東フランク王国(独:Ostfrankenreich)は、843年のヴェルダン条約によって成立した王国。およそ現在のドイツおよびオーストリアの領域にあたる。ルートヴィヒ1世の死後、息子ルートヴィヒ2世が843年、ヴェルダン条約によりフランク王国東部を継承した。中部フランク王国の後退の際、870年のメルセン条約により西フランク王国との間で国境を定め、メッツやアーヘンを含むロタリンギア(ロレーヌ周辺地方)東部を獲得、さらにルートヴィヒ2世の子ルートヴィヒ3世は880年のリブモント条約によりロタリンギア西部も獲得した。ルートヴィヒ3世の弟カール3世は、881年に西ローマ皇帝として戴冠し、882年に兄ルートヴィヒ3世の死により東フランク王国を統一、884年には西フランク王を兼ねて帝国を再統一したが、887年にはモラヴィア公スヴァトプルク1世やノルマン人の侵入への対応がもとで貴族らの反乱を招いて廃位された。その後再び東フランク王国と西フランク王国は独立の王を頂くことになり、以後「西ローマ帝国(フランク王国)」の統一は永遠に失われることになった。カール3世の跡を継いだ甥アルヌルフは891年のルーヴァンの戦いでノルマン人を撃退し、896年に西ローマ皇帝として戴冠した。911年、ルートヴィヒ4世の死により東フランク王国におけるカロリング朝は断絶した。すでに919年には東フランク王国の王権はフランク族の手を離れたため、単に「王国」と呼ばれるようになり、その王も単に「王」とのみ呼ばるようになった。962年にオットー1世がローマ皇帝ともなるが、この時点では「王国」と「帝国」との関係は不明瞭であった。「王国」は、やがて11世紀以降の叙任権闘争の中でドイツ王国と呼ばれるようになり、神聖ローマ帝国を構成する3王国(ドイツ王国、ブルグント王国およびイタリア王国)の1つとして位置づけられることとなる。
出典:wikipedia
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