鈴木 宗男(すずき むねお、1948年〈昭和23年〉1月31日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(8期、懲役刑確定に伴い2010年〈平成22年〉9月15日に失職)、新党大地代表。衆議院議員の鈴木貴子は長女。かつては北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官などを歴任。地方や弱者を軽視する新自由主義経済政策を強く批判し、ニューディール政策的な公共事業発注により地方経済を回す政策を重視する。又、北海道の自立、アイヌ民族の権利の確立、雇用の確保、北方領土問題の解決等を訴えている。鈴木宗男事件において最高裁に上告していたが、2010年9月7日付で上告が棄却され、異議申し立ても9月15日付で退けられたため実刑が確定し、議員資格を失いちょうど1年間収監された(詳細は鈴木宗男事件)。十勝支庁足寄町大誉地出身で保守系がひしめいていた旧北海道5区選出の衆議院議員であった、中川一郎の秘書を務める。立会演説会では中川の代理で登壇するほどに中川から信頼を寄せられ、「中川の金庫番」とも言われた。1983年に中川が死去すると、第37回衆議院議員総選挙で中川が生前に立候補していた中選挙区時代の北海道5区(定数5)から、自民党の公認を得られず保守系無所属で出馬。中川の長男である昭一と骨肉の争いを演じ、激戦の末共に初当選(当選同期には田中直紀・熊谷弘・二階俊博・野呂田芳成・衛藤征士郎・金子原二郎・田中秀征・尾身幸次・北川正恭・町村信孝・自見庄三郎・大島理森・野呂昭彦・甘利明など)。期間中、支持者に対して車窓から箱乗りして手を振る姿は有名である。初当選後、自民党の中曽根康弘総裁から追加公認され、自民党に入党した。鈴木の事前公認に反対したのは党総務局長だった小沢一郎で、鈴木はそれを知ると後々まで恨んだというが、現在は和解している。魚住昭の『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社)によると、昭一が立候補していたため、読売新聞グループの渡邉に立候補を断念するよう迫られ、鈴木が断るとマスメディアに大々的に鈴木批判の記事が掲載されたという。また同書によれば、鈴木側は「中川先生は世襲に否定的だった」という大義を下に出馬を決断したとしている。(ただし宗男自身は娘の鈴木貴子に地盤を世襲させている。)中選挙区時代の北海道5区は、定数5に対し日本社会党が(単独推薦を含め)最後まで3人の候補を立て続けた唯一の選挙区(3人当選する場合もあった)であった。社会党は3人に地盤を三分させ、釧路市を地盤にした候補には岡田利春がいた。昭一との遺恨、自ら「中川一郎先生の応援をえて最年少道議として政界デビュー」と語る保守系無所属の武部勤の参戦もあって、毎回自民3候補(鈴木が当選してからは4候補)対社会党3候補の激戦が、日本一面積の広い選挙区(都道府県面積第2位の岩手県よりも広く、四国一島に相当)で繰り広げられた。当選後当初は田中派→竹下派幹部の金丸信を、金丸信の引退後は当選回数の近い衆院議員である野中広務を師と仰ぎ、「野中・鈴木ライン」で政界を叩き上げた。叩き上げの手法の中には、大蔵省への陳情の際に北勝海を同席させたり、リクルート事件で竹下登が辞意を表明した後に後継総裁選定が難航した際に、早くから宇野宗佑が後継であると断言するなど、従来の政治家の常識を超えた行動が目立っていた。1996年の小選挙区制導入で旧5区は11区(十勝支庁)、12区(網走支庁・その後区域変更)、13区(釧路支庁・根室支庁、"現在は「7区」に区域名変更")に分割され、11区は中川、12区は武部の地盤となった。13区は北村直人の地盤だったが、北村は当時の新党ブームに乗り、羽田孜・小沢一郎らと新生党結成〜新進党の結党に参加していた。鈴木は自民党候補者が不在となっていた13区に国替えした。鈴木にとって中選挙区時代から小選挙区移行後の今日でも十勝支庁は地盤として強固であったが、国替えに伴い、それまで縁の薄かった釧路市に家を構えたことに関し、嫌悪感を持った釧路市民も多いと伝えられる。国替え直後の総選挙では、釧路市を大票田とする北海道13区では自民党を離れながらも酪農業を中心に保守層を押さえた北村に敗れ、重複立候補していた比例代表北海道ブロックで復活当選した。選挙区の国替え後、基本的には十勝支庁の土建業者の支持を中心に受けつつ、補助的には自民党代議士が永く不在なため基盤整備の遅れた道東の中心都市・釧路市を含む釧根(釧路支庁・根室支庁)、特にこれまで独自の国会議員を持ったことがない根室支庁では建設業界に支持が根強い。ライバルの北村が酪農家を地盤としたのに対し、鈴木は岡田利春の基盤であった漁業関連へと食い込み、「海関連」で強固な人脈を築いた。1997年9月発足の第2次橋本改造内閣に北海道開発庁長官・沖縄開発庁長官として初入閣。1998年6月には現職閣僚として初めて国後、択捉両島を訪問した。同年7月発足の小渕内閣では閣僚経験者ながら内閣官房副長官に抜擢された。2002年2月4日、NGO出席問題を巡って田中眞紀子外務大臣と対立する形で衆議院議院運営委員長を辞任。9日後の2月13日、国後島の「日本人とロシア人の友好の家」(いわゆるムネオハウス)の建設をめぐる疑惑を発端として、数々の疑惑が浮上。2月20日に参考人招致、3月11日に証人喚問を受けたが明白な答弁は避けた。一切の疑惑に対して曖昧な釈明に終始したことより、社民党の辻元清美議員から「もう、ど忘れ禁止法を適用したい」「あなたはねぇ、疑惑のデパート言われてますけど疑惑の総合商社なんですよ!」と批判を受けた(辻元は7年後の2009年に外務委員会で「(自分が追及した案件については)裁判でもその事実は出ておらず、確証がなかった。そのような言葉遣いをしたことを反省している」と陳謝している)。3月15日、自民党を離党。さらに3か月後の6月19日、やまりん事件のあっせん収賄容疑を理由として衆議院本会議にて逮捕許諾決議が可決され逮捕された。21日、衆議院本会議で議員辞職勧告決議が可決されたが議員辞職はしなかった。7月20日、あっせん収賄罪で起訴。証人喚問において島田建設事件とモザンビーク事件に絡んだ証言が偽証として9月13日に議院証言法違反で、また、政治資金規正法違反の罪でも併せて起訴された。2003年9月、衆議院選挙の直前に保釈(2002年12月と2003年4月に保釈を申請しているが「罪証隠匿の恐れがある」として却下された)。その後衆議院本会議に出席。議員辞職勧告決議がされた国会議員が決議を無視して登院したのは初めてのことであった。同年10月、胃癌を手術。2004年の参議院選挙に北海道選挙区で無所属で出馬するも落選(得票数48万5382票)。2004年11月5日東京地方裁判所での第一審で受託収賄・あっせん収賄・政治資金規正法違反・議院証言法違反の4件で有罪となり「懲役2年の実刑、追徴金1,100万円」の判決が下された。鈴木は一連の事件を全て否定した上で「国策捜査」と批判し即日控訴した。2008年2月26日に東京高等裁判所においても控訴棄却となり、即日最高裁判所に上告した。2005年8月18日、松山千春とともに新党大地を結成し代表に就任。9月の第44回衆議院議員総選挙に北海道ブロックでの比例1位候補として立候補して当選、衆議院議員復帰を果たした(2004年参議院選挙で鈴木の獲得票数から勘定すれば新党大地は北海道比例ブロックでの1議席の確保が見込まれていた。2005年衆院選は自民党による刺客候補が世間を騒がせた選挙であったため、鈴木が逆に刺客として中川昭一の北海道11区や武部勤の北海道12区等の自民党大物議員の選挙区に立候補することも浮上したが、新党大地が公職選挙法上の政党でなかったために鈴木は重複立候補ができず、比例名簿1位記載の比例単独候補となった(新党大地ではなく、自民系反郵政民営化政党であり北海道比例ブロックに候補者を一人も擁立していなかった国民新党であれば政党要件があるため、北海道比例ブロックでの比例1位と選挙区での重複立候補が可能ではあった)。当選後の特別国会での首班指名選挙では小泉純一郎に投票、再提出された郵政民営化法案には反対票を投じた。その当時再び胃癌となり、再手術したと2006年9月19日の『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学』で告白した。2006年9月26日の首班指名選挙では民主党代表の小沢一郎に投票。また10月22日には30分間小沢と会談し統一地方選や参議院議員選挙での協力を約束したが、2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で民主党の支援を受けた新党大地推薦候補が落選したことから民主党との選挙協力を白紙に戻し、自民・民主両党との間で是々非々のスタンスを取ると表明。2008年9月19日、国民新党と統一会派「国民新党・大地・無所属の会」を結成。10月3日に札幌市事務所の会見で、新党大地代表として軸を置いて政党間協議を見ながら最終的に判断するとした上で国民新党や民主党からの重複立候補をした上での小選挙区立候補を示唆する発言をしていた。最終的には第45回衆議院議員総選挙では前回同様新党大地として北海道比例ブロックに立候補、前回同様1議席を獲得し、新党大地代表として2期目の議員生活を送る。2009年9月16日、新党大地が衆議院で民主党の統一会派「民主党・無所属クラブ」に参加する形で与党会派入り、9月17日に衆議院外務委員長に就任。有罪判決を受けて上告中の刑事被告人が与党会派入りして国会の常任委員長に就任するのはきわめて異例である。自民党・公明党・共産党の野党は「一、二審で有罪判決を受けて上告中の刑事被告人なので、委員会を代表して円滑かつ公平な運営にたずさわる役職にふさわしくない」として鈴木宗男の外務委員長就任に反発し、与党の民主党は「推定無罪の原則がある」「直近の民意で当選している」と反論。常任委員長は慣例として全会一致で議長指名として選出されるところ、本件については異例の起立採決で議長指名となり、横路孝弘衆議院議長が鈴木宗男を外務委員長に指名した。この国会人事については民主党が北海道で圧勝した鈴木宗男の影響力を考慮した論功行賞的な人事とする向きもある。鈴木は自身の刑事訴訟と外務委員長就任について2009年11月18日に岩屋毅から質問を受けた際には「司法は司法の判断。立法府は立法府の判断があっていい」と述べた。2009年10月3日、ライバルだった中川昭一が逝去し、記者会見で号泣した。その後、2009年12月4日に鳩山由紀夫首相が首相官邸で元駐日ロシア大使と北方領土問題で会談をした際に同席したり、2010年1月17日に新党大地代表として民主党大会に来賓として招かれた。2010年5月、8年ぶりにロシアを訪問し、11日にモスクワのロシア外交アカデミーで講演、「鳩山首相の時に北方領土問題解決、平和条約締結ができなければ、未来永劫解決できない」と演説した。2010年9月7日、最高裁判所が上告棄却を決定した。鈴木議員側は異議申し立てを行う一方で衆議院外務委員会が9月9日に理事懇談会を開催し、鈴木の外務委員長としての職務を停止し、筆頭理事の小宮山泰子が委員長代行に就任する決定を行った。9月15日に異議申し立てが却下されたため、「懲役2年の実刑、追徴金1100万円」の第一、二審判決が正式に確定した。これにより鈴木は公職選挙法の規定により被選挙権を失ったため、国会法の規定に基づき衆議院議員及び衆議院外務委員長を失職した。なお、第二審で「未決勾留日数220日を算入する」とされたため、刑期はそれを差し引いた期間(約1年5ヶ月)となる。また公職の収賄罪で実刑確定となったため、公職選挙法の規定に基づき刑期満了から5年間は公民権停止となる。判決時の2010年時点では公職の収賄罪の実刑確定は刑期満了から5年間の選挙権停止と10年間の被選挙権停止の規定であるが、この規定は1999年9月2日以降に起こした事件の規定であるのに対し、収賄罪が認定された最後の事件は1998年8月の事件のため、憲法の遡及処罰禁止規定(39条前段)により、法改正前の当時の公民権停止規定である刑期満了からの5年間の公民権停止となった。失職に伴い、既に離党していた比例第二位の八代英太を飛び越え比例3位の浅野貴博が繰り上げ当選。同年12月6日に収監された。収監中は喜連川社会復帰促進センターにて服役していることを、関係者を通じて自らのメッセージを発表する形で明らかにした。2011年12月6日に収監からちょうど1年で仮釈放された。刑期満了は2012年4月、公民権停止満了はさらに5年後の2017年4月となった。2011年12月28日に、新党大地の浅野貴博、元民主党の松木謙公と石川知裕の衆議院議員3名と元民主党の横峯良郎、無所属(会派は民主党・新緑風会所属・元新党日本)の平山誠の参議院議員2名。計5名の国会議員とともに新党大地・真民主(当初の党名は「大地・真民主党」)を結党し、党首に就任した。新党大地代表時代は政党交付金廃止を主張していたが、新党大地・真民主メンバーの多数派の意見として新党大地・真民主は政党交付金を受け取ることを発表し、2012年4月に政党交付金を受け取った。収賄罪、政治資金規正法違反、議院証言法違反(偽証罪)で有罪が確定して公民権を有しない者が党首の政党に政党交付金が支給されるのは極めて異例。2012年12月の第46回衆議院議員総選挙では新党大地代表として政治資金規正法違反で有罪が確定して選挙運動ができない中で選挙戦に臨むことになった。
出典:wikipedia
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