正燈寺(正燈庵)(しょうとうじ)は、東京都台東区竜泉一丁目にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は東陽山。開基は松平英親(従五位下:市正)と溝口宣直(従五位下:出雲守)開山は愚堂東寔(大円宝鑑国師)。諸説あるようだが、資料として残されているものとしては「台東区文化財調査報告書」第八集(基礎資料編Ⅳ)臨済宗明細簿によると1630年(寛永7年)庚午歳といわれている。越後新発田藩第3代藩主:溝口宣直(従五位下:出雲守)と豊後杵築藩の初代藩主:松平英親(妙心寺聖沢院に埋葬)(従五位下:市正)の二人の藩主の寄進のもと創建。開山(初代住職)は愚堂東寔【天正5年4月8日(1577年4月25日)- 寛文元年10月1日(1661年11月22日)】(大円宝鑑国師)。臨済宗妙心寺派の大本山、妙心寺の第14世住持を務め、のちに高僧に対して朝廷(天皇)から贈られる諡号の1つである国師号を授けられた。この寺の寺名は妙心寺聖沢派の高僧東陽英朝に深く関わっている。愚堂東寔(大円宝鑑国師)が江戸に本寺院を創建するにあたり山号には東陽英朝の名前から「東陽山」、寺名には英朝著作『宗門正燈録』から「正燈寺」と刻んだ。この当時、愚堂東寔(大円宝鑑国師)の元へ参禅したいと多くの弟子たちがこの寺に集まって来た。そして愚堂派下の十五哲の一人に愚堂東寔(大圓寶鑑國師)の法を嗣ぐ至道無難がいる。至道無難は1654年(承応3年)正燈寺で得度した。その後、愚堂東寔(大円宝鑑国師)は愚堂派下の十五哲の一人である正燈寺第二代住職となる崇山禅清に正燈寺を譲る。第二代住職:崇山禅清は徳川秀忠の養女(相馬中村藩初代藩主、相馬家十七代:相馬利胤の正室)長松院殿の法師であった。そのこともあり、1665年(寛文5年)10月30日、長松院殿は正燈庵にて火葬され、相馬主計清胤、門馬作左衛門維経、門馬兵右衛門らが遺骨の供をして故郷の中村藩に旅立った。この後も相馬家と正燈寺とは深い関係が続く。陸奥国中村藩5代相馬昌胤(相馬家二十一代)の次男。相馬圓壽丸元禄14(1701)年2月29日、疱瘡のためにわずか三歳で亡くなってしまう。法名は洪元英範大童子。正燈寺に葬られた。また、開基である関係から新発田藩・杵築藩の家臣やその家族もこの寺に多く埋葬された。第三代住職:徳海玄功の時に(創建当時)「正燈庵」から「正燈寺」となった。第四代住職:乾外祖堅の頃、創建から70~80年後の八代将軍 徳川吉宗の時には吉原の隆盛も手伝って、紅葉の名所として江戸市中の噂話にのぼるようになった。このころから別称「もみじ寺」と言われるようになり、約3500坪の広大な境内にモミジが植えられていたようだ。東には「正燈寺」西には「海晏寺(南品川)」と江戸時代はこの2つの寺が江戸の「もみじ寺」として有名だったそうだ。桜の上野・隅田川に対し、紅葉は正燈寺が江戸風流人の話題となり、小林一茶は文化元年(1804)の秋に正燈寺のもみじの紅葉を見て句を詠んでいる。他にも大田南畝・加舎白雄などが寺の紅葉を見て句を詠んでいる。この寺を詠みこんだ江戸川柳は数百以上あるともいわれている。また歌川広重(安藤広重)の「名所江戸百景」冬の部102番には、吉原の窓越しから見える西側の風景として森が描かれている。この森が江戸時代、広大な境内であった正燈寺のモミジの森である。しかし江戸時代後期の頃には『東都歳事記』によると正燈寺のモミジは半枯れ状態だったらしい。その後関東大震災・第二次世界大戦と、二度にわたる災いにより正燈寺は完全に破壊され紅葉も焼き尽くされてしまったが、その苦難を克服し現在に至っている。
出典:wikipedia
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