晴嵐(せいらん)は、日本海軍が第二次世界大戦中に開発した水上攻撃機。設計生産は愛知航空機。略符号はM6A1。伊四百型潜水艦による戦略爆撃の目的で開発された、小型軽量の急降下爆撃が可能な潜水艦搭載用の水上攻撃機(海軍での分類は特殊攻撃機)。昭和18年(1943年)11月に初号機完成。だが1944年9月でも実験飛行の段階だった。第六三一海軍航空隊(1944年12月15日編成)で運用された。晴嵐は伊四百型潜水艦(のちに伊十三型潜水艦をも加える)を母艦として、浮上した潜水艦からカタパルトで射出され、戦略的な目的での攻撃に使用されるために計画された特殊攻撃機。最大速度時速474km(フロート投棄時560km)、単発、複座、双フロート装備。「潜水空母」伊四百型潜水艦に搭載するため、愛知航空機において母艦と同時期に開発に着手され、昭和18年11月に試作第一号機が完成した。92式改3航空魚雷による雷撃、または250キロ爆弾(4個まで搭載可能)、または800キロ爆弾による水平および急降下爆撃が可能であった。実戦における攻撃時には、エンジン出力の関係から大型爆弾の場合はフロートを装着しない仕様になっており、攻撃後は艦近くの海面に着水、又は搭乗員を落下傘降下させ乗員のみを収容する予定だった。この場合の機体の回収は無論不可能である。一方、潜水艦には予備魚雷と予備爆弾が装備され、状態によって再出撃も可能であった。ただし、唯一にして最後の出撃時は特攻が予定されていた(後述)。晴嵐は伊四百型の飛行機格納筒に納めるため、主翼はピン1本外すと前縁を下に90度回転して後方に(鳥が歩行時に羽を胴につけているイメージ)・水平尾翼は下方に、垂直尾翼上端は右横に折りたためる。フロートは取り外されているが、機体近くに置かれており短時間で装着できるようになっている。また、暖機のかわりに、加温した潤滑油・冷却水を注入できるなどの工夫で、作業開始後約3分以内で発進可能と言われている。伊四百型は晴嵐を3機搭載でき、潜水艦搭載時には既に雷装、爆装していた。3分で発艦可能と言っても、実際には搭乗員・整備士の技量による。搭乗員の淺村敦によると、最初のうちは3機発進完了まで20分以上かかっていたが、最終的には十数分に縮められたとの事。特に母艦自体が上下に動振しているため発艦のタイミングが難しく(艦首が下を向いている時に発艦すると、機体が海面に突っ込む事となる)、射出指揮官が慎重に判断した。このように発艦には危険が伴ったので、搭乗員には1回の発艦訓練につき6円の危険手当が加算された。当時の大卒の初任給は60円である。潜水艦搭載のための折りたたみ構造と高性能を両立させ、またその任務により世界中で(極端な話、北極や南極でも)使用を可能にするためジャイロスコープを装備するなど、非常に『凝った』造りの機体であった上に製造数も少なかったため一機あたりのコストも高く、零戦50機分に相当すると言われた。晴嵐の機体にフロートではなく車輪式の降着装置を付けて陸上攻撃機化した機体もあり、これを「南山」または「晴嵐改」 (M6A1-K) という名称で呼んでいた。南山は高速性能に優れるかわり、滑走距離が長かったという。1944年10月、南山は高橋の操縦により魚雷発射実験に成功した。これにより高橋は、晴嵐が雷撃に向いた航空機であると確信したという。晴嵐及び南山は合わせて28機が製造された。計画段階では36機以上生産予定だったが訓練用の機体すら確保できず、空技廠から零式小型水上偵察機2機を借りて第631空隊員の訓練をおこなった。搭乗員からは「オモチャみたいな飛行機で訓練するのか」と不満が出た。そこで第634空から瑞雲を借りて訓練を行った。晴嵐と南山は1945年(昭和20年)7月に作製された「海軍現用機性能要目表」においてそれぞれ「試製晴嵐」「試製晴嵐改」の名称が記されており、いずれも制式採用になってはいなかったとする説もある。第631空で晴嵐テストパイロットを勤めた高橋は、1944年(昭和19年)11月24日に領収(受領)飛行を行い制式採用されたと述べている。(事実、終戦後の第六三一海軍航空隊の武器引渡し目録には、「晴嵐一一型」8機、そのうち3機破損と記載されており、少なくとも実施部隊たる六三一空に於いては、「晴嵐一一型」として正式採用されていたと、認識されていた事になる。)晴嵐は伊号第四百潜水艦(定数3機)、伊号第四百一潜水艦(定数3機)、伊号第十三潜水艦(定数2機)、伊号第十四潜水艦(定数2機)を中核とする第一潜水隊(有泉龍之助大佐)に配備された。有泉大佐は第六三一海軍航空隊司令を兼ねる。潜水艦航空機運用の経験があるのは高橋少尉と鷹野末夫少尉のみで、潜水艦の艦長歴が長い有泉司令は航空戦の経験がなく、福永飛行長は航空・潜水双方の実戦経歴がなく、浅村分隊長は潜水艦経験がなく、山本分隊長は実戦経験がなく、隊の錬度には問題があった。さらに晴嵐の製造メーカーである愛知航空機製作所は、東南海地震、三河地震、B-29による空襲被害で甚大な被害を受けており、晴嵐の定数補充は困難であった。2月の時点で、第631空の戦力は晴嵐6機、瑞雲5機でしかない。1945年1月、有泉司令は魚雷によるパナマ運河攻撃の研究を命じた。4月25日、士官に対し第一潜水戦隊全艦・晴嵐10機(雷撃2、爆撃8)によるパナマ運河夜間攻撃計画が公表された。この段階では通常攻撃だったが、福永飛行長は「飛行機総特攻の時に晴嵐部隊だけ通常攻撃はありえない。全機特攻」と主張し、投下器から爆弾が落ちないよう工作を命じた。結局、全機800kg爆弾を装備した上での特別攻撃隊となった。しかし戦局の悪化によりパナマ運河攻撃は中止となり、ウルシー環礁の米軍在泊艦船攻撃に目的変更となる。6月25日、小沢治三郎海軍総司令長官は、第六艦隊第一潜水隊(先遣部隊)に以下の作戦を発令した。部隊は「神龍特別攻撃隊」と命名された。晴嵐には国際法違反を承知で米軍の星マークがつけられ、米軍機と同じ銀色に塗装されていた。伊四百搭載晴嵐1号機の高橋は「誰の入れ知恵だかわからなかったが、卑怯で情けない」と評している。7月20日、伊四百と伊四百一は舞鶴を出港し、21日大湊に入港する。7月23日午後2時、大湊を出撃し、8月17日を攻撃予定日として航海を続けた。8月14日、伊四百は伊四百一との合流地点に到達したが発見できず、15日も待機した。この時点で「神龍特別攻撃隊」は終戦を迎え、8月16日、第六艦隊司令長官から作戦中止命令が出る。「晴嵐」が特攻に出撃することはなかった。晴嵐は、エンジン始動状態、翼を折りたたんだまま無人で射出され、洋上廃棄された。伊四百では、3機をわずか10分で組み立てたという。その際に搭乗員のたっての希望により、星マークが塗りつぶされ日の丸が塗装されたとされる。戦後に愛知県の工廠にあった機体が米軍に捕獲され、スミソニアン博物館に完璧な修繕を施された状態で1機が保存されている(ちなみに、修復にあたってタミヤがスポンサーとなった)。本機は「十七試攻撃機」という陸上機なのか水上機なのかを明らかにしないという日本海軍機としては特異な名称が与えられており、部内でもM6と呼ばれ、母艦の伊四百潜水艦と共に海軍が強く秘匿すべき機種と考えていた事が窺い知れる。
出典:wikipedia
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