大空位時代(だいくういじだい、)は、神聖ローマ帝国で王権が不安定であった時代のことである。期間は1250年、1254年または1256年から1273年まで。この時期にドイツ王位を世襲する有力な家門はなかった。そこで、選帝侯など有力諸侯が帝国の直轄領を蚕食し、帝国の権利の多くを奪った。彼らはライン都市同盟までも分解し、影響力を極端に増した。「大空位時代」とはドイツ国王の不在を意味する言葉であるが、この時期に決して国王が不在であったわけではなく、この言葉は皇帝の空位時期を示す言葉でもない。皇帝にならなかった国王は数多くおり、大空位時代の終焉はルドルフ1世の国王即位に置かれるが、ルドルフは皇帝として戴冠していない。語義的にも「王権」("regnum")を対象としており、「帝権」("Imperium")と「王権」にはこの時期明確な区別が存在した。したがってこの時代の特色は、国王の二重選挙によって国王権力が著しく衰退したこと、また王位が弱小諸侯もしくはドイツ国外の人物によって獲得され、ほとんど国王が不在と同じような状況に陥ったことである。また、ドイツ国王の選挙権は7人の選帝侯にあるという考えが、大空位時代の時点で確立していたことにも注目される。ホーエンシュタウフェン朝では、1250年にフリードリヒ2世が死去した後、次男のコンラート4世が後を継いだが、コンラート4世は1254年に在位わずか4年で死去した。コンラート4世の子コンラディン(コッラディーノ)は帝位に就けず、継嗣もなかったため、ホーエンシュタウフェン朝は断絶した。コンラート4世には対立王としてホラント伯ウィレム2世(ヴィルヘルム・フォン・ホラント、在位:1247年 - 1256年)がいたが、コンラート4世の死で対立者がいなくなり、形の上では唯一のドイツ王となった。ウィレムは「神聖ローマ帝国」を正式な国号として使用した最初の君主であったが、1256年に遠征の帰路で溺死し、ドイツ王位は空になった。皇帝不在となった神聖ローマ帝国では、ドイツ諸侯による複雑な権力闘争が起こる一方、1257年の国王選挙で帝国外から2人の次期皇帝候補者が推された。ケルン大司教、マインツ大司教、ライン宮中伯、ボヘミア王オタカル2世がイングランド王ヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードを推薦し、リチャードが候補に挙げられた3か月後にトリーア大司教、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯、支持者を変えたオタカル2世がカスティーリャ王アルフォンソ10世(賢王)を国王に推薦した。このうちアルフォンソ10世はローマ教皇の強硬な反対と国内事情から国を離れてドイツに駆けつけることができず、即位はならなかった。リチャードは4度ドイツに渡ったが、滞在期間はごく短いものだった。その後、ボヘミア王としてドイツで大勢力を誇るオタカル2世(母クニグンデがドイツ王フィリップの次女でアルフォンソ10世の従兄)が帝位獲得を目指したが、ドイツ諸侯やローマ教皇はオタカル2世のような強力な皇帝の出現を望まなかった。しかし、長引く空位は帝国内の荒廃を招き、シチリア王カルロ1世(シャルル・ダンジュー)は甥のフランス王フィリップ3世を帝位につけ、ヨーロッパをフランス勢力でまとめる野望を抱いていた。そのため、諸侯や教皇は1273年、当時としては弱小勢力に過ぎなかったハプスブルク家のルドルフ1世を神聖ローマ帝国の君主として擁立した。これによって大空位時代は終わりを告げた。ただし、ルドルフ1世は正式にはドイツ王であり、ローマで皇帝としての戴冠を受けることはなかった。ルドルフ1世が帝国君主として諸侯から擁立されたのは、弱小勢力のため傀儡として扱いやすいと諸侯から思われたことのほかに、ルドルフ1世の祖父・ハプスブルク伯ルドルフ2世がホーエンシュタウフェン家の一族の娘アグネス・フォン・シュタウフェンと結婚していてその血を引いていたこと、フリードリヒ2世とコンラート4世の時代にルドルフ1世が皇帝に忠実に仕えていたのが評価されたためでもあった。しかし、ルドルフ1世は諸侯の思惑に反して優秀な人物であり、1278年にはオタカル2世をマルヒフェルトの戦いで敗死させ、オーストリア公国を獲得するなどして勢力を伸張させるとともに、帝国の安定化に努めた。ただし、これによってハプスブルク家が帝位を独占することにはならず、ナッサウ家のアドルフ、ルクセンブルク家のハインリヒ7世といったその時点での弱小勢力の君主擁立というパターンがなおも続いた。
出典:wikipedia
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