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源俊賢

源 俊賢(みなもと の としかた)は平安時代中期の廷臣。西宮左大臣源高明の三男。藤原公任、同斉信、同行成と並んで一条朝の四納言と呼ばれ、摂関政治の一角を担う能吏として知られた。冷泉天皇の安和2年(969年)3月、俊賢11歳の時、左大臣の高位にあった父高明が、藤原北家の陰謀と思われるが、大宰権帥に左遷され失脚する憂き目に見舞われる(安和の変)。『栄花物語』巻1には高明の11、2歳くらいになる童(子供)が大宰府について行くことを許されたと記されているが、年齢的に俊賢であったと考えられている。その後天禄3年(971年)になって高明は赦されたが、政界に復帰することは無く、天元5年(982年)に没するまで葛野に隠棲した。このような経緯があって、俊賢の昇進は、上流貴族の子弟としては遅れ気味であった。天延3年(975年)正月7日、17歳にして従五位下に初叙。貞元2年(977年)2月10日侍従、永観2年(984年)10月30日左兵衛権佐、寛和2年(986年)8月13日左近衛権少将。永延元年(987年)9月4日右少将。同月26日左少将。永延2年(988年)正月9日昇殿。同月29日に右少弁に遷り、同年10月に蔵人に補され、永祚2年(990年)8月30日右中弁に転ず。正暦3年(992年)8月28日、34歳で蔵人頭に補され、翌年(993年)正月の叙位で従四位下に昇叙、同5年(994年)9月8日右兵衛督を兼ねた。俊賢が右中弁から蔵人頭になった際、本来は頭中将から参議に遷った藤原公任の後任を選ぶ人事(頭弁として源扶義がいた)である筈なのに俊賢が選ばれたことで頭弁が2人になってしまった。その選ばれた背景には関白藤原道隆の恩遇があったとされ、『古事談』(第二)には俊賢が道隆に自己を推薦したという逸話が載せられている。彼は後々までそのことを忘れず、道隆の死と中関白家が没落した後でも、自身は道長の側近かつ義兄であるにもかかわらず、中関白家に対しても忠義を尽くした。それは長徳2年(996年)春3月4日、兄弟伊周・隆家の断罪を間近に控えて内裏を退出した中宮定子の二条北宮行啓に、本宮大夫平惟仲以外の上卿が「悉く障りを申し不参」の中で、俊賢は敢えて扈従したことに見出される。(長保元年では扈従していない)長徳元年(995年)8月28日、参議に昇進するに際し、後任の蔵人頭の人選について一条天皇の諮問を受け、藤原行成を推挙。父祖に早世され沈淪した青年期を過ごした行成は、この俊賢の進言あってこそ、一条天皇によって一挙に地下から万人垂涎の重職である蔵人頭に抜擢され、以後順調な官途を歩んだのである。行成は俊賢より13歳年下であったが、二人は後々まで相許した親友で、俊賢は行成男良経の加冠役を勤め、嫡子顕基の後妻に行成女を迎えたとされる。その後の俊賢の官暦は、長徳2年(996年)8月5日に右兵衛督を止め勘解由長官に任じ、修理大夫を経て長保3年(1001年)8月25日右中将、同10月3日治部卿となり、7日後に従三位、同5年(1003年)3月26日には正三位に昇った。寛弘元年(1004年)正月24日権中納言、同7年(1010年)12月17日、生涯の極位である正二位に、寛仁元年(1017年)3月4日、極官である権大納言にそれぞれ至る。また寛仁4年(1020年)11月29日、民部卿に遷任された。この間、長保4年(1002年)より道長女中宮彰子の権大夫を務め、のち大夫、彰子が皇太后、太皇太后へと進むに従い転任し、二十余年の間、宮大夫に在職した。寛仁の初め、三度辞表を奉り、万寿3年(1026年)10月20日、致仕を聴される。万寿4年(1027年)6月12日、病篤きによって出家し、翌日薨去。享年は父高明と同じ69であった。その子孫は醍醐源氏の主流として、子隆国、孫俊明(1044-1114)の三代に渡って大納言を出した。

出典:wikipedia

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