菅 直人(かん なおと、1946年(昭和21年)10月10日 - )は、日本の政治家、弁理士(登録番号:07558)。民進党所属の衆議院議員(12期)、民進党最高顧問。厚生大臣(第85代)、副総理、財務大臣(第13代)、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当、経済財政政策担当)、内閣総理大臣(第94代)、旧民主党代表、民主党代表(初代・第3代、第8代)、民主党政策調査会長、民主党幹事長、民主党代表代行などを歴任した。中選挙区制時代の選挙区は旧東京7区、小選挙区比例代表並立制導入後は東京18区および比例東京ブロック。1946年10月10日、岡山県出身の父・菅寿雄の勤務先、山口県宇部市に長男として生まれた。本籍地は岡山県久米郡福渡町(現在の岡山市北区建部町)。父・寿雄は宇部曹達(現セントラル硝子)に勤める技術者(後に常務)だった。母は純子。姉が一人いる。宇部市立神原小学校を経て1959年3月に宇部市立琴芝小学校卒業。1962年3月、宇部市立神原中学校卒業。同年4月山口県立宇部高等学校へ進学。少年時代は、勉強はできるが運動神経は鈍かった。幕末の志士・高杉晋作に憧れていた。この頃は父と同じ東京工業大学に進み、サラリーマン技術者になろうと考えていた。 1963年、高校2年生の夏、父の転勤に伴い菅一家は東京都三鷹市に引っ越し、東京都立小山台高等学校2年に編入。父は再度の転勤で三重県に引っ越すが菅は姉と東京に残る。その後、津田塾大学に入学していた従姉の伸子が菅家で下宿を始める。1965年3月、卒業。同年、東京工業大学理学部応用物理学科(現・物理学科)に入学。在学中は学生運動にのめり込んだ。東工大の同級生によれば、大学の自治会に入り込んでいた中核派に対して菅は「“イデオロギーでは何もかわらない。現実的な対応をしなければ”」と批判し、15人ほどの組織「全学改革推進会議」を立ち上げて極左系とは違う学生運動を行った。この全学改革推進会議は先鋭化していく全共闘や共産党の支配下にある民青からは一線を画し、さらに大学寄りの体制側グループでもない第4のグループであった。この集団は200人ほどの組織になったともいわれる。大学紛争の影響で卒業研究が出来なかったため、紛争が収まった後できちんとやりたいとの自身の意向により一年留年。1970年3月、東京工業大学理学部応用物理学科を卒業。結婚については菅伸子を参照。卒業後は弁理士を目指し、小田島特許事務所に就職。1971年、弁理士試験に合格。弁理士を志望したのは、技術者であった父から、会社内での技術者の不遇を聞かされており、本屋で見つけた弁理士の本で関心を持ち、有名企業に就職しても「自分の将来・先が見える等」の理由からだった。また、「社会運動に関わりたい、そのためにはあまり拘束されない自営できる道を確保したい」というのが最大の理由だった。1974年に独立して「菅特許事務所」を開設する。その後弁護士となっていた大学の後輩とともに菅・高橋特許法律事務所を設立した。1971年、東京の地価の高さに疑問を抱き一橋大学生の協力を得て土地問題のシンポジウムを開催。翌年の春に開いた「宅地並み課税推進討論集会」のゲストに市川房枝、青島幸男、青木茂、都留重人を招く。この集会から「よりよい住まいを求める市民の会」が生まれ、日常的な市民運動に発展。同時に「恐怖の化学物質を追放するグループ」を結成し、人体に有害な合成洗剤や食品添加物に反対する運動を行った。1973年、市川や青木が代表幹事を務める「理想選挙推進市民の会」から誘われて東京都議会議員選挙を手伝い、その後菅らのグループは市民運動の成果を政治に反映させたいと考え、1971年の参議院選挙で落選し引退を宣言していた市川に1974年の参院選全国区への立候補を依頼。市川は度重なる要請にも応じなかったが、菅らは「市川房枝を勝手に推薦する会」を結成。根負けした市川が立候補を決めたことを受けてグループは「市川房枝さんを推薦する会」を結成し、菅が選挙事務長に就任した。20日間余りの選挙運動で人員の手配や事務管理などを切り盛りした菅は「庶務課長」と呼ばれ、市川は2位当選した。市川が1981年に死去した際、菅は「政治家としての発言力、信頼性は恐らくナンバーワンで、なにより存在そのものに意味がありました」「私は何ものにも替えがたい貴重な薫陶を受けたと感謝しています」といった言葉を寄せている。作家の有吉佐和子は自身が市川を応援していた時の模様を小説『複合汚染』に記す中で、菅が立候補を渋る市川の代わりに有吉を候補者にしようと話していたと聞き、菅らに好かれたら作家生命が危うくなると考えて必要以上に怖い顔をし続けたとしている。菅は参院選で市川を支援した「あきらめないで参加民主主義をめざす市民の会」の支持を得て、1976年の第34回衆院選に旧東京7区から無所属で立候補するが、12月5日に次点で落選。この選挙で市川は「菅に自力で闘いなさいと言っていたが、菅は選挙で私の名前をいたる所で使い、私の選挙名簿を利用してカンパや選挙運動への協力を要請強要していたらしく、私が主張し実践してきた理想選挙と大分異なっていた」と著書に記している。一方で菅の選挙運動を支援してきた伊藤雄一郎は、菅は力のある人に頼ろうとすることは絶対にしなかったと述べている。当時菅の選挙を手伝っていたジャーナリストの下村健一(元TBSアナウンサー)によると、「初当選から十年で自民党に対抗しうる勢力をつくり、その後十年で天下をとる」話を聞かされていたという。また当時学生だった久和ひとみも菅の事務所に出入りしており、選挙の際はウグイス隊長を務めた。また、歌人の俵万智も久和の下でウグイス嬢を務めていた。1977年、江田三郎の要請を受けて社会市民連合に参加したが、市川房枝から反対され「参加民主主義をめざす市民の会」から退会した。社会市民連合では江田とともに代表に就任し、1977年の第11回参院選に東京都選挙区から出馬したが7月10日、落選。翌1978年、田英夫らが合流した社市連は社会民主連合となり、菅は副代表に就任。1978年度版の平凡社百科年鑑に市民運動家として掲載された。1979年の第35回衆院選では東京7区(当時)から社民連公認で出馬したが10月7日に次々点で落選した。この頃は経済的に苦しく、弁理士業務の傍ら補習塾を開いていた。衆参ダブル選挙となった1980年の第36回衆院選では6月22日、前回を9万近く上回る票を獲得し1位で初当選。当時の朝日新聞社の石川真澄記者は、自宅が菅の選挙区の近くだったこともあり、裏方の手伝いをし、当選後も自宅に菅が来ることがあった。些細な雑談の折に、石川記者は「甘いマスクで上手に隠しているが、頭のいい勉強家」であると感じている。マスコミは「政治家の秘書や二世、官僚ではなく、労組や宗教団体の支援も持たない、いわば『顔のない男』が激戦区を勝ち抜いた」「市民選挙の有効性を実証」と書き立てた。土地問題や税制などを中心に、政府を鋭く追及する市民派の論客として知られるようになっていった。1981年には丸山ワクチンの不認可問題を追及し、後の薬害エイズ事件につながる官僚との対立姿勢を見せた。1983年12月18日、第37回衆議院議員総選挙で当選(2期目)。 1985年、社会民主連合副書記長兼政策委員長に就任。 1986年7月6日、第38回衆議院議員総選挙で当選(3期目)。この総選挙で社会民主連合は4議席を獲得したが、選挙直後に2人ずつ日本社会党会派と民社党会派に分かれて所属することになり(その結果民社党会派が日本共産党会派を数で上回り、議会内ポストを共産党会派に渡すことを阻止した)、菅は社会党会派に属した。この形式は、1990年の総選挙まで続いた。1990年2月18日、第39回衆議院議員総選挙で当選(4期目)。1992年6月13日、PKO国会において、衆議院本会議で中西啓介議院運営委員長の解任決議案に賛成の討論を行ったが、制限時間を過ぎても演説を続け、衛視に壇上から押し出され降壇させられるなどPKO協力法の成立に激しく抵抗した。1993年7月18日、第40回衆議院議員総選挙で当選(5期目)。1993年に成立した細川非自民連立政権では、衆議院外務委員長に就任した。1994年の社会民主連合が解散。その後は新党さきがけに入党。村山自社さ連立政権では、新党さきがけ政策調査会長として、政策調整に当たった。当時の自民党政調会長の加藤紘一とは「KKライン」と呼ばれ、この時代に「住専処理スキーム」が決定。また、さきがけ東京代表として1995年統一地方選挙や第17回参議院議員通常選挙で党勢拡大に尽力。1996年1月、村山内閣総辞職後成立した第1次橋本内閣で厚生大臣(第74代)として入閣した。薬害エイズ事件やO157の集団感染の問題、らい予防法の廃止と、厚生省所管の国務大臣として対応した。同年に著書『大臣』(岩波新書)を出版。1995年(平成7年)秋、エイズ訴訟問題の集会で妻の伸子が川田龍平と会ったことがきっかけでこの問題に関わるようになる。新党さきがけは党を挙げて取り組む方針を決め、菅は自民・社会両党にプロジェクトチーム作りを提案するが拒否される。翌1996年1月の橋本政権発足にあたり、自民党は自社さ連立政権の政策合意文として「薬害問題を教訓として再発防止に努める」を提案するが、菅は「教訓といったらもう終わってしまったことのようではないか」と反発、「責任問題を含めて真相究明に努める」と改められた。また橋本龍太郎総理大臣が行う施政方針演説に盛り込まれていた自民党案も、合意文に改めさせた。前政権の大蔵大臣に代わる重要ポストとしてさきがけが厚生大臣に送り込んだ菅は、住専問題処理の難航で第136回国会後の衆議院解散もあり得ると考え、3カ月でできることとしてエイズ訴訟の和解と公的介護保険導入の2つに絞った。1996年(平成8年)1月23日、菅は11人の専従スタッフによる薬害拡大の原因解明調査班を設置。26日、それまで厚生省が見つからないと繰り返し主張していた、1983年(昭和58年)当時のエイズ研究班による通称「郡司ファイル」が、3階にある薬務局審査課の書庫で発見された。ファイルの内容は非加熱製剤の危険性を十分認識しているものだった。2月9日に報告を受けた菅は同日夜の緊急記者会見で発表。発見から2週間かかったことについて「厚生省は建物が大きいので、担当者から大臣のところまでたどり着くのに2週間かかったようだ」とコメントした。この発見について飯島勲は、内部資料の捜索は前任の森井忠良が始めたものであり、菅は森井と官僚たちの手柄を横取りしたと主張している。一方菅は「資料がわずか3日で見つかるのはおかしい」との質問に「調査班を設置して本格的に調査を始めた。そして見つかった」と答えている。また、テリー伊藤と大蔵省(当時)匿名官僚の対談で、官僚は菅の指示について、次のように述べた。2月16日、菅は厚生省で原告や弁護団を前に「菅も官僚も誤る」「謝ってすむ問題ではありませんが、本当に心から、心からお詫びいたします」と謝罪し、頭を下げた。またある女性が持ってきた、息子の骨壷に跪いて手を合わせ、この光景にすすり泣きの声とともに拍手がわいた。菅が厚生大臣として厚生省の責任を認めたことで、真相究明を求める世論が高まった。この事件の菅の処理は、彼が対談を行っていたカレル・ヴァン・ウォルフレンらから、日本に初めて官僚の説明責任という概念を持ち込み、『アカウンタビリティ』という言葉を定着させたと評価された。2月21日に厚生省が公開した薬務局生物製剤課の資料では、1983年(昭和58年)7月4日に、危険な非加熱製剤の取り扱い中止と安全な加熱製剤の輸入を奨励しているのに対し、7月11日の資料は正反対の内容となっていた。この方針転換について、荒賀泰太薬務局長は課の方針ではないとしたが、菅は衆議院厚生委員会で「転換理由を判断できる資料はなく不可解」と答弁した。1996年8月のO157騒動の時には「大阪府内の業者が出荷したカイワレ大根が原因となった可能性は否定できない」と発表。その直後からカイワレ大根への風評被害が発生し、結果倒産・破産するカイワレ農家や業者(その大半が自営業者や零細企業であった)が続出、自殺者まで出る事態となった。しかし、その後の立入検査においては施設、従業員および周辺環境からはO157は検出されなかったため、菅は記者会見でカイワレサラダを食べることで、安全性をアピールし、沈静化を図った。一方で「O157以外の通常自然界に存在するはずの細菌も一切検出されなかったのだから、事件後消毒されたことは明白で証拠隠滅が図られた」などと主張した。その後、東京と大阪で風評被害を受けたカイワレ大根生産業者らが起こした国家賠償を求める民事裁判では、2002年には大阪地裁が判決文で「当時のO-157感染症の発生状況に照らし、これから更なる調査を重ねなければならない状況下において、かかる過渡的な情報で、かつ、それが公表されることによって対象者の利益を著しく害するおそれのある情報を、それによって被害を受けるおそれのある者に対する十分な手続的保障もないまま、厚生大臣が記者会見まで行って積極的に公表する緊急性、必要性は全く認められなかったといわざるを得ない」として、「中間報告の公表は、相当性を欠くものと認定せざるを得ない」と厚生大臣だった菅および厚生労働省公表方法の過失と風評被害を認定した。この大阪地裁での判決について、菅は、ホームページ上で「十分な科学的根拠がない」と判決が認定した疫学調査は、集団食中毒などでは極めて有効な調査方法であるとして「裁判官の判断は疑問」と反論した。しかし2004年にも大阪高裁の判決では、厚生省の公表によって「被控訴人が被る打撃や不利益に思いを至せば、その時点では、公表すべき緊急性、必要性があったものということはできない」「公表方法の選択が政策的判断であるという見地に立つとしても、その判断には逸脱があり違法である」と当時の菅大臣および厚生省の過失を認定し、国側敗訴が確定した。ほか、1996年8月、シュレッダーダストの大量不法投棄で問題になった香川県豊島(てしま)へ、厚生大臣としては初めて現地視察に入った。1996年9月28日、新党さきがけの鳩山由紀夫が旧民主党を旗揚げすると、これに菅も参加。菅は鳩山と共に代表となり旧民主党がスタートした。結党当初は衆議院議員50人、参議院議員5人の計55人が参加した。 1996年10月20日、初の小選挙区比例代表並立制での選挙となる第41回衆議院議員総選挙に東京18区より立候補し当選(6期目)1998年4月27日に新進党分党後に誕生した統一会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」と合流し新民主党を結成、党代表となる。合流当初は衆議院議員98人、参議院議員38人の136人が参加した。1998年7月12日の第18回参院選で27議席を獲得する。その結果、参議院は自民党が過半数割れとなり、橋本龍太郎首相は敗北の責任から内閣総辞職に追い込まれた。内閣総理大臣指名選挙では、自由党と日本共産党は第一回投票から菅に投票し決選投票では公明・改革クラブ・社民党・さきがけの支持もあり参議院では首相に指名されたが、衆議院の優越により衆議院の議決で指名された小渕恵三が首相となった。1998年の金融国会では、「我々の要求が受け入れられれば政府の退陣は求めない」と発言し、政策新人類と呼ばれた自民党若手議員らとともに、金融関連再生法案の策定に励み実際に丸呑みと揶揄されるほど、菅らの主張が受け入れられたが、小沢一郎らは「参院選で大勝した直後に政局にしないとは弱腰極まりない」と批判するなど、この言動に対する評価は分かれた。菅の金融問題への対応は素早く、経済学者金子勝は『朝まで生テレビ』にて菅を、政治家としては最も早く金融に着目・解決のためのスキームをまとめさせたとして、菅の功績を評価する発言をしている。1999年(平成11年)に2回行われた民主党代表選挙で、1月には再選するが松沢成文と拮抗し、9月には鳩山由紀夫に敗北した。この直後、党政策調査会長に就任した。2000年(平成12年)に党幹事長に就任。同年6月25日、第42回衆議院議員総選挙で当選(7期目)。2002年(平成14年)12月に鳩山由紀夫代表が辞任すると、岡田克也幹事長代理を代表選で破り、党代表に再び就任。次の内閣総理大臣にもあわせて就任した(社民連時代は社会党シャドーキャビネットに入閣しなかった)。政治家の年金未納問題により辞任に追い込まれる2004年5月10日まで務めた。2003年9月26日に小沢一郎が党首を務める自由党との合同を実現した(民由合併)。同年11月9日の第43回衆院選では「高速道路の原則無料化」、「小学校低学年の30人以下の学級実現」などをマニフェスト(政策綱領)に掲げ、公示前勢力を大幅に上回る177議席を獲得し、比例代表では自民党を上回った。菅代表は衆院選を迎えるに当たり、時の小泉首相に対し、自民党はマニフェストを国民の前に提示するかどうかを迫り、期限や事後チェック付きの政権公約としてのマニフェストと従来の公約との違いを自民党にも明確化するよう迫った。小泉首相は、政党統一の政権公約として期限や事後チェックなどマニフェストとしての扱いを受けることを嫌い明言を避け続けていたが、実際に2003年衆院選が行われることになると、小泉自民党を含む主要政党のほとんどがマニフェストを掲げて選挙戦を戦うこととなり、結果として菅および民主党が日本におけるマニフェスト選挙の定着に大きな役割を果たすこととなる。菅個人は、この2003年衆院選において初めて小選挙区のみで出馬し、比例上位優遇で国替えしてきた鳩山邦夫を破った(8期目)。(鳩山邦夫は比例復活)。小泉内閣の閣僚3人の国民年金未納が相次いで発覚した際、菅は街頭演説で「ふざけてますよね。“未納三兄弟”っていうんですよ」と自民党議員を批判し、年金未納問題に火を付けた(“未納三兄弟”は、1999年に発売された歌『だんご3兄弟』にちなむ)。年金未納閣僚はその後も続々と発覚した。これをチャンスと捉えて民主党次の内閣全員の国民年金納付書を公開して国民にアピールしようとしたところ、菅自身の厚生大臣時代の年金未払い記録が明らかとなった。菅は行政側のミスであると何度も主張したが、行政側がその都度強く否定し、マスコミ報道等による世論により、2004年5月10日に党代表を辞任。しかし、辞任後、社会保険庁側から間違いを認めて国民年金脱退手続きを取り消したこと、同期間に国民年金の加入者であったことを証明する書面が送付された。菅が主張したとおり国民年金の資格喪失は「行政上のミス」によるものであるにも拘らず、事後納付もできないため、未納は解消されず(未納期間2ヶ月)。政治評論家の岩見隆夫からは「菅氏の国民年金未加入問題は、本人の申し立て通り『行政上のミス』であった。当時、菅は辞めたほうがいいと書いたことは誤り、お詫びします」としつつ「自身の無年金のおかしさに気付き、対応しなかったのは、政治家としてうかつであった」といった指摘もなされた。2004年7月、菅は自己を見つめ直したいという意図から「お遍路さん」スタイルで四国八十八カ所巡りを開始した。これは都合7回に分け、2013年9月に結願した。2005年4月、法政大学大学院の客員教授に就任、「国民主権論」と題して講義を行う(2005年10月まで) 。2005年(平成17年)9月11日の第44回衆院選(小泉首相の解散による郵政選挙)では、東京都の民主党候補では僅差ながらも唯一小選挙区での勝利を果たした。なお、この郵政選挙では、長年の宿敵と言われた土屋正忠武蔵野市長(当時)が自民党公認(比例単独2位)で立候補し、事実上の一騎討ちとなった。郵政民営化・刺客選挙を展開して時流に乗る自民党に対し、民主党は党全体が大逆風を受けていたが、菅は勝利し(9期目)東京の小選挙区では唯一の当選者となる(土屋は比例復活)。同年9月17日民主党敗北を受けて党代表を辞任した岡田克也の後任を決める党代表選挙に立候補し、小沢一郎からも本命視されていたものの、投票直前の演説で若き日からの辛酸と情熱を巧みに訴えた若手の代表格前原誠司に2票差で敗れた。その後、党国会対策委員長就任を要請されたが、これを固辞し、一兵卒として前原民主党を支えると表明した。党代表戦に敗れた後は、団塊の世代を取り込むための「団塊党」なる運動や、バイオマスの活用を盛んに提唱し始めた。2006年4月7日、「堀江メール問題」による前原執行部総退陣。その後行われた代表選挙に再度立候補し、小沢一郎と激しく争い47票差で敗れた。その後、党代表代行に就任。代表に就任した小沢一郎、幹事長の鳩山由紀夫と菅の3人による挙党一致体制はトロイカ体制と呼ばれ、2009年の政権交代の原動力となった。菅は党代表代行として国会論戦について主に担当し、国会での代表質問、テレビ出演などを積極的にこなした。2009年5月に小沢一郎が西松建設事件に関連して自身の公設秘書が逮捕された件で党代表を辞任すると、後任の代表となった鳩山由紀夫により、菅は引き続き党代表代行に再任。小沢も代表代行に就任しトロイカ体制は継続された。2009年8月30日、第45回衆議院議員総選挙で当選(10期目)。2009年9月16日、鳩山由紀夫内閣発足により、副総理として入閣、あわせて内閣府特命担当大臣(経済財政政策・科学技術政策担当)および「税財政の骨格や経済運営の基本方針等について企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」(いわゆる国家戦略担当大臣)に就任した。しかし、その後国家戦略相として予算編成の「司令塔」を期待されながら、その役割を果たせていないと鳩山首相から評された。政府の新成長戦略策定の主導を果たしたが、予算編成には間に合わずに出遅れ感を際立たせることにもなった。2010年1月7日、財務大臣の藤井裕久の辞任に伴い、副総理、経済財政政策相と兼務する形で、後任の財務大臣に横滑りで就任した。国家戦略担当国務大臣及び科学技術政策担当国務大臣は退任し、国家戦略相は行政刷新相の仙谷由人が、科学技術政策相は文部科学大臣の川端達夫がそれぞれ兼務し引き継いだ。財務大臣就任以後も、政治主導脱官僚をアピールするために、財務省ではなく引き続き官邸内の副総理室にとどまり、財務官僚が官邸に通う形にした。2010年3月19日、民主党東京都連会長辞任(民主党東京都連通常総会開催まで海江田万里衆議院議員が民主党東京都連会長職務代行に就任)。鳩山内閣の支持率が低下する中、菅は各種世論調査で「次期首相にふさわしい人物」の上位に位置するなどポスト鳩山の有力候補の一人と目された。2010年(平成22年)6月2日の鳩山首相の退陣表明を受け、後継を選出する民主党代表選挙への出馬を表明。6月4日、民主党代表選挙に勝利し、同日の首班指名選挙によって第94代内閣総理大臣に指名され、6月8日に天皇に任命され、正式に内閣総理大臣に就任。菅内閣が発足する。6月8日の総理大臣官邸での記者会見の際には、「政治の役割は国民、世界の人が不幸になる要素をいかに少なくする『最小不幸社会』を作る事だ」と述べた。鳩山の後任を決める2010年6月の民主党代表選挙において菅が出馬表明すると小沢一郎の党運営に不満を持っていた枝野幸男、仙谷由人らが菅支持に回った。小沢グループは菅の対抗馬として樽床伸二を擁立した。菅は樽床に勝利し、反小沢の急先鋒ともいわれた枝野、仙谷をそれぞれ党幹事長、官房長官に起用、小沢の意向により廃止された政策調査会を復活させた。また小沢、鳩山代表時代に作成されたマニフェストの一部修正にも取りかかった。こうして政権交代の原動力とも言われたトロイカ体制は崩壊し、メディアから"脱小沢"と称される路線に傾いていくこととなる。こうした動きを世論はおおむね評価し、内閣支持率は約60%という高水準で内閣は発足した。しかし、就任してまもなく自由民主党の案を参考にして消費税増税(およびそれを財源にした法人税減税)を含む税制改革を打ちだしたため、中小企業や自営業者を切り捨てるものであるとの批判を浴び、発言が二転三転した。この影響もあってか、7月11日投開票の第22回参議院議員通常選挙で、民主党の獲得議席は現有の54議席を大きく下回る44議席にとどまった。この結果、参議院で過半数を失うねじれ状態にとなり、菅の党内における求心力は低下した。9月の党代表選に向け、菅は再選に意欲をみせるが、小沢に近い議員グループを中心に党執行部の参院選敗退の責任を問う声が強まり、小沢擁立の動きも加速した。こうした中、党の分裂を懸念した前首相の鳩山由紀夫が仲介に乗り出す。鳩山は菅に小沢の出馬見送りと引き換えに枝野幹事長、仙谷官房長官の更迭や小沢の要職での起用、トロイカ体制に輿石参院会長を加えた「トロイカ+1」体制の構築などを菅に要請し、告示直前まで調整が行われたが、菅は密室談合を懸念し両者折り合わず、最後に菅-小沢会談が行われたが、結局物別れに終わった。鳩山はこれまでの菅続投支持から一転、小沢支持を表明。これを受け小沢は告示日である9月1日に出馬表明し、代表選での菅との直接対決に突入した。この代表選において菅は金銭問題が取りざたされる小沢を意識し、クリーンでオープンな党運営や雇用政策の重視を主張し、一方の小沢は衆議院総選挙での2009マニフェストの順守、地方への紐付き補助金の一括廃止、早期の消費税率アップの反対など主張した。小沢の出馬表明当初は党内最大グループを率い、鳩山グループの支持を取り付けた小沢が国会議員票では優勢との見方もあったが、菅は世論調査で小沢を上回る支持を得たことを背景に攻勢を強め、9月14日に国会議員による投開票が行われた結果、小沢を下し再選を果たした。9月17日、菅改造内閣発足。内閣改造人事では、仙谷官房長官は留任、枝野の後任の幹事長に外相の岡田克也、岡田の後任の外相に前原誠司を充てるなど非小沢系が要職に起用され、「脱小沢」を強化したが、副大臣・政務官人事では小沢グループからも多数起用し、党内融和に一定の配慮を示したとも見られている。この代表選で再選したことにより内閣支持率は回復するが、代表選期間中に発生した尖閣諸島中国漁船衝突事件への対応が迷走したことなどにより支持率は再び低下に転じた。また衆院北海道第5区補選(2010年日本の補欠選挙)や、大型地方選(福岡市長選挙、和歌山県知事選挙、茨城県議会議員選挙)で連敗。統一地方選を翌年春に控えた民主党内の不満が高まっていった。こうした中、2011年1月14日、菅は内閣改造を行い、菅第2次改造内閣が発足。しかし、政権の低迷は続き、3月6日、前原誠司が外国籍の人物から違法献金を受けていた件で外務大臣を辞職した直後の2011年3月11日、菅自身にも外国人献金問題(後述)が持ちあがった。2011年3月11日14時46分に東北地方太平洋沖地震が発生。東日本大震災およびそれに付随するかたちで福島第一原子力発電所事故が発生すると、地震・原子力災害の対策に政府・与野党が集中し、菅内閣への退陣運動は一時的に中断し、菅は内閣総理大臣として災害対策に当たった。菅は震災発生の翌3月12日に自衛隊の派遣規模を2万人から5万人に拡大するよう指示し、3月13日には、首都直下地震への対処計画をもとに、自衛隊史上最大となる陸海空あわせて10万人規模の災害派遣を指示した。5日後の18日には10万人を超える態勢となり、最大時で約10万7千人規模の派遣となった。菅は震災の発生を機に国会のねじれを解消し、復興対策を円滑に進めるため、自民党に対し大連立を打診したが、不発に終わった。さらに2011年4月の統一地方選で与党が敗北するなど、与党・民主党内でも菅政権に対する不満が募り、小沢一郎を中心とする民主党一部勢力が「菅おろし」への動きを活発化させるようになる。2011年6月2日、菅の地震・原発災害への対応が不十分であるとして野党の自民・公明両党により内閣不信任決議案が衆議院本会議に提出・上程。小沢に近い議員を中心に野党の不信任案に同調する動きが強まり、前首相の鳩山由紀夫も同調する構えを見せ、一気に不信任決議の可決や党の分裂が懸念される事態となった。同日、菅は不信任決議投票の本会議を前に鳩山と会談し、自らの退陣を匂わせて不信任決議案に反対させる合意を取り付け、その後の民主党代議士会で「震災対応にメドをつけたら若い人に責任を引き継いでもらいたい」と語った。この発言は辞任を示唆したと報道された。これを受けて小沢グループは不信任案に同調する方針を撤回し、当日の衆議院本会議で内閣不信任決議案は否決された。実際、民主党内で不信任案に同調したのは、松木謙公と横粂勝仁にとどまった。これ以降、官房副長官の仙谷由人など閣内の一部からも早期退陣論が出るようになり、菅が退陣した上での大連立を模索する動きもあったが、菅自身は、自然エネルギー庁構想を掲げ、再生エネルギー法案を通そうと模索し、続投することに意欲をみせた。また6月15日には「再生エネルギー法案が成立するまで辞任しない」と明言し、同法案を支持するソフトバンク社長孫正義からその粘り腰を称賛された。菅のこうした動きに退陣を促した鳩山由紀夫は「ペテン師」と厳しく非難し、日刊スポーツからは菅おろしのなか「一人菅軍」と称された。しかし、与野党からの早期退陣の要求は止まず、6月27日に会見を開き、自らの退陣する条件として、「今年度第2次補正予算案の成立、自然エネルギー発電の普及のため「自然エネルギーによって発電した電気を固定価格で買い取る」という固定価格買い取り制度を定める法案の再生可能エネルギー特別措置法案の成立、特例公債法案の成立」を挙げ、これを以て「『一定のめど』に当たる」とした。7月6日に菅は「辞める、退陣するという言葉を私自身、使ったことはない」と述べた。この頃の世論調査では政権発足後最低の支持率を記録した。2011年8月26日、菅は退陣の条件としていた3法案の成立を受け、「本日をもって民主党代表を辞任し、新代表が選出された後に総理大臣の職を辞する」と辞任を表明した。「厳しい環境のもとでやるべきことはやった。一定の達成感を感じている。国民の皆さんのおかげ。私の在任期間中の活動を歴史がどう評価するかは、後世の人々の判断に委ねたい」と述べた。福島第一原子力発電所事故について「総理としての力不足、準備不足を痛感した」と振り返った。しかし、2001年から2010年にかけて、民主党北海道総支部連合会が朝鮮総連傘下の「金剛山歌劇団」に「歓迎 金剛山歌劇団」広告を毎年50万円を税金が原資の政党交付金が使われていたのが産経新聞の調査で発覚した。さらに6250万円を北朝鮮関係団体に献金していた菅直人総理大臣は2011年6月15日に約2年間休眠していた「日朝国交正常化推進議員連盟」の会合を再開させたが副会長の一人は菅側近で竹島の領有権放棄を日本に求める「日韓共同宣言」なるものに署名した土肥隆一衆院議員であった。同年7月21日には中井洽元拉致問題担当相が極秘に中国の長春で北朝鮮の宋日昊朝日国交正常化担当大使と日朝国交のために会談した。菅直人総理大臣は同年8月29日、2010年11月に起こった延坪島砲撃事件を受けて凍結していた朝鮮学校に対する高校授業料無償化適用審査手続きの再開を高木義明文部科学大臣と文部科学省に置き土産として最後に総理大臣として指示した。同年8月29日に行われた民主党代表選では、後任の総理大臣には菅の下で財務大臣を務めた野田佳彦が選出された。その日のブログで「再生可能エネルギー促進はライフワーク」とし、植物のエネルギー利用を図るため「『植物党』を作りたい」と記している。9月2日の野田内閣発足に伴い、正式に内閣総理大臣を辞職。総理大臣退任後の2011年9月、首相経験者として鳩山由紀夫とともに民主党最高顧問に就任。11月には、自身の支持グループである国のかたち研究会の会長に復帰した。2012年3月には私的な勉強会である「自然エネルギー研究会」、民主党の議員連盟である「脱原発・ロードマップを考える会」を相次いで立ち上げ、2012年6月には「脱原発ロードマップを考える会」において2025年度までに原子力発電所の稼働をゼロにし、それまでの間は新しい原子力規制組織の審査を前提に、原発の再稼働を認めるとの提言をまとめたまた、この年に国連のミレニアム開発目標(MDGs)後の国際開発目標であるポスト2015年開発目標に関するハイレベルパネルのパネルメンバーとして参加している。2012年12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙では、民主党への大逆風が吹くばかりか、乗車していた選挙カーが事故を起こし、自身が負傷するなど辛酸を舐めた。小選挙区で自民党の土屋正忠に敗れたものの、民主党が獲得した比例東京ブロック3議席の最後の1議席に辛くも滑り込み、復活当選した(11期目)。なおこの時、菅内閣不信任案に賛成し、民主党を離党した無所属の横粂勝仁が、菅直人に対抗するため神奈川11区から鞍替えしたが、落選した。2013年7月21日に行われた第23回参議院議員通常選挙で民主党は公示2日前に東京都選挙区での候補者を鈴木寛に一本化することになったが、これに対して菅は公認を外されて無所属で出馬することになった大河原雅子の応援を行ったため、党東京都連は「反党行為に当たる」として処分を党執行部に求め、党役員会は処分を検討することとなった。当初、海江田万里代表と細野豪志幹事長は離党勧告を主眼に置いた厳しい処分で臨む方針であり、海江田代表は菅に自主的な離党を迫ったが、菅から拒否された上に、党内からは「厳し過ぎる」との批判が高まり、処分内容が軽減されることとなった。2013年8月20日、菅への処分は党員資格停止(3ヵ月)に決定し、同時に党最高顧問を解任された。2014年4月には、トルコとアラブ首長国連邦への原発輸出を可能とする原子力協定承認案の衆院本会議での採決を巡って民主党執行部の協定賛成の方針に反し、辻元清美ら党内の脱原発派の議員8人とともに欠席、棄権した。民主党はこの行動により大畠章宏幹事長名で菅を「注意」とする処分を決定した。菅の脱原発を巡るこれら一連の行動に、民主党の支援団体の一つで原子力推進の立場をとる電力総連などは激しく反発しているとされる。2014年12月14日に行われた第47回衆議院議員総選挙では、再び自民党の土屋正忠に小選挙区で敗れたものの、前回と同様に比例東京ブロックで最後の1議席を獲得し、復活当選した(12期目)。2016年4月30日に東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故後、脱原子力と再生エネルギーの普及を訴えたとして評価となり、ドイツのフランクフルト市から脱原発勇敢賞を受賞した。自身の目指す政治路線として、「自由主義と社会民主主義を統合・融合した第三の道」にたびたび言及している。総理大臣就任前から諫早湾干拓事業を自然環境保全や公共事業削減の観点で批判しており、政権を取る前にも市民運動家やTVカメラを伴って水門を訪れて水門をただちに開けるように要求するなどの行動を行っていた。2010年12月15日、2010年12月、福岡高裁で諫早湾干拓事業についての上告審で、国側の敗訴となる5年間の水門開放命令がでると内閣総理大臣に就任していた菅は、福岡高等裁判所の判決について上告を断念すると表明した。当時の諫早市長や雲仙市長、長崎県知事は地元に何の相談もなく、今まで国策として勧められた干拓事業の大きな見直しを発表されたとして、強く反発し、仙谷由人官房長官(当時)や鹿野道彦農水相(当時)が菅を説得しようとしたが菅は持論を変えようとしなかった。水門の開放が決まったことで、300億円を超える追加事業が必要となった。門開放によって広範囲の塩害・水害が想定されることが危惧される一方、適切な対策をとれば大きな悪影響は出ないとする見方もある。また、2013年には長崎地裁で、開門によって多くの農業関係者だけでなく水産資源回復を望む漁業関係者まで生活基盤が危機に晒されるとして、開門差し止めの仮処分判決が出た。これによって農水省は2つの矛盾した判決の板ばさみに苦悩することとなった。2016年現在、開門しなければ漁協側に日額90万円、開門すれば営農側に日額49万円の間接強制の制裁金を支払う必要がある状態になっており、漁民1人あたり毎年720万円が支払われている。評価については以下のように毀誉褒貶が著しく、特に首相時代に対して多い。産経新聞は、非常に短気な性格から「イラ菅」と呼ばれている、と報じた。朝日新聞の北沢卓也は、すぐに爆発する「イラ菅」から、じっと黙って我慢する「ダマ菅」に変身した、と報じた。2009年1月13日の衆議院予算委員会において当時の自民党国会対策副委員長の村田吉隆が許可なくカメラ撮影していたのを発見し、即座に詰め寄って抗議をするなどしている。村田のカメラは衛藤征士郎予算委員長が没収した。産経新聞は、首相就任後の2010年6月11日、取材の記者団から、「所信表明演説について、具体性がないと言う批判があるが?」と質問され、一変した険しい表情で「何の批判か?」「何故批判が出ているのか?」などと、逆に記者を問い詰めた、と報じた。村山富市以来の、政治家一族出身ではない「非世襲」の首相とされるが、祖父である菅實は地元の議員を務めていた。「たたき上げ政治家として、世襲の『お坊ちゃま首相』とは違う、たくましさを見せてほしい」(中堅)と期待する声がある。仙谷由人は菅を「地盤(後援組織)、看板(知名度)、カバン(資金)なく、まったく無名の青年が言葉と政局観、政治観で、ここまでこられた」と評している。「合法的に特許業務可能な職業経験者たる日本国総理大臣」は菅以外では弁護士経験者の初代日本社会党委員長片山哲と初代自民党総裁鳩山一郎のみである。早野透によれば、政治家としての変わり身の早さや巧みな政界遊泳術を持つ「バルカン政治家」(欧州の火薬庫といわれ駆け引きにあけくれたバルカン半島にちなむ)「バル菅」とも称された。好きな偉人に高杉晋作を挙げて「高杉を一番好きな理由は、逃げ足が速いことなんだ。当時の長州は勤王派がとったり、佐幕派がとったりしたでしょ。代わるたびに腹を切らなきゃいけないんじゃね。潔く腹を切るのは、一見いいけれども、それはあきらめだ。」と語ってもいる。夫人の伸子は「することはきっちりやってくれる人。いざという時に頼りになる人」と評している。古くからの友人によると、菅は「もうだめだ」「嫌だ」といった否定の言葉を嫌い、他人の意見が気に入らないなら自分はどう考えるのか建設的に話せと言うのが口癖だという。言動については「言った・言わないのトラブルが多い」と伝えられ、震災や原発事故の対応についても毎日新聞の岩見隆夫は「不都合な発言ならなかったことにしていい、とでも考えているのか」と批判したり、産経新聞の阿比留瑠比は「歩く風評被害」と揶揄し「『思いつき』だけの軽はずみな発言を続ける」などの批判がある(#東日本大震災も参照)。これら発言は菅語とも呼ばれ、真意が国民に伝わっていないと指摘されている。広報担当の内閣審議官下村健一は「何を言うかではなく何をやるか」が菅の持論であり、国民への説明を求めているがなかなか変わらないと述べている。またポピュリズムとの批判は激しく外れているとし、自身の年金未納問題について役所のミスであると説明したものの失脚に追い込まれた経験が、菅が世論に無頓着である原因であると述べている。自身の政治哲学である「最小不幸社会」について「恋愛とか、あるいは自分の好きな絵を描くとか、そういうところにはあまり政治が関与すべきではなくて、逆に貧困、あるいは戦争、そういったことを無くすことにこそ政治が力を尽くすべきだ」と述べている。また、「最小不幸社会」は高校時代に読んだオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』の影響を受けたものであると語っている。日本国政府の初動対応について、当時経済産業大臣だった海江田万里は「原子力緊急事態宣言」の発令を求めたが、菅の了解を得るのに手間取ったと証言、これにより政府の初動対応が遅れたと証言している。これに対し菅は「もっと早ければという指摘は受け止めるが、首相官邸の対策室はすでに動いており結果的に支障はなかった」と釈明した。3月12日午前3時、東京電力からの、福島第一原子力発電所1号機の格納容器の破裂を避けるために、原子炉炉心から大気中への排気を行い、原子炉格納容器の内部圧力を下げるベント作業の実施の依頼に対して、官邸は東京電力に、許可を出した。そして、現地の状況が十分に把握できないことから、菅直人首相自身が、ベント実施に並行して事故現場の福島第一原発を視察することを決定し、同日7時11分、菅が事故現場にカメラマンらとともに到着した。しかし、操作マニュアルの不備や、高濃度の放射線に現場が汚染されたこと、また東電から官邸への情報通達が行われないなどの情報錯そうもありベントの作業は難航しており、菅の到着した時間になっても未だベント操作が行われていなかったため、到着した菅は当時福島第一原子力発電所所長であった吉田昌郎に直接説明を求めた。結局ベントは同日14時30分にようやく実施された。当時の野党は、菅が震災翌日に福島原発を視察する「政治的パフォーマンス」を行ったことで事故対応の初動に遅れが生じたと批判していた。官房長官だった枝野幸男はこの視察に関し「首相を守る観点からは体を張ってでも止めるべきだったが、事故をいかに小さく、早く収束させるかという観点からは間違っていなかった」と擁護し、後日行われた事故調査・検証委員会による聴取では吉田は菅の視察による作業への影響は全くなかったと答えている。菅は総理辞任後にNHKが行ったインタビューの中で、原発事故の初動対応でベントが遅れた理由として、「一つは技術的に放射線量が高いとか、暗いとか、いろいろな資材が足りないとかで作業ができなかったことは十分あり得る。もう一つは、当時東京電力の最高責任者の2人が事故が発生した11日の段階で本店におらず、そういうことが影響したのかもしれない」と述べている。事故から4日後の3月15日早朝、東京電力本社に乗り込み、政府・東電の統合対策本部の設置を宣言して、東京電力の幹部たちを叱咤した。なお、当時官房長官を務めた枝野幸男や経産相の海江田万里など当時の政府関係者は、この行動は東電の清水正孝社長(当時)から「作業員を同原発から全面撤退させたい」との意向が官房長官や経産相を通して伝えられたことを受けたものであると証言しているが、東電側は一部の作業員の撤退と説明しており両者の説明が食い違っている。また、菅はこのとき「被害が甚大だ。このままでは日本国滅亡だ」「撤退したら東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ」「60になる幹部連中は現地に行って死んだっていいんだ。俺も行く」などの発言をしている。3月25日、菅は内閣府原子力委員長近藤駿介に「最悪シナリオ」作成を指示した。作成された内容は、半径170km以内で強制移住、東京都の大部分を含む半径250km以内で避難が必要となる可能性があることを指摘した内容で、過度な混乱を避けるため2012年2月まで公表されなかった。近藤は「最悪事態を想定したことで、冷却機能の多重化などの対策につながったと聞いている」と話している。菅は事故対応をめぐり、東京電力や原子力安全・保安院、原子力安全委員会へ強い不信感を募らせ、「セカンドオピニオンも重要」として内閣官房参与を次々に増員し、依存を強めていったといわれている。他方、組織が乱立したことによる混乱も見られた。内閣官房参与の小佐古敏荘が辞任した問題では、菅が小佐古と面識がなく任命に際して事前の面談が行われなかったことが発覚、慰留が細野豪志補佐官に丸投げされていたことが批判された。2011年4月11日、東日本大震災に対する義捐への感謝広告を菅直人首相名義で、米国、英国、韓国、中国、ロシア、フランスの6カ国7紙の新聞に掲載した。最大規模の支援を行った台湾(中華民国)については外交関係が無いことから掲載を行わなかったが、実質的な在台湾の日本大使館として機能している財団法人交流協会を通じて馬英九総統、呉敦義行政院長、楊進添・外交部長に対し感謝状を送った。当初、広告は予算の関係で上記6カ国7紙にとどまっていたが、無料で受け入れる新聞が増加したことにより31カ国・地域の105紙に掲載された。更に交流協会は、震災から1周年となる2012年3月11日に合わせて1週間に渡り、台湾の全土を対象とするテレビCMや特別番組、新聞広告などを展開した。他の国における日本大使館は、このようなことを行っていない。2011年6月3日には自民党の森まさこが緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムSPEEDI(スピーディ)の存在と意義を十分に知りながら、原発事故のベント作業が行われたときに公表の遅れが周辺住民を被曝の危険にさらしたと指摘。菅は「予測図は私や官房長官には伝達されなかった」「情報が正確に伝わらなかったことに責任を感じている。責任者として大変申し訳ない」と陳謝した。福島第一原子力発電所事故を受け、菅は国のエネルギー政策の見直しに乗り出した。5月6日、菅は中部電力浜岡原子力発電所に対して「(東海地震への)安全確保がなされるまで原子炉運転を停止するよう」指示を出した。5月10日には記者会見の中で原発の増設が謳われた従来のエネルギー基本計画を白紙に戻すと宣言し、5月26日、27日に行われた第37回主要国首脳会議(ドーヴィル・サミット)の中では原発の安全性を高めた上での利用と同時に自然エネルギーの割合を「2020年代のできるだけ早い時期に、少なくとも20%を超えるレベルまで」拡大していくと表明した。2011年7月13日に「原発に依存しない社会を目指すべき」と表明し、「原発がない社会=脱原発」と受け取られ、脱原発・反原発を支持する市民の一部からは称賛の声もあがったが、マスコミや経済界からは「具体策がない」と批判された。翌日の予算委員会において、野党から追及を受けると、「個人的な思いを言っただけだ」と一旦トーンダウンしたが、その後8月6日に広島市で行われた記者会見の中で「脱原発依存」は、政府の方針となっているとの認識を示した。2012年2月27日に発表された民間の事故調報告(福島原発事故独立検証委員会)では、東京電力本店に乗り込んだ件などの言動は東京電力側に「覚悟を迫った」と評価したうえで、事故対応の局面で怒鳴るなど菅の個性が「混乱や摩擦の原因ともなった」「関係者を萎縮させるなど心理的抑制効果という負の面があった」「無用な混乱やストレスにより状況を悪化させるリスクを高めた。場当たり的で泥縄的な危機管理」「菅の決定や要請がベントの早期実現に役立ったと認められる点はなかった」「官邸の中断要請に従っていれば作業が遅延した可能性がある危険な状況だった」(ただし、中止の指示を最終的に直接出したのは総理大臣の菅ではなく、官邸へ派遣された東京電力フェローの武黒一郎によるものだったと武黒本人が認めている)。、「会議で海水注入による再臨界の可能性を菅が強い調子で問いただし再検討を指示していた」と指摘した。同委員会の北沢宏一委員長は、菅の事故対応について「情報の出し方を失敗し、国民の評価を失った。全体としては不合格」と指摘した。国際原子力機関は日本政府の原発事故後の対応を模範的なものであった評価している。一方で、原発事故の未然対策については不十分であり、日本の原発管理はその構造から見直すべきであるとした。当時、政府内で事故対応にあたった閣僚からは「あれぐらいわがままで勝手で強引でという人間でなかったら、たぶん政府の機能が止まっていたのではないか」(枝野幸男)、「菅首相以外の首相があそこで判断を迫られた場合、判断できた人が誰なのか、私は分からない」(細野豪志)など当時の菅の対応を支持する声もある。当時首相補佐官を務めた辻元清美は、菅が理念重視のあまり気が回らず、妥協、利害調整ができなかったと指摘する一方で「浜岡原発停止要請」や「脱原発表明」は菅自身が考え抜き決断したとも語っている。当時菅内閣の防衛大臣であった北澤俊美は東電の「全面撤退」を菅が拒否したとして「戦後最大の危機に対処できたのは菅首相のリーダーシップがあったればこそだ」と評価する一方、住民避難のため緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)の活用を「強く進言したが採用されなかった」と記し「首相が孤軍奮闘する場面が多く、閣僚、官僚を信じ、任せて一丸となる仕組みやムードを作れなかった」と苦言も呈した。"読売新聞系列"朝日新聞系列"日経新聞系列"毎日新聞系列"産経新聞系列"国外メディア"2011年3月11日、資金管理団体が、2006年と2009年に、金融機関の元理事で、現在、横浜市内で不動産業や飲食店などを営む複数の会社で代表取締役を務め、町田市などでパチンコ店を3店舗経営し年商が約50億円にのぼる河本善鎬という通名の日本人名を持つ在日韓国人から計104万円の献金を受け取っていたことが朝日新聞の取材で発覚した。在日韓国人系金融機関は、旧横浜商銀信用組合(現横浜中央信用組合)。献金を行った元理事は在日韓国人で、外国人からの献金を禁じた政治資金規制法違反にあたる。なお献金を受け取った2006年は民主党代表代行、2009年は政権交代後、副総理兼国家戦略担当大臣だった時期にあたる。菅本人は献金の受け取りを認めたものの、元理事が外国人だということは知らなかったと主張した。これを受けて、自民党、公明党、みんなの党からは菅の首相退陣を求める声が上がった。同日に発生した東北地方太平洋沖地震によってこの件の追及は中断した。同年4月8日、菅の資金管理団体「草志会」はこの男性が韓国籍であると確認した上で、受け取った献金104万円を在日韓国人男性に3月14日に返却していたことが分かった。週刊文春は新聞で報じられた3月11日に「落ち着いたら何でもしますから、とにかく逃げて下さい」、3月12日に「過去も現在も未来も会ったことはなかったことにしてほしい」と2度に渡り菅本人が直接在日韓国人男性の携帯に電話連絡をしていたと報じている。また、5月には、神奈川県の住民らが菅に対する告発状を東京地検に提出したが、東京地検特捜部は2011年10月、菅が外国人であるとの事情を知って献金を貰った証拠が無いとして不起訴とした。その後、告発していた神奈川県の住民らが、東京地検特捜部の不起訴処分を不服として、検察審査会に審査を申し立てしたが、東京第3検察審査会は審査の結果、不起訴相当と議決した。2011年7月には、北朝鮮による日本人拉致問題関連団体への献金問題が発覚した。2011年4月の第17回統一地方選挙三鷹市議選挙に、よど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が菅の地盤である三鷹の市議会議員選挙に立候補した。この森が所属する政治団体「市民の党」から派生した政治団体「政権交代をめざす市民の会」(神奈川、奈良握代表)に菅の資金管理団体「草志会」が2007年に5000万円、2008年に1000万円、2009年に250万円の、計6250万円の政治献金を行っていたことが2011年7月に政治資金収支報告書から明らかになった。市民の党代表の酒井は、菅が初当選した選挙を手伝い、民主党議員約100人の選挙応援も行った間柄で、酒井も「菅とは30年ぐらい前からの付き合い」と述べた。2011年7月6日の衆議院予算委員会での石原伸晃への答弁で菅は政治献金は事実と認め、7月7日の衆議院予算委員会で礒崎陽輔自民党議員が6250万円を与える意味は何なのかとの質問には「私の判断で寄付をした」「党の活動の連携支援のためだった。政治的にいろいろな意味でプラスになると考えた」と答弁したが詳細は明らかにせず、返金要請については「返金を求めるつもりはない」と否定した。さらに政権交代をめざす市民の会に対し5000万円を提供した2007年、民主党から草志会に計1億2300万円の献金があり民主党が事実上市民の党などを支えていたことが発覚。さらに菅が自社さ与党訪朝団の一員として1995年3月に平壌を訪問した際、当時、対日工作を仕切っていた北朝鮮の金容淳朝鮮労働党国際部長(朝鮮アジア太平洋平和委員会委員長)から、菅や鳩山由紀夫が贈り物を受け取っている写真も見つかっており、この件については、自民党も弁護士や会計士、元警察官僚などを中心とする菅首相拉致関係献金疑惑追及プロジェクトチームを立ち上げ調査を始めており、7月29日には、平沼赳夫が会長を務める超党派の「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟」がこの献金問題を解明する調査特別委員会を設置することを決め、調査には東祥三拉致担当副大臣や拉致被害者の支援団体も協力すると明言、産経新聞はアメリカ情報機関や公安当局も献金先の団体に関心を寄せていると報じた。2011年7月17日の産経新聞は、市民の党機関紙「新生」に菅が30年前から寄稿したりインタビューに応じていたことが分かったと報じられ、菅が1983年の衆院選を前に「市民派の象徴というべき人物」と自身を紹介したインタビューにおいて軍縮に絡み「レーガン米大統領とアンドロポフソ連書記長をスペースシャトルに乗せて青い地球を見せる」と述べており、1984年1月の紙面には「市民政治の芽を太い幹に」との見出しで「労働運動と市民運動が両輪となるような運動のあり方をぜひ追求したいと思う」といったメッセージを寄せていた。またこの新聞はよど号ハイジャック犯の元リーダー田宮高麿の著書「わが思想の革命」の書評に大きく紙面を割き、「チョソン(北朝鮮)に来てから、これまでの18年間は自己を革命化する日々だった」という田宮が北朝鮮から送ったメッセージを1988年4月に掲載しており、産経新聞は「市民の党側が、菅や拉致容疑者側と長年近い関係だったことが伺える」と報じた。この件に関して北朝鮮による拉致被害者家族連絡会のメンバーからも激しい批難をうけた。2011年7月21日の参院予算委
出典:wikipedia
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