教興寺(きょうこうじ)は、大阪府八尾市の地名。〒581-0874、現住所表記では1丁目 - 7丁目および大字教興寺。令制国一覧 > 畿内 > 河内国 > 高安郡 > 教興寺村地名の由来は当地にある真言律宗別格本山である教興寺に因る。鎌倉時代に西大寺の叡尊が河内国と西大寺を行き来した際に東の信貴山越を通っていたといわれている。叡尊は当時荒れ果てていた教興寺の復興を行い、中興の祖となっている。この地は南北朝時代から戦国時代にかけて幾度かの合戦の舞台となっている。建武4年/延元2年(1337年)に北朝軍の総大将・細川顕氏が天王寺から八尾を経て教興寺に入り、石川郡東条へ向かっている。翌暦応元年/延元3年(1338年)に南朝方の高木遠盛が高安にあった北朝軍の陣を焼き払っており、北朝軍の陣はこの辺りにあったとされる。永禄5年(1562年)にここに陣を敷いた河内国守護畠山高政と三好義興・松永久秀の軍勢との合戦となり、教興寺や周辺に戦火がおよんでいる(教興寺の戦い)。正保郷帳の写しとされる河内国一国村高控帳では石高は黒谷村の分に含まれている。元文2年(1737年)の河内国石高帳では310石余。うち200石余が備中岡田藩支配地分、残りは幾度か支配者が変わり、寛文9年(1669年)に淀藩領となり幕末に至っている。明治以降の市町村制施行で南高安村の大字となる。昭和47年(1972年)の現住所表記施行時に黒谷地区とともに域内が整理され、大阪外環状線の東が教興寺、それより西は高安町北、高安町南に整理された。当地は高安山の麓の傾斜地に位置し、東は飛び地で大字黒谷と入り組んでおり、地域は高安山頂近くに達する。かつて低地部の耕作地は旧大字黒谷と複雑に入り組んでおり、その地域は恩智川を越えて近鉄高安駅付近まで達していた。また、府道山本黒谷線は終点が現在は教興寺2丁目であるが、東高野街道(国道170号線)との四つ辻の登記上の所在地がかつては大字黒谷で、名称の由来でもある。6丁目、7丁目辺りが旧村落地域。概ね市街地化が進んでいるが、1丁目、2丁目は生産緑地地区となっている。教興寺主要道路
出典:wikipedia
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