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武蔵中央電気鉄道

武蔵中央電気鉄道(むさしちゅうおうでんきてつどう)は、1929年から1939年まで東京府(現・東京都)八王子市内を通っていた軌道路線およびその運営会社である。武中電車の愛称で親しまれたが、折からの世界恐慌による八王子市の繊維産業の不振に加え、並行する中央本線での電車運転開始や京王電気軌道御陵線の開通により乗客数が伸びず、1938年に一部区間を廃止のうえ京王電気軌道に合併され、のち全線が廃止された。一部廃止・京王合併直前八王子駅前 - 高尾橋間は6:30 - 21時台まで8-16分間隔、東八王子駅前 - 横山町間は7時台から20時台まで7分間隔の運転であった。武蔵中央電気鉄道は八王子電気鉄道(高尾山電気軌道)から軌道の敷設特許を譲り受けている。この高尾山電気軌道は1923年(大正12年)1月30日に設立(資本金10万円)され、紅林七五郎という素封家が社長であった。当初の計画(浅川駅前 - 高尾橋)では東京市民の行楽地であり信仰の山である高尾山への輸送を目的としていたが、やがて八王子市内への延長計画を立てたあと、八王子から所沢を経由して大宮へ至る路線と、砂川から分岐して田無を経由して目白に至るという長大な路線を計画した。そして1923年(大正12年)8月に特許出願した。ところがこの長大な路線はあえなく却下されてしまう。かろうじて八王子市内への延長線は1925年(大正14年)9月に敷設特許が下付されることになった。1926年(大正15年)3月になると経営陣の異動があり、紅林は社長を退いた。4月に八王子電気鉄道に商号変更し、資本金を100万円に増額すると、6月の株主総会において藤山愛一郎が取締役に、父親の藤山雷太が顧問に就任した。この年の藤山親子の持株は総株数の4割をしめており、会社が藤山家の支配下におかれたことになる。この体制のもと9月に八王子から所沢に至る鉄道の敷設免許を申請し、つづいて1927年(昭和2年)1月には所沢より大宮に至る鉄道の敷設免許を申請した。この八王子 - 大宮間の敷設免許は1927年(昭和2年)12月に下付された。さらに1928年(昭和3年)4月には大宮から与野町、鳩ヶ谷町、草加町、流山町を経由して常磐線柏駅に至る路線と鳩ヶ谷から分岐して舎人村、西新井村、綾瀬村を経由して常磐線北千住駅に至る路線の敷設免許の申請をした。しかしこの路線の免許を得ることはできなかった。ところで大宮への路線の建設費であるが、概算415万円であり資本の増強が求められた。そこで新たに1929年(昭和4年)4月資本金700万円の武蔵中央電気軌道株式会社を設立し、社長に藤山雷太が就任した。7月になると八王子電気鉄道は軌道及び鉄道の敷設権を武蔵中央電気鉄道に譲渡し解散することになった。一方これと前後して工事が始められていた路線は11月より一部開業し、道路の拡幅工事を進めながら徐々に1932年(昭和7年)4月まで開通していった。また八王子-高尾山麓間を運行していた、八王子市外自動車を開通時に傘下におさめバス事業を兼営した。だが1930年(昭和5年)12月に中央線が浅川まで電化され都心から直通するようになり、さらに1931年(昭和6年)3月には京王電気軌道御陵線が開通したことにより乗客は伸び悩んだ。また昭和金融恐慌の影響で株式の払込が不調で八王子-大宮間に建設工事にはいることができなかった。会社は資本金を490万円に減資することにし、社長も藤山愛一郎に変わった。結局業績は上向かず遂に路線を一部廃止の上、新宿-八王子-高尾間の交通一元化を考えていた京王電気軌道に売却することに決定した。価格は50万円(八王子-大宮間の敷設権も含む)であった。京王八王子線となり横山駅から高尾山までの輸送用になったがそれも長くはなく1939年(昭和14年)6月に休止され年内に廃線となった。車両は単車を除きすべて他の鉄軌道に引き取られた。丁度鉄価が高騰しており撤去した軌条や架線等の売却価格は20万円とも30万円ともいわれており400形の資金になったという。現在は国道20号上に敷設された軌道ゆえ見るべき遺構もないが曹洞宗祥雲山長安寺の参道は軌道に使われた敷石が再利用されている。1929年11月日本車輌製の半鋼製ボギー車9両(1-11、4と9は欠番)を新製し、翌年2両(12,13)を増備した。この車両は最大幅2,118mmの細身の車体であった。これは軌道建設規程第8条により車体外幅員各幅3.64mが必要とされており、軌道が敷設されている道路の幅員が10mしかなく、これとは別に両側に電柱を設置する幅が各1尺(30.3cm)ずつ必要となるためこの寸法になった。また支線用に元京都市電の木造単車1両(51)を1932年に西武鉄道から購入し、計12両が在籍していた。1937年に1両を譲渡し、支線用の単車を廃車した。1938年の路線短縮時に5両を譲渡し、廃線時に残りの5両は北京へいった。一部廃止・京王合併直前呼称は営業当時

出典:wikipedia

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