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龍田丸

龍田丸(たつたまる)は、日本郵船が保有していた貨客船。龍田丸は隔週で運行されていた北米航路用の船であった。主な寄港地は香港・上海・神戸・横浜・ホノルル・ロサンゼルスおよびサンフランシスコであった。本船は浅間丸・秩父丸と姉妹船で、いずれの船も神社名にちなんだ命名であった。第一次世界大戦後経営危機に陥っていた東洋汽船から、1926年(大正15年)サンフランシスコ航路を継承した日本郵船は同航路の旧型就航船刷新のため、浅間丸級大型定期客船3隻を建造した。龍田丸はその第3船で、第1船の浅間丸と龍田丸は三菱造船長崎造船所で建造された。造船所建造番号は浅間丸がS.450、龍田丸がS.451であった。なお第2船の秩父丸は横浜船渠で建造された。龍田丸は1929年(昭和4年)4月12日に進水し、1930年(昭和5年)3月15日に竣工、同年4月25日に横浜からサンフランシスコに向けて処女航海をおこなった。総トン数16,955トン、全長178mで最大幅は22mで、航海速力は19ノットであった。当時三菱長崎造船所はスイスのスルザー社と技術提携しており、スルザー型ディーゼル機関搭載、総出力16,000馬力の条件で、8ST90型エンジン2基2軸と、それより小型の8ST68/100型エンジン4基4軸とが比較検討されたが、主機室天井高さが最大2層分低くできる後者が採用された。なお浅間丸ではスルザー社製エンジンを輸入搭載したが、龍田丸では三菱長崎造船所製エンジンが搭載された。1941年(昭和16年)7月23日サンフランシスコ沖に到着したが、同日アメリカ政府に伝達された日本軍の南部仏印進駐と、それに対する7月26日のアメリカ政府による在米日本資産の凍結通告に関連して、両国政府間交渉による、船体、積荷の没収回避の保証取り付けまで入港を遅らさざるを得ず、7月30日ようやく入港となった。船客下船と揚げ荷を済ませ、日本人引揚客を乗せ8月4日出港し、8月18日横浜に帰着した。龍田丸より1便後の7月18日横浜出港の浅間丸はサンフランシスコへは到達できずに横浜へ戻っている。8月4日に日本政府は北米線の全船に帰港命令を出した。この関係で本船は十分な準備をおこなわずに出港したため、アメリカから横浜に向かう船内で食中毒が起き、125人が発症し9人が死亡する惨事となった。同船の乗客だった二階堂進(戦後、自民党副総裁)が中毒者の看護に奔走した。当時、作家の宮本百合子がこのニュースについて「龍田丸の中毒事件」というエッセイを「家庭新聞」(8月21日号)に発表している。10月15日、608名の主としてアメリカ人引揚客を乗せ横浜出港し10月23日ホノルル入港、翌24日出港し10月30日サンフランシスコ入港、860名の日本人引揚客を乗せ直ちに出港し、11月14日横浜帰着。この航海では海軍将校3名を船員と偽って乗せ、真珠湾の地形偵察が行われた。12月2日、南米の観光団、英米の外交官、在日商館員、日系人の母国観光団などほぼ満席の船客を乗せ、横浜からロサンゼルスを経由してパナマのバルボアへ向けて出港したが、大圏コースの北太平洋上で日付変更線を越えた2度目の12月7日、日米開戦の報を受けて引き返し、12月15日に横浜に帰港した。この航海は12月8日の真珠湾攻撃をカムフラージュするための航海であった。1942年(昭和17年)1月より海軍に徴用され、南洋諸島、ボルネオ、フィリピン方面の兵員輸送に従事した。日英外交官交換船運航のため一時海軍徴用が解かれ、1942年(昭和17年)7月30日、454名の船客を乗せ横浜を出港、途中寄港の上海で324名、サイゴンで146名、シンガポールで4名を乗せ、計928名で当時中立国であったポルトガル領東アフリカの交換地ロレンソ・マルケスに8月27日到着した。ここで日本人外交官、民間人877名、タイ人42名の計919名を乗せ9月2日出港、途中シンガポールで日本人571名とタイ人42名下船し、外務省関係者6名が乗船し、9月27日横浜帰着。1943年(昭和18年)2月8日21時45分、龍田丸は兵員輸送任務でトラック島に向け航行中、御蔵島東方約70km()の地点で米軍の潜水艦ターポンの雷撃を受けて沈没した。夜間に加え現場の海域は強風下であったが、ターポンはレーダーで龍田丸を探知して魚雷を発射した。日本側では攻撃を全く察知しておらず、爆発を確認した護衛の駆逐艦山雲が反転して捜索に当たったが、荒天という状況もあって乗組員198名・乗船員1283名全員が死亡した。

出典:wikipedia

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