


八丁沖の戦い(はっちょうおきのたたかい)は、戊辰戦争(北越戦争)の最中に行われた、越後長岡藩による新政府軍への奇襲攻撃。幕末の長岡藩は、山田方谷に学んだ家老河井継之助の指揮の元に軍制改革に成功した。イギリス式軍隊を整えた。慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まると、長岡兵60余名は、旧幕府軍に属し大坂城付近の玉津橋を守ったが、旧幕府軍の敗北に伴い、藩兵は長岡藩領に帰国した。河井は単身で江戸に行き、新政府に対抗するための軍事力を持つために、大量の武器を購入して、新政府にも旧幕府にも属さず、モンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張した。新政府軍の北陸道先鋒総督府より、兵士と軍資金を供出するように、命じられた時に、河井はこれを黙殺した。このような長岡藩の態度を問題視した新政府は、4月12日江戸城に入場すると、北越方面の平定に乗り出した。そして、高倉永祜を北陸道鎮撫総督兼会津征討総督に任命して、黒田清隆と山県有朋が参謀に任命された。北陸道軍は越後高田に集結して、4月21日に山道軍と海道軍の二手に分かれて長岡に進撃を始める。その時、長岡藩は河井継之助を軍事総督に任命した。長岡藩は領内に会津藩兵や衝鋒隊や桑名藩兵を招き入れて、同盟軍を結成した。5月10日には、榎峠の奪還作戦で初陣を飾る。11日より、朝日山の争奪戦を行い、同盟軍が奪取した。この戦いで、長州の松下村塾の出身の時山直八が戦死する。5月19日に長岡城は新政府軍の手に落ちるが同盟軍が再び奪還した。6月22日に、大沼の西端の八丁沖で300名弱の長岡藩兵による奇襲が行われた。奇襲は成功するかに見えたが、11名が戦死して敗退した。この奇襲に手ごたえを感じた河井は、作戦をたて、7月24日の深夜に長岡藩兵17小隊約680名の長岡軍が、八丁沖を6時間費やして渡り長岡城を奇襲した。翌朝対岸に着いた長岡軍は新政府軍を奇襲した。長岡軍は一気に長岡城下まで攻め込んで山県有朋(狂介)が指揮する新政府軍を撃退し、長岡城を奪還する。しかし、すぐに新政府軍が反撃に転じた。長岡軍は62名の戦死者を出して、河井も被弾して、歩行不能になる。この攻撃では新政府軍は長岡城再奪還には至らなかったが、新発田藩の裏切りなどにより新政府軍が再び有利になると再度長岡城を攻める。そして、29日に新政府軍は長岡城を再び陥落させる。長岡軍は敢闘したが、58名の戦死者を出した。残存兵力は河井継之助を担架に乗せて運び、会津に逃亡する。八十里越を超えて、8月5日に会津領に入った。河井は会津で、松本良順の治療を受けるが、治療の甲斐もなく8月16日に息を引き取った。
出典:wikipedia
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