塩崎 真(しおざき まこと、1973年6月29日 - )は、熊本県八代市出身の元プロ野球選手(内野手)。現在はオリックス・バファローズ二軍守備走塁コーチを務める。熊本県八代市出身。熊本工業高校では3年時に第73回全国高等学校野球選手権大会に出場し、1回戦で高木大成、副島孔太、高橋由伸らを擁する桐蔭学園高校に敗れた。高校卒業後は東洋大学に進学するも中退、社会人野球の新日鐵広畑を経てのドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブから3位指名を受け入団。は新人ながら100試合出場を記録したが、プロ入り後3年間は打率2割近辺で、守備も内野全てを守れる一方で際立って上手いわけではなく、なかなかアピールできなかった。は9番遊撃手で開幕スタメン出場を果たし、レギュラーとなった。シーズン終盤には田口壮に代わって1番も任され、初めて打率.250を超えた。には横浜ベイスターズから進藤達哉が移籍してきたがレギュラーを譲らず、1年間遊撃手のレギュラーとして出場した。初の2桁盗塁に、高い得点圏打率を記録した。は極端な打撃不振に陥り、打率は2割を少し超える程度だった。高畠康真コーチの打撃指導などもあったものの、になると後藤光尊の台頭や平野恵一の優先起用に加え、自らの故障などで出場機会が減少。はバットを投手方向に極端に傾ける打撃フォームに改造して簡単に三振せず出塁率が向上し、6月まで後藤が務めていた遊撃手のポジションを取り返した。前半戦は打率4割を維持し、後半戦になるとオリンピックや主力選手の故障などもあり村松有人と3番・4番を打ち、規定打席には届かなかったものの打率.341を記録。得点圏打率は4割を超えた。チーム事情で頻繁に守備位置が変わり遊撃手43試合、二塁手17試合、三塁手11試合、指名打者3試合でスタメン出場した。また、球団合併によりブルーウェーブとして最後の一軍公式戦で4番に座り、「ブルーウェーブ最後の4番打者」となった。は球団合併に伴う選手分配ドラフトによりオリックス・バファローズと契約。同じ内野手の阿部真宏が加入したため、主に三塁手としてチーム最多の60試合、二塁手14試合、遊撃手23試合を守り、打率.315を記録した。は1番二塁手で開幕スタメン出場。主力選手に故障が相次ぎレギュラーが固定できない中でチーム最多の打席数を記録し、5年ぶりに規定打席に到達した。4番と9番以外すべての打順でスタメン出場し、パンチ力も発揮した。守備でも二塁手67試合、三塁手43試合、遊撃手38試合と3ポジションを守り、9月18日の対千葉ロッテマリーンズ戦で通算1000試合出場を達成した。同年オフにFA宣言したが他球団で獲得を希望するチームは無く残留。しかし、FA宣言前にオリックスが打診していた金額より低い年俸7000万円(推定)で契約となった。はコリンズ新監督が残留を想定していなかったこともあり、一時は同じくFA残留となった日高剛とともにチーム構想から外れ、グレッグ・ラロッカらに出場機会を奪われた。同年は、ほぼ三塁の守備固めとしての出場のみとなり、34試合出場、打率.141、1本塁打と自己最低の成績に終わった。は開幕直後は打率4割台を記録するなど好調だったが、すぐに調子を落とし前年同様三塁の守備固めに落ち着いた。しかし、シーズン通して一軍におり、遊撃手のレギュラーである大引啓次が故障で戦線離脱した際には穴を埋めた。オフの契約更改の席では、生え抜きのベテランと言う立場から「これでチームが強くなったと考えるのは危険、来年最下位になる可能性もあるので、自分勝手な行動が出たらすぐに言います。」と若手の指導役を買って出る旨の発言をした。も主に守備固め中心での起用だったが、主力が相次いで故障して戦線離脱した事に伴いスタメン出場機会が増加した。6月11日の対読売ジャイアンツ戦では2回裏にディッキー・ゴンザレスの開幕7連勝とチームの8連敗を阻止する決勝2ラン本塁打を放ち、3年ぶりにヒーローインタビューを受けた。その後は山崎浩司の台頭もあって徐々に出場機会が減少し、8月14日に二軍に降格した後は一軍に再昇格することなくシーズンを終えた。開幕1軍入りを果たすが、結果を残せず7月に2軍降格。同月、岡田彰布に来期のコーチ就任を打診され、これを受諾することを決意。9月に現役引退することを表明した。引退試合となる9月28日の日本ハム戦で再昇格。8回裏に代打出場しダルビッシュ有から右前安打を放ち有終の美を飾った。10月12日に任意引退選手公示。からはオリックスの二軍守備走塁コーチを務める。
出典:wikipedia
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