうきんろ)、葉蓬に人民大会堂での拝師(ぱいしー)の儀を通して入門し、『西遊記』、『虹橋贈珠(こうきょうぞうしゅ)』での二郎神役で、京劇の舞台デビューを果たす。翌年に『古城の再開』の関羽役をつとめて以降、たびたび関羽役を好演。中国で「日本第一の関羽」と呼ばれている (後述)。2000年3月、中国で「春蕾小学校」130校の建設を支援し、以降、中国における福祉活動を積極的に行う (後述)。2001年、ファッションデザイナーとしてデビューし、ファッションショーを開催する。また、オリジナルデザインの衣服や雑貨等も手がける (後述)。53才で能の宝生流流儀の師範を取得する。以降、宝生東州会を主宰し、1600人以上の弟子が所属し、毎年全国大会を開催している (後述)。2002年9月、より、中国美術界最高称号である外国人初の一級美術師称号を授与され、アクリル画「青龍神と緋鯉」が永久所蔵される (後述)。10月には、外国人初の中国国立歌劇舞劇院の一級声楽家称号を授与され、正団員及び歌劇舞劇院海外芸術顧問をつとめる。2003年、国際スポーツ振興協会 (ISPS) を設立し、ブラインドゴルフやメジャーのみならずシニアやジュニアにまで裾野を広げたゴルフ大会を主催していく。世界のメジャーツアーやワールドカップ等では「ISPS Handa」「Handa」を冠した多くの大会が開催されるようになる(後述)。また、カンボジア大学を設立して同大学総長兼教授となり、新たな奨学金制度を設立してカンボジアでの教育の普及に寄与する (後述)。2006年、清華大学美術学院美術学学科博士課程修了、同美術学院で文学博士。浙江大学大学院中文学部博士課程修了、博士論文は「日本入宋僧研究」、同大学院で2007年に文学博士。2007年9月から日本文化研究所教授2007年5月、56歳で、戸渡阿見として「明るすぎる劇団・東州」を旗揚げし、毎年公演を行い、総合プロデュース・原作・演出・脚本・衣装・音楽・幕間パントマイマー等をつとめる (後述)。2008年、世界開発協力機構 (WSD) を設立 (後述)。同年に世界芸術文化振興協会とジュリアード音楽院との協定を結び、日本人が同学院の音楽科の一次入試を国内で受験できる制度を兼ねる「ジュリアード音楽院声楽オーディション」を創設し、若手の育成にも力を注いでいる (後述)。2009年より、世界開発協力機構総裁や日本国際フォーラム理事として、政策提言の活動を本格化させる。日本で、「スポーツ平和サミット」や「世界オピニオンリーダーズサミット」等の国際会議をしばしば主催して海外の要人を招聘し、モデレーターとして出演する (後述)。2013年3月30日より、HANDA.TV(インターネットテレビ)で出演番組が毎日放映されている。同年春、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の世界文化遺産登録の実現のために、安田喜憲の依頼で第37回世界遺産委員会議長をつとめたカンボジアのソクアン副首相や文化庁長官の近藤誠一等に、三保松原の重要性を直接話すなどの働きをした。三保松原の登録が絶望視される中、会議前日に、近藤とソクアンが折衝し、「富士山と三保松原は、カンボジアのプノン・バケン山とアンコール・ワット、アンコール・トムに代表される、聖なる山と命の水の崇拝と同様である」という共通認識をもつ。翌日の第37回世界遺産委員会では、多くのUNESCO大使から三保松原登録の必然性を説く進言が相次ぎ、特にインド大使からは「その精神性が重要だ」とする強いプッシュがあり、結果、ICOMOS勧告が覆されて、三保松原も構成資産に決定した。2015年より日本男子プロゴルフツアーで開催しているISPSハンダグローバルカップでは、半田が掲げる「日本のゴルフのグローバル化」を目指す大会趣旨に賛同した海外のメジャー覇者15名が集結し、日本を含む「世界6大ツアー」の選手により競われた。1990年全米プロゴルフ選手権覇者のウェイン・グラディによる海外への英語配信が実現するなど、日本初の試みを複数取り入れている。同年12月8日に、代表取締役社長をつとめるミスズが、「ロベルト・カヴァリ バイ フランク・ミュラー」の日本総代理店となり、ホテルニューオータニで開催された「roberto cavalli by FRANCK MULLER 新ブランド&コレクション発表会」に、イギリス王室のオータム・フィリップス、イアン・ソープ、マイク・ティンダルらが来日し、土屋アンナ、大石参月、木下ココ、香川沙耶、田丸麻紀らによるファッションショーが行われた。エネルギッシュで前向きであり、バイタリティが強く探究心旺盛な性格である。芸術活動、福祉活動、フィランソロピー、公益活動など活動分野は多岐にわたる。多くのことを同時にできる秘訣について、深見は、「完璧を求めないこと」「一つ一つを完璧にやろうとすると両立に悩む。仕事と芸術、仕事とボランティア。どちらも完璧にやろうとするから悩むのだ。7割くらいできたらいい。どちらも中途半端で70点くらいとれればいい。100%と思うから行き詰まる。中途半端がいけないのは、中途半端で終わること。中途半端のまま、30年やったら両方プロになれる。50年やったら大家になれる」「悩んだこと、行き詰まりはあったが、挫折はない。何でも、自分が一番にならなければと思うから、挫折するのだ。上には上がいるのは当然で、トップを目指すけれども5、6番でもいいという発想が大事」「今より明日、進化していればいい。明日よりもあさって進化していればいいと考える。そうすると、いつの間にか壁を越える」と述べている。国内外に十数社を経営し、抽象的理念にとどまらない実践派としてコンサルタント、経営者を対象としたビジネスセミナーも開催している。博学な知識を有しており、英語が得意で、神道のみならずキリスト教や仏教、儒教や中国の禅語録にもよく通じている。また、ジュリアード音楽院より、名誉人文学博士を授与される際に「現代のルネッサンスマン」と評された。日本語でも英語でもスピーチでギャグを飛ばして会場を笑いでわかせるなど、ギャグやユーモアを常に発信している。 同志社大学経済学部卒(1976年)、武蔵野音楽大学パルナソスエミネンス(特修科)声楽専攻修了(1997年)、エディスコーエン大学芸術学部大学院修了創造芸術学修士(MA, 2002年)、精華大学美術学院美術学学科修了文学博士(2006年)、浙江大学中文学科修了文学博士(2006年)であるが、さらに新たな大学に挑戦しており、75才までは、学生でいるつもりであるという。多様な芸術に取り組む理由について、深見は「西洋人が大事にしている文化を理解し、実践したうえで、日本文化を見せるのです。つまり、日本人である私がオペラを歌い、描いた油絵を見せてから、能や茶道や水墨画を披露する。相手の土台となる文化や芸術を分かち合い、さらに自分の文化を表現してこそ、世界的な文化人として認めてもらえます」「まず西洋芸術の最高峰であるオペラに挑戦し、それから中国の伝統芸術である京劇を学ぼうと思った。それぞれの最高峰のものを行うことで、インターナショナルな人間として共感してもらえるのです」と述べている。特に、日本型の芸術ルネッサンスについて、深見は「日本的ルネッサンス観で見れば、財政的なスポンサー活動だけでなく、自らやることが大切」「レオナルド・ダ・ヴィンチらが活躍した、16世紀のはるか700年前から、日本には天皇を中心とする、皇族や貴族たちが文化の担い手となり、自ら演ずることで芸術を庇護していた。それが日本型のルネッサンスです。見るだけだったり、お金を出すだけだったり、政治的に庇護するだけの西洋型ルネッサンスとは違います」「能や、茶道、書道や華道や、アマチュアでも努力すれば10年から20年でプロになれる。(略)知識や経験があればもっとも面白くなるし、見どころもわかってくる。鑑賞力が上がり、深く広く楽しめます」と述べている。宗教家でありつつ、実業家として生業を営み会社経営を行う背景について、深見は「聖と俗を区別して共存する」という神道ならではの特質によると述べている。深見によると、「聖と俗を区別して共存する」というあり方は、聖徳太子以来日本古来の神道が育んできた伝統であるとし、日本の経営者は、信仰を拠り所としつつも信仰と経営を混同させず、はっきり区別して共存させ日本型経営にも影響を与えてきたという。そのため、深見が代表をつとめるワールドメイトと、深見が経営する企業には、資本関係がなく株式も所有せずに、聖と俗を区別し、共存させているとしている。神道には、「生業(なりわい)や家を栄えさせ、コミュニティーを繁栄させる」とか、「現実を生き貫く精神や魂の、輝きに価値を見出す」という特質もあり、深見もこの特質を持つ活動を行っているという。全国紙5紙と全スポーツ紙、英字新聞2紙をとり、毎日、たまった新聞の社説などをヤケクソになって読んで、読解力や英語力の向上に努めているという。「絵のスケッチやメモ、俳句、短歌、川柳、ギャグ、詩、小説」から「英単語や気の利いた英語表現」など、思いついたことを何でも書く「黒ノート」を19歳の頃から持参し、移動中の電車や車、飛行機の中などを利用し、書き残すうちに、何百冊にもなっているという。予備校に通っていた頃から社会人になった今でも、「空白の時間」を有意義に使い、芸術の創作を行ったり、語学の勉強を継続している。また、電車の待ち時間は集中力が高まる場所であるとし、駅のプラットホームは、古典の読書や、能の足運びや型の練習に適していると述べている。また、興味のあるテーマの本を棚ごと買い、数十冊の中から面白そうなところを読んで実践し、知識を身につけていく方法をすすめている。本の知識と実際には差が生じるため、それが、自身の著作のテーマともなるという。ジュリアード音楽院名誉人文学博士。オックスフォード大学名誉フェロー。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)名誉フェロー、グロスタシャー大学名誉博士。その他、西オーストラリア州の西オーストラリア大学、カーティン大学、エディスコーエン大学より名誉文学博士号を授与される。【↑目次へ移動する】アーティストとして、舞台芸術家として、書画展やオペラ、音楽コンサート、演能会などの芸術活動を世界中で展開し、チャリティー活動や日本文化芸術の紹介につとめている。声楽、絵画、作詞、作曲、演奏、指揮、俳句、クラシックバレエ、京劇、俳優など、多彩な活動を行っている。音楽や芸術に関しては、自ら実践し、世界の芸術を紹介しながら、ジャンルを超えた芸術活動を行うという信念を持っている。また、後進の育成にも熱心である。1991年の「デイヴィッド・ヘルフゴットを迎えてのコンサート」で、近衛秀健指揮、デイヴィッド・ヘルフゴットの演奏のピアノ演奏により、ナポリ民謡の「サンタ・ルチア」をイタリア語で歌ったのが、歌手としての舞台デビューとなる。その後1997年にオペラ歌手としてデビューし、2002年12月、51歳で、西オーストラリア州立エディスコーエン大学芸術学部大学院修了、創造芸術学修士を取得する。以降、毎年、オペラの総合プロデューサーをつとめる傍ら、主演や準主演の出演をこなしている。毎年、総合プロデュースしているオペラでは、日本と西洋の文化を融合している。登場人物の心の動きを日本舞踊で表すなど、日本の風俗を西洋の名作オペラに融合させる演出が特徴である。オペラはすべて原語での上演であるが、登場人物の役名は、すべて漢字である。上映時には必ず、日本語の字幕が流される。舞台芸術において歌舞伎のように美しい風景に着物を着たり、大正期の舞台だったりなど日本風の空間で上映されることもある。1997年3月、清水脩作曲のオペラ「俊寛」の康頼役でオペラ歌手としてデビュー。同年6月28日、オペラ「魔笛」の総監督をつとめ、ザラストロ役として出演し、かつ、プリンシパルダンサーとしてクラシックバレエを披露する。同年10月10日、自ら作詞作曲したオラトリオ「七福神来天」の毘沙門天役で出演する。2002年11月14日、オペラ「『聖徳太子』~和を以て貴しとなす」で、総合プロデューサーと主演(厩戸皇子役)をつとめる。2003年8月28日、オペラ『元禄のトラビアータ(椿姫)』に慈兵衛流門(ジェルモン)役で出演。同年12月には、北京の大劇院で、日本人の深見とオーストラリア人と中国人によるコンサート「日中豪歌唱家共演 古典オペラの夕べ」を開催した。2004年9月2日、オペラ『大正時代のボエーム』磨千絵浪(マルチェッロ)役。2004年5月30日に、中国の北京にて、スーパーオペラ「楊貴妃」の初演に協力し自らも赤雄役を演じる。この「楊貴妃」は、複数の中国紙で好評を博したと報道され、日本人声楽家かつ京劇俳優の深見についても報道された。姜昆夫妻は非常に感動して涙を流したなどと北京日報に語った。人民日報においても感動的な脚本ですばらしい音楽とされ、日中文化交流への貢献も報道された。また、光明日報では長年にわたって日中文化の交流に尽力してきた貢献が大きく評価され報道された。2005年9月15日、オペラ『雛祭りのフィガロの結婚』主演:日賀朗(フィガロ)役。同年10月には、昨年北京で好評を博した、スーパーオペラ「楊貴妃」を、今度は、日本の新宿文化センター大ホールで初の国際講演としての総監修をつとめ、好評を博したことが中国でも報道された。陝西日報では深見の日中文化交流への貢献への情熱などについても報道された。2006年9月16日、オペラ『リゴレット in ジャパン』主演:詈業劣徒(リゴレット)役。2007年9月13日及び2008年9月19日、オペラ『大江戸版 好色男のファルスタッフ』主演:春舌夫(ファルスタッフ)役。2009年9月27日、オペラ『ゼウスの化身 怪人ドン・ジョヴァンニ』主演:貪・女蛮兄(ドン・ジョヴァンニ)役。イタリア語の字幕を導入したことで、わかりやすくしかも面白く鑑賞できたと報じられた。2010年9月24日と26日に、ソルノク市立交響楽団を招き、オペラ『ナブッコ・我が愛する地球よ!』を開催し、タイトルロール(名武鼓役)で出演し、総監督をつとめる。2012年、「第1回 グランドオペラ Japan」と題し、オペラ・オーストラリアの日本公演かつ日本初の共作として、「ドン・パスクワーレ」のタイトルロールを演じる。2010年まで行っていたオペラは「日本人から見た日本文化の発信」がテーマだったが、2012年より開始した「グランドオペラ Japan」は、「西欧人からみた日本文化の発信」が制作主旨であるという。ドン・パスクワーレはイタリアに住む元駐イタリア大使の70歳の日本人という設定で上映され、イタリアの邸宅で浴衣姿で登場し、壁面には額に入った深見の手による書を飾り、書を描く場面を演じた。オペラ歌手の他にシンガーソングライター、ロック歌手、ジャズ歌手、アニソン歌手、演歌歌手、童謡歌手としても活動し、国内外で50回以上のコンサートに歌手として出演する。また、コンサートでは総監督をつとめることも多く、指揮や、ヴァイオリン演奏、クラシックバレエも披露している。指揮は、長瀬清正に師事し、国内外で30回以上のコンサートで、指揮者として出演している。1991年に、オーストラリアのパースにて、弦楽四重奏「スターライト・イン・パース」を開催し、ヴァイオリオンソロ演奏を披露する。同年9月に、「デイヴィッド・ヘルフゴットを迎えてのコンサート」で、深見が作曲した曲をデイヴィッド・ヘルフゴットがピアノ演奏した。また、近衛秀健指揮のもと、ヘルフゴットのピアノ伴奏により、イタリア語原曲で『サンタ・ルチア』を披露し、歌手として舞台デビューを果たした。1993年2月と4月、翌年2月には、SEIZAN THIS WAYのラジオ公開収録を兼ねたコンサートを開催し、歌を披露した。1994年3月26日、大阪サンケイホールにて、チャリティーコンサート「七福神ウィーンを巡る」を開催し、自ら作曲したマーチを演奏する東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団を指揮し、指揮者デビューを果たす傍ら、ゲストの菅原洋一と歌で共演する。同年7月4日、川口リリアホールにて、チャリティーコンサート「真夏の夜のイリュージョン」を開催し、ゲストのライナー・ホーネック、ホセ・フェリシアーノらと、歌と指揮で共演し、クラシックバレエを披露し、ウィーン・フィルのコンサートマスターとヴァイオリンの合奏を行う。同年10月9日、「ベルリン・フィルのメンバーとの夕べ」で、ベルリンフィルの演奏をバックにコンサートを開催。同年、11月18日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールのチャリティーコンサート「AROUND THE WORLD」で、ロイヤル・アルバート・ホール・オーケストラを指揮し、歌手として出演する。チケット収入を英国王立盲人協会に寄付し、エリザベス2世から感謝状を授与する。同年12月23日と25日にクリスマスコンサートを開催、出演し、25日のコンサート収入をカンボジアシアヌーク病院の設立基金として寄付する。1995年10月10日にコンサートを開催し、指揮者と歌手として出演する。1996年4月26日、かつしかシンフォニーヒルズモーツァルトホールで、チャリティコンサート「中東和平コンサート」で指揮する傍ら、栗林義信らと歌手としても共演し、チケット収入をパレスチナ子供キャンペーンへ寄付する。同年10月10日、コンサートを開催して総監督をつとめ、指揮者、歌手として出演する。同年11月18日、ニューヨークの(ニューヨーク、カーネギー・ホール)で開催したチャリティーコンサート「All the World's a Stage(世界を華麗な舞台に)」で、カーネギーホール・オーケストラを指揮し、歌手として出演。1997年1月8日、ロンドンのセント・ジョンズ・スミス・スクエアで開催した、チャリティーコンサート「ニューイヤーコンサート」で、イギリス室内管弦楽団を指揮する傍ら、歌手として栗林義信らと共演。同年12月15日、「深見東州 チャリティーリサイタル」で歌手として出演し、チケット収入をカンボジアのシアヌーク病院へ寄付する。1998年1月27日、カザルスホールでSEIZAN THIS WAYのラジオ公開録音を兼ねたチャリティコンサート「一人一曲ニューイヤーリサイタル」で歌手として出演し、チケット収入をカンボジアのシアヌーク病院へ寄付する。同年4月3日、オーストラリアのエディス・コーエン大学で、「Arts on the Edge(前衛芸術コンサート)」コンサートを開催し、グレゴリー・ユーリシッチ師と共演する。同年7月14日、ロンドンのセント・ジョンズ・スミス・スクエアで「London Summer Concert」を開催して総監督をつとめ、自ら作曲した『鳴門海峡にて』等を演奏するイギリス室内管弦楽団を指揮し、歌手として出演する。同年8月20日、カザルスホールでSEIZAN THIS WAYのラジオ公開録音を兼ねたチャリティコンサート「二十世紀を代表する日本の声楽家達のガラ・コンサート」で栗林義信らと共演し、チケット収入をカンボジアのシアヌーク病院へ寄付する。同年11月10日、「光は東方より 深見東州作曲作品演奏会」で、自ら作曲した曲を演奏する「FNアンサンブル」を指揮する傍ら、自らシンガーソングライトした曲を歌う。1999年、団長をつとめるアルプス合唱団とともに、ローマ法王にバチカンで謁見しオリジナル曲や日本歌曲を披露した。同年7月27日、カザルスホールでSEIZAN THIS WAYのラジオ公開録音を兼ねたチャリティコンサート「日中文化交流 チャリティー ガラ・コンサート」で歌手として出演し、チケット収入をカンボジアのシアヌーク病院へ寄付する。同年11月11日、東京オペラシティコンサートホールで開催した「日本・オーストラリア ガラコンサート」に栗林義信らと出演する。2000年5月28日に中国の万里の長城で、翌29日に清華大学で、翌30日に中国で連日、コンサートに出演し、自身が作詞し、中国国家第一級作曲家の呂遠が作曲した曲を披露した。同年7月22日、中国ので開催された「第五回 中国国際合唱節」に指揮者として参加した。同年10月28日にオーストラリアのパースで開催された「2000 Australian Singing Competition」に出演し、同年11月14日に中国湖南省の春雷小学校で開催された「春雷小学開学典礼(開校式コンサート)」に姜昆らと出演した。2001年3月に演歌集『心の旅』をリリースする。同年3月18日の50歳の誕生日に、イイノホールで、「深見東州 50歳のバースデーコンサート」を開催する。同年10月31日に、シドニーオペラハウスで開催された「2001 Australian Singing Competition」で指揮を行う。同年11月29日、カザルスホールで開催された「つるとコアラのコンサート」に、グレゴリー・ユーリシッチ師らと出演。同年12月24日に、日本青年館で「クリスマスコンサート」を開催。2002年1月19日、ロンドンのセント・ジョンズ・スミス・スクエアで開催された「MUSICIAN ACROSS THE WORLD A New Year Celebration」で、ダイアナ湯川らと共演する。同年6月12日、福井県武生市(現越前市)の武生市文化センターで開催された「武生国際音楽祭 2002 チャリティーコンサート」に、栗林義信らと出演し、収益金をシアヌーク病院へ寄付する。同年9月15日、日本青年館大ホールで開催された、「Special Opera Concert」に、グレゴリー・ユーリシッチ師らと出演する。同年10月31日、パースコンサートホールで開催された「2002 Australian Singing Competition」で指揮を行う。同年大晦日に「レクイエムコンサート」を開催する。2003年1月23日、パースコンサートホールで開催された「Australia Day Concert」で自身が作曲した管弦楽曲『サマータイム・スワン・リバー』の指揮を行う。同年3月28日の52歳の誕生日に、かつしかシンフォニーヒルズモーツァルトホールで「深見東州52歳バースデー記念サーカス&中東和平コンサート」を開催する。同年11月15日に、東京文化会館大ホールで「栗林義信先生の古希をお祝いするコンサート」を開催し出演する。同年12月1日、北京の大劇院で開催された「中日濠歌唱家共演 古典オペラの夕べ」に出演する。2004年2月1日、東京厚生年金会館で開催された「旧暦の年末第九コンサート」で第九のソリスト(バリトン)をつとめる。同年3月18日の53歳の誕生日に、第一生命ホールで「深見東州53歳のバースデー記念 バースデーコンサート」を開催する。同年11月21日に八王子市民会館で開催された「オラトリオメサイア」で、初のメサイアのソリストをつとめる。同年12月23日、日本青年館大ホールで「クリスマスチャリティーコンサート」を開催する。2005年12月23日、「クリスマスチャリティーコンサート」を開催し、第九第四楽章やハレルヤコーラスのソリスト等で出演する。2006年8月22日、で開催された「第二回(中国・東州杯)世界漢語合唱大会」で指揮を行う。同年8月27日、八王子市民会館で開催された「真夏の夜のコンサート」に、第九第一楽章-第四楽章(合唱付き)のソリスト等で出演する。同年12月24日、八王子市民会館で開催された「クリスマスチャリティーコンサート」に栗林義信らと出演する。2007年4月27日のコンサートで、「地上の星」、「赤いスイートピー」、「いい日旅立ち」、「卒業写真」、「霧の摩周湖」、「千の風になって」等を歌う。同年5月、15年間のライブステージの集大成として、『深見東州ヒストリカルライブステージ』(9枚)をリリース。同年6月29日のコンサートで、「イマジン」、「好きにならずにいられない」、「涙そうそう」、「さくら(独唱)」、「シクラメンのかほり」等を歌う。同年10月13日のコンサートで、「アジアの純真」、「少年時代」、「乾杯」、「宇宙戦艦ヤマト」、「千の風になって」等を歌う。2008年11月29日、熊谷会館で開催された「Special Opera Concert」に出演する。2010年9月28日、ソルノク市立交響楽団を招き、新宿文化センターで開催したチャリティーコンサート「IFAC ガラコンサート」に出演し、収益金1080万円全額をカンボジア赤十字社等に寄付する。2011年8月、初のロックのミュージックビデオとして、『GAT MAN(ガット・マン)』をリリース。自身で作詞、作曲、歌、映像出演をはたし、オリジナルCGはジョージ・ルーカス・スタジオのクリエーターが手がける。同年12月23日に「クリスマス・コンサート」を開催する。2012年に『TOSHU FUKAMI sings ゴールデン演歌』をリリース。同年10月26日、シンガポールのマリーナベイ・サンズで開催された「MICHAEL BOLTON LIVE IN CONCERT 2012(マイケル・ボルトン ライブ イン コンサート」で、マイケル・ボルトンと共演する2013年5月21日、名古屋市民会館フォレストホールで、「深見東州と世界の友人コンサートツアー in 名古屋」を開催する。同年9月5日に日本武道館で、「深見東州と世界の友人コンサートツアー 日本武道館」を開催する。同年12月11日、ホテル日航東京で「深見東州 クリスマス・チャリティー・ディナーショー」を開催し、収益金全額をネルソン・マンデラ・チルドレンズ・ファンドに寄付した。2014年3月に『TOSHU FUKAMI sings ゴールデンアニメ&主題歌』でアニメ主題歌のカバーアルバムをリリース。同年にホテル日航東京で「深見東州 お上品飯食いショー!〜西洋ではディナーショーと呼ぶらしい〜」、 オリックス劇場で「深見東州 単独 進撃の阪神 ロック・コンサート!! 大阪公演」、「日本武道館で進撃の阪神巨人 ロックコンサート!! 日本武道館」、「進撃の阪神巨人 演歌コンサート!!」、「X'mas チャリティ・プロレス・ディナーショー!」を行った。2015年1月に、中野サンプラザホールで「新春 ジャズの一人祭典!」を開催。4月にはZeppダイバーシティ東京で「深見東州 グループサウンズ&フォークの一人祭典」と「深見東州 全部オリジナル曲コンサート」を開催して2日間で58曲を歌った。6月に新国立劇場で開催された東京国際コンサートでは、ホセ・カレーラスやコナル・コードと共演し、アンコールでは「川の流れのように」を3人で歌った。歌を通しての社会貢献として、友人ゲストとともに世界中の人権問題や貧困問題を訴えるチャリティーコンサートツアーを開催している。2013年5月には、名古屋市民会館フォレストホールで、ジミ・ジェイミソン(サバイバーのボーカル)とダブルバンドによるライブ(ロックコンサート)を共演。同年9月には、日本武道館で、マイケル・ボルトンとピーター・セテラとトリプルバンドにより「深見東州と世界の友人コンサートツアー 日本武道館」で共演し、アンコールで「イマジン」を3人で歌い世界平和を訴えた。2013年より主宰し、自身も歌手として参加している。2013年は、なかのZEROホールで開催され、キリ・テ・カナワ、大西宇宙、コナル・コードと共演を果たす。2014年以降は新国立劇場で開催されており、ルネ・フレミング、コナル・コードと共演。2015年は、ホセ・カレーラス、プラシド・ドミンゴ、コナル・コードらと共演した。2014年3月時点で、作詞は50曲以上、作曲は566曲(バージョン違いを含めると725曲)以上行っている(たちばな出版調べ)。1990年10月10日、自身が作曲した交響曲『箱根神社』が、福村芳一指揮により、初の作品演奏会を行う。同年12月29日、近衛秀健指揮により、自身が作曲した室内楽『伊勢神宮天の岩戸びらき』が初演となる。1991年3月9日、自身が作詞作曲したオペラ曲『七福神来天』が、近衛秀健指揮、二期会会員の歌により初演される。同年3月30日、自身が作曲した弦楽四重奏『スターライト・イン・パース』の初演の演奏会を開催し、自ら初のヴァイオリンのソロ演奏を行う。同年9月22日、日本にはじめてデイヴィッド・ヘルフゴットを招聘して開催した「デイヴィッド・ヘルフゴット氏を迎えてのコンサート」で、自ら作曲したピアノ曲『雪のエジンバラ城』と、自らのモチーフで近衛秀健が作曲した『アンドロメダ・ファンタジア』が初演となる。同年12月29日、近衛秀健指揮により、自身が作曲したオラトリオ『天地創造 日本誕生』の初演を行う。1992年7月26日、荒谷俊治指揮により、自ら作曲した『北極星扶桑宮殿の夜』と『宇佐八幡マーチ』が初演となる。1997年4月に、ピアノ曲の楽譜集『深見東州ピアノコレクション』を出版する。1998年7月14日、自ら作曲した幻想組曲『光は東方より』より『鳴門海峡にて』をイギリス室内管弦楽団が初演し、自ら指揮もつとめる。同年11月10日、深見東州作品演奏会「光は東方より」を開催し、幻想組曲『光は東方より』(『冠島・沓島』、『金華山』、『明石海峡』、『淡路島』、『鳴門海峡にて』)と、『白鴎宮殿』『光の列車のテーマ』『とうろう流し』『銀河を渡ってカシオペアへ』を自ら指揮し、自ら作詞作曲した楽曲『アヴェ・マリア』『ヤーベ神想』を独唱する。2000年1月、『深見東州マーチ集』(編曲近衛秀健、和田薫)をリリース。同年3月18日の誕生日に、朝日生命ホールで開催した「深見東州 49歳のバースデーコンサート」で、自身が作曲した『冠島・沓島』(幻想組曲『光は東方より』より)、『白鴎宮殿・プレリュード~フーガ』、『帝釈天と四天王』、『楠木正成のバラード』、『幻の大陸ムー』、『せせらぎのセレナーデ』、『火星よ優しくなれ』、『蓮華台上釈迦牟尼世尊』、『ミレニアムの鐘』、『勇者ペルセウス』の指揮をつとめる。同年9月、自ら作曲した曲を、西オーストラリアシンフォニーオーケストラがパースで演奏収録したCD『Mon Ami』をリリース。2008年、小林旭に、自らが作詞・作曲した『ジダンダ!』ほか8曲を提供、週間HIT 演歌/歌謡曲USENチャートで1位を記録(2009年の年間リクエストは28位)。中国では「日本第一の関羽」と呼ばれている。43歳より京劇をはじめ、1999年5月に48歳で中国京劇の泰斗・(おうきんろ)、葉蓬に人民大会堂での拝師(ぱいしー)の儀を通して入門する。王金璐(おうきんろ)と葉蓬は、師弟関係にとどまらず、ともに京劇を通じて新たな日中文化交流を深めることに尽力した。1999年、『西遊記』、『虹橋贈珠(こうきょうぞうしゅ)』での二郎神役。2000年、『古城の再開』関羽役。2002年8月13日、中国ハルピン市の黒龍江省京劇院にて、自ら総合演出した京劇『漢津口』の関羽役を演じる。2002年8月23日、中国中央電視台主催「国際京昆アマチュアテレビ大コンクール」に出場、「漢津口(はんじんこう)」関羽役を演じ、参加者1000人中金龍賞(最も優れている賞)を受賞。同年12月、二級京劇俳優に認定され正団員となる。同じく12月、京劇芸術発展の歴史を研究した書である「京劇大典」の編纂プロジェクトを始動した。2003年2月4日、シドニーオペラハウス初の京劇開催となる『シドニー京劇公演』の「漢津口(はんじんこう)」に、関羽役で出演する。2007年5月、56歳で、大衆演劇をコンセプトとした「明るすぎる劇団・東州」を旗揚げした。戸渡阿見名義で、自ら劇団団長、総合プロデューサー(監督)として原作、脚本、演出、衣装、音楽を全て行っている。第1回定期公演として、2009年3月18日光が丘IMAホールで東京公演を、3月21日阪南市サラダホールで大阪公演を開催し、総合プロデュース・原作・演出・脚本・衣装・音楽・幕間パントマイムをつとめた。第一部は、「ある沼の伝説」、「蝿」、「広辞林」を上演し、第二部では、「黄金伝説~清拭篇~」、「バッタに抱かれて」を上演した。第2回定期公演は、2010年9月7日~9月8日に浅草公会堂で開催し、総合プロデュース・原作・演出・脚本・衣装・音楽・幕間パントマイムをつとめた。2011年4月に定期公演が予定されていたが、3月11年の東日本大震災の影響により、取りやめとなった。第3回定期公演は、2012年4月20日-21日に浅草公会堂で開催し、「人食い熊」、「仲人」、「フランケンシュタイン」、「春が来た」を上演し、総合プロデュース・原作・演出・脚本・衣装・音楽・幕間パントマイムをつとめた。芝居のチラシには、「コスプレ、着ぐるみ、フェイスペインティングなど非日常な格好でご入場ください」という依頼文が掲載され、会場には着替えのスペースも用意された。劇団団長及び劇作家として芝居説明をユーモラスに語り、幕間には、パントマイムのパフォーマンスを演じ、底抜けに笑えるような面白さに満ちていたと好評を博した。演目は、自らが戯曲を書いた戸渡阿見の原作より、「人食い熊」「フランケンシュタイン」「仲人」「春が来た」が上映された。第4回定期公演は、2013年4月13日-4月14日に浅草公会堂で開催し、「五大聖人」、「最後の手段」、「泡立つ紅茶」、「蝶々夫人」の上演し、総合プロデュース・原作・演出・脚本・衣装・音楽・幕間パントマイムをつとめた。第5回定期公演は、2014年10月11日-12日に新国立劇場で開催し、「黄金伝説~清拭篇」、「アレー人」、「雨」、「広辞林」を上演して、総合プロデュース・原作・演出・脚本・衣装・音楽・幕間パントマイムをつとめた。「東州チャップリン」に扮して解説を行う傍ら、一公演で二度登場しパントマイムで出演した。パントマイムでは、第一部に「妖怪クロック」を披露し、第二部の魚介類篇では「バフンウニ」、「ムラサキウニ」、「エイ」、「マンタ」、「ホウジロザメ」、「ジンベイザメ」、「カレイ」、「ヒラメ」等の形態模写を披露した。「アレー人」では、初日に、初代タイガーマスクとザ・グレート・サスケ、西村修が、二日目に三田英津子とブル中野、山田敏代が本人役で登場し、主人公のアレー人にプロレス技をかけるサプライズ演出を行った。第6回定期公演は、2015年7月5日-6日に新国立劇場で開催し、「南極物語」、「民宿」、「盛り場」、「バッタに抱かれて」を上演し、総合プロデュース・原作・演出・脚本・衣装・音楽・歌・幕間コンサートをつとめた。演技の見せ場では生演奏オーケストラによる歌を披露し、幕間のコンサートも行った。曲目は、南極、雪の降るまちを、雪國、ペンギンの歌、アザラシの歌、知床旅情、霧の摩周湖、熱き心に、イヨマンテの夜、北酒場、恋するオトメ、君は我が運命、おまえに、君恋し、I lost my love、レッツゴーライダーキック、朝がきたら、残酷な天使のテーゼを披露し、アンコールとしてヘヴィー・ローテーション、オー・ソレ・ミオ(初日)、誰も寝てはならぬ(最終日)を歌った。第7回定期公演は、2016年5月14日-15日に新国立劇場で開催し、「残酷な天使のナットウキナーゼ」、「へそ」を上演し、製作総指揮(総合プロデュース)・原作・演出・脚本・衣装・音楽・歌・幕間パントマイムをつとめた。また、「甲殻機動隊」と題し、開演前はカニ(「サワガニ」、「越前ガニ」、「毛ガニ」、「花咲ガニ」、「タラバガニ」)、幕間はエビ(「オキアミ」、「桜エビ」、「カワエビ」、「ボタンエビ」、「シマエビ」、「オマールエビ」、「伊勢エビ」)の形態模写によるパントマイムを行った。本公演のために作詞・作曲し歌っている「残酷な天使のナットウキナーゼ」は、開演前日の深夜2時に完成した楽曲であったという。同志社大学在学中のESSプレジデントをつとめた頃から、英語で討論するとともに、独自なパフォーマンスやパントマイムを行うようになる。2009年から開催している「明るすぎる劇団・東州」の定期公演では、毎回、新作の幕間パントマイムで出演している。42歳から、クラシックバレエを始める。バレエのプリンシパルダンサーとして舞台もこなしており、ジュリアード音楽院よりダンサーと紹介され、バレエの写真集も出版している。能楽とバレエ、または能楽とバレエと京劇を融合させるなど、新しい舞台芸術の融合にも取り組む。1993年12月28日 三重県阿児アリーナホールにて、オペラバレエ「天の安河のうけひ」にてデビューし、マイヤ・プリセツカヤと共演する。1996年6月29日には、薪バレエ「浜辺に集う妖精たち」にてプリンシパルダンサーとして出演する。1999年2月、マイヤ・プリセツカヤと共演したDVD『天の安河のうけひ』と、バレエ出演した|オペラバレエ『やまとは国のまほろば』をリリース。同年10月26日、メルパルクホールにて、世界初の能と京劇とバレエとのコラボ(融合演劇)として、「西遊記・孫悟空」で唐王役(京劇・中国語)、土蜘蛛(能楽師)、釈迦役(中国語にて京劇の一節を歌う)として一人三役を務める。舞台端に日本語と中国語の字幕を入れ、日本語と中国語が入り交じる形式で開催した。2000年8月31日、ロシアバレエ界を代表する踊り手の一人であるマイヤ・プリセツカヤを招き、能とバレエを融合した創作能・バレエ「羽衣ーHAGOROMO」など、新しい舞台芸術を生み出し、自身も、マイヤ・プリセツカヤとクラシックバレエで共演する。同年9月、『華麗なる舞―深見東州バレエ写真集』を出版した。社団法人日本デザイン文化協会評議員。自らデザインしたブランド服も販売している。2001年、日本デザイン文化協会主催のコンテストでデザイン画が5000点中、2位と入選のダブル受賞を果たす。同年、「T.Fukamiファッションショー」を開催。2002年、「大型ファッションショー流動する紫禁城」に「将軍」、「世紀の聖人」として出演。2006年11月27日-28日、東京プリンスホテルと六本木ヒルズで開催された「中国文化フェスティバル2006」中国スーパーモデルファッションショー「流動する紫禁城」に、日本側のデザイナーとして出展 。同年12月24日に「Toshu Fukami ファッションショー」を開催する。ギャグクリエイターとして、ギャグ作品集を4作、ギャグ写真集を1作、ギャグDVD『ギャグ300連発』『ギャグ600連発』『ギャグ888連発』3作品をリリース。1997年10月、『深見東州のギャグ大爆発!』を出版する。同年12月、『ギャグ写真集』を出版する。1999年7月、『深見東州のウルトラギャグ大爆発!!』を出版する。2001年1月に『ポパイの心があたたまるさむい本』と『ベティーの心があたたまるさむい本』を出版し、VHS『深見東州のオペラ漫談』をリリース。2010年3月18日より「戸渡阿見」「レオナルドTOSHU」のTwitterでほぼ毎日ギャグをつぶやいている。ギャグ絵やギャグ書など、ギャグで笑いを誘う書画作品を多数創作しており、1997年以降、毎年の個展で一般公開している。学苑長をつとめる予備校みすず学苑のCMや広告を自ら手がけ、ユニークで強烈な印象であり、予備校のPRとは思えないなどと話題となっている。CMは、登場キャラがダジャレを連発する内容となっているが、「なぜ毎年、あんなに意味不明なのですか?」とか「あんなCMを見て、予備校としてのみすず学苑に来る生徒がいるのですか?」等の質問がみすず学苑に寄せられ、みすず学苑の公式ウェブサイトでは、CMの謎を解く回答を掲載している。団長をつとめる明るすぎる劇団・東州の毎年の定期公演では、ギャグコスプレに扮し、ギャグパントマイムを行っている。これまで、犬の散歩、ウサギとネズミの物まね、イグアナ、セミ、ニワトリの産卵、ニワトリの鳴き真似、ダンシングフラワー、Bussu Stop、カメレオンの食事、風に揺れる樹木:森、林、庭の木、秋にすすき、草原の草。チャップリンの果物手品、マネキンのまねキン、東州キャットリン(子猫、老人猫、中年猫、晩年猫、化け猫)、東州茶っプリンのツーピース(ゴムゴムの手、ゴムゴムの足、ゴムゴムの舌)、東州茶っプリンの筆記用具・文房具(えんぴつ、シャープペン、ボールペン、万年筆、消しゴム、定規、下敷き)、妖怪クロック、魚介類篇の形態模写(「バフンウニ」、「ムラサキウニ」、「エイ」、「マンタ」、「ホウジロザメ」、「ジンベイザメ」、「カレイ」、「ヒラメ」等)、カニ(「サワガニ」、「越前ガニ」、「毛ガニ」、「花咲ガニ」、「タラバガニ」)やエビ(「オキアミ」、「桜エビ」、「カワエビ」、「ボタンエビ」、「シマエビ」、「オマールエビ」、「伊勢エビ」)などのギャグパントマイムを発表している。絵画の総作品は2847作品(2015年10月時点。TOSHU絵かきの店発表)。水彩画、アクリル画、詩画など、様々なジャンルの絵画を描く。「これが一人の画家の作品か?」と目を疑うほど、書画や水彩、アクリル、油彩、パステル、ギャグ絵作品など、多才なジャンルの作品が存在し、絵に付けられたタイトルも面白い名前であったり、なんとも可笑しいて見ると笑ってしまう作品も多い。求龍堂より、『深見東州 自選画集』、『深見東州の創造』、『創作 深見東州』、『書画 深見東州』『深見東州画集』の5冊の画集が刊行されている。たちばな出版からは、『墨汁の詩(うた)』(求龍堂制作)、『TOSHU FUKAMI ART WORKS 深見東州画集』、『深見東州 書の世界』、『深見東州 日本画の世界』を出版している。中国の文化芸術出版社より、『A CREATION OF TOSHU FUKAMI』(書画集 深見東州の創造)を出版している。毎年制作するカレンダーで、求龍堂元編集長の武井武利氏が選んだ自作の絵画を採用している。宇宙を山芋が火を噴いて飛ぶ『宇宙戦艦ヤマイモ』、身体に氷をのせたウグイスを描いた『春だと思って出てきたら、凍ってしまったウグイスちゃん』、肖像画のように描かれた『人間になろうとしているコアラ』、じっと目をつぶり首を傾げるトラのさまがおかしさを誘う『質問に答えられないトラ』など、絵のタイトルが面白かったり、見ていて可笑しくなるギャグ絵作品を多数生み出している。書の総作品は953作品(2014年3月7日時点。TOSHU絵かきの店発表)。謙慎書道会評議員。現代日本書家協会顧問。大東文化大学書道研究所認定書道教授者。作品『恕』が、大英図書館に永久所蔵されている。作品収蔵の記念に開催された「現代書家の名品と平成の佐竹本三十六歌仙」展の「日本の伝統芸術21世紀展実行委員会」の副会長をつとめた。自身の水墨画と詩と、安永麦州のコラボ作品集として、『墨汁の詩』を出版している。禅語の「和敬清寂」のパロディ作品である「和敬静寂、禅語の「一期一会」のパロディ作品である「苺一会」など、ギャグを書で表した作品も複数存在する。1997年9月21日に、自身初の書画展として「深見東州初のIFAC書画展」を開催する。1999年5月15日、中国済州で開催された「'99 国際美術交流大展」に作品を出品し、セレモニーでは日本人参加者の代表としてスピーチを行った。8月17日、「BESETO美術祭東京展」に出展。同年10月22日、ノートルダム大学で書画展を開催した。同年11月11日、「ロンドン大学演能~書画展」を開催し、ロイヤル・ホロウェイの「HANDA NOH THEATRE」で書画の展示と半能「岩船」シテ(龍神)と仕舞「高砂」を披露した。同年12月1日-14日、ニューヨーク市ソーホーのグラントギャラリーで個展を開催する。2000年1月、チャリティ「二人展」を開催し、会場で水墨画の実演を行う。同年5月21日-31日、中国政府文化部主催で北京市紫禁城で開催されて「深見東州 日本書画展」に、8メートルの水墨画「本栖湖万里長景図」等を出品し、同会場では即興で墨絵を描いて披露した。2001年3月19日-24日、大森ベルポートで「深見東州チャリティ書画展」を、20日-24日に「スーパーメルヘンファンタスティック華展」を同時開催する。同年5月11日、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院で、日本文化や芸術専攻の生徒の前で、書の実践講義を行う。同年7月9日-15日、中国の著名な画家(えんきこん)と、「日中名人深見東州・(えんきこん)美術作品展」をで開催する。同年7月25日、第一回全国高校生美術祭(現:高校生国際美術展)の実行委員長に就任し、以降、毎年開催する。同年10月1日、「Toshu アート・ギャラリー」(現・TOSHU絵かきの店)をオープンする。同年11月1日、オーストラリアのパース・カリグラフィー・ギルド主催で毎年開催される書画展覧会に作品を出品する。2002年11月、作品「太平洋とご来光」等を北京開催の『東アジア美術交流祭』に出品。同作品は、日中友好会館で11月8日〜13日展示された後、11月19日以降、北京の中華世紀壇で展示された。2003年1月23日-28日、パースの『日豪芸術交流祭』で、「東州・麦州二人展」を開催した(同会場で同時開催したコンサートで、自身が作曲した管弦楽曲『サマー

出典:wikipedia

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