サーシャ・コーエン(Sasha Cohen、本名:アレクサンドラ・ポーリーン・コーエン、Alexandra Pauline Cohen、1984年10月26日 - )は、アメリカ合衆国のフィギュアスケート選手(女子シングル)。2006年トリノオリンピック女子シングル銀メダリスト。競技名のサーシャとはアレクサンドラのロシア語風の愛称。趣味はファッションデザイン、料理、旅行。好きな食べ物はアイスクリームである。ロシア語を解することもできる。父のロジャー・コーエンはユダヤ系アメリカ人の弁護士兼経営コンサルタントである。母のガリーナ・フェルドマンはウクライナ出身のユダヤ系移民で元バレエダンサーだった。妹のナタリア(ナターシャ)は2006年8月に大学に入学している。家族は全員が敬虔なユダヤ教徒であり、よくシナゴーグに通っている。2002年のソルトレイク五輪の開会式では、アメリカ選手団の中にいたジョージ・W・ブッシュ大統領が、母親と通話中のサーシャ・コーエンの携帯電話を取り上げ「貴女の娘さんはお行儀良くやっているよ。競技での活躍をお祈りしています」と話した。またこの五輪中の試合でタイツを忘れてしまい、村主章枝からタイツを借りたことがある。村主は2006年に出演したNHK「英語でしゃべらナイト」でその時の逸話に言及し、「早く返してください(笑)」と冗談めかして語った。他の競技会でもタイツを忘れ、荒川静香から借りたことがある。 2005年に自叙伝『"Fire on Ice"』を出版。2007年公開のアメリカ映画『俺たちフィギュアスケーター("Blades of Glory")』では、トリノ五輪フリースケーティングの衣装を着てカメオ出演している。2015年7月6日、プロビンスタウンでヘッジファンドマネージャーの男性からプロポーズを受け婚約した。2016年8月20日に、ケープコッドで挙式を執り行った。高い柔軟性を活かしたスパイラルシークエンスと優美なレイバックスピンが得意。特にスパイラルは、サポート無しで足を前に高く上げての前向き滑走、真っすぐ伸ばした180度開脚など、高度な技巧で最高難度のレベル4を頻繁に獲得しており、トリノオリンピックではショート・フリーの両方でGOEで2.0点加点されていた。表現力も非常に高く評価されており、演技構成点で8点台を出すことがある。トリノオリンピックのショートプログラムでは、技術点ではイリーナ・スルツカヤ、荒川静香に次ぐ3位であったが、演技構成点でこの2人を抑え、トータルポイントでは1位となった。カリフォルニア州ロサンゼルス出身。幼い時から体操とバレエを経験し、7歳の時にフィギュアスケートに転向。ジョン・ニックスコーチに師事した。2002年のソルトレイクシティオリンピックは、ショートプログラムは安定した演技で3位となったが、フリースケーティングではコンビネーションで2つめのジャンプでの着氷失敗が響き、総合では4位入賞に終わった。2002-2003シーズンではグランプリシリーズ2連勝、グランプリファイナルでも優勝を果たす。2003-2004シーズン、2003年12月にコーチをタチアナ・タラソワから、サラ・ヒューズのコーチだったロビン・ワグナーに変更している。2004年世界選手権では2位に終わる。2004-2005シーズン、グランプリシリーズを背中の故障で全て欠場した。同年12月後半にコーチをロビン・ワグナーからジョン・ニックスに戻している。オレゴン州ポートランドで行われた2005年の全米選手権で復帰し2位。続くモスクワでの世界選手権でも2位に終わる。グランプリシリーズ、初戦のスケートアメリカは臀部の故障により欠場。次戦のエリック・ボンパール杯で2位。2006年の全米選手権では、インフルエンザによる体調不良を克服し初優勝。2006年トリノオリンピックのアメリカ代表となった。トリノオリンピックではショートプログラムをミスの無い演技で終え、イリーナ・スルツカヤと荒川静香を抑え僅差でトップに立った。フリースケーティングでは、序盤のジャンプで転倒や両手を着くなどの大きなミスを犯したが、中盤から終盤にかけてはほぼ完璧な演技でまとめて、優勝の荒川静香に次いで銀メダルを獲得した。トリノオリンピックから1ヵ月後にカナダのカルガリーで開催された世界選手権でも、ショートプログラムではコンビネーションジャンプで両足着氷したものの、質の高い演技を披露しトップに立ったが、フリースケーティングでは中盤から終盤にかけてミスを連発、1位のキミー・マイズナー、2位の村主章枝に及ばず3位に終わった。2006-2007シーズン以降は主要競技会に出場せず、アイスショーを中心に活動していたが、2010年のバンクーバーオリンピックに向けて、2009-2010シーズンより復帰することを明らかにした。しかし、足の怪我により2009年のグランプリシリーズは全て欠場。翌2010年1月の全米選手権で、3大会連続の冬季五輪代表選出を目指したが結局4位に終わり、バンクーバー五輪への出場はならなかった。
出典:wikipedia
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