芸予諸島(げいよしょとう)は、日本の瀬戸内海西部に位置する諸島。広島県と愛媛県に属しているため、両県の旧国名である安芸国と伊予国から一文字ずつ取ってこう呼ばれている。芸予諸島は広島県本土(本州)と愛媛県本土(四国)の間に位置する。広島県(旧備後国を含む)呉市から東の島すべてと、愛媛県旧越智郡島嶼部および若干の付属島嶼、大小数百の島から成る。目安としては、東端が広島県福山市鞆の浦と愛媛県今治市を結ぶ線、西端が能美島・倉橋島までで狭義においては広島湾内は含まない。西に防予諸島、東に笠岡諸島がある。かつては下蒲刈島から大崎上島・大三島の周辺のみの狭いエリアを芸予諸島と呼ぶことがあった。また、芸備群島の一部と備後群島・走島群島は厳密に言えば旧備後国に属しており、かつてはこれを含めない場合があった。平成の大合併の結果、芸予諸島の島々からなる市町村の多くは、本州・四国本土を中心とする広島県呉市・尾道市、愛媛県今治市などに組み込まれた。現在、芸予諸島に市役所・町役所・村役所を置く自治体には江田島市・大崎上島町・上島町がある。芸予諸島をより細かく分ける場合、西側から安芸群島(江田島周辺のみ)・蒲刈群島・下大崎群島・上大崎群島・関前諸島・来島群島・越智諸島・芸備群島・上島諸島・備後群島・走島群島とする。有人島は約50島、人口は合計約17万人。能美島・因島・向島・倉橋島の広島県4島の人口が比較的大きく、いずれも1万人を超えている。他5000人を超えている島として、広島県大崎上島・生口島、愛媛県大島・伯方島・大三島の5島がある。2010年の国勢調査によれば向島(尾道市市街)・因島に人口集中地区が存在している。殆どの島で本土より早いペースで過疎化・高齢化が進行している。芸予諸島に非常に多くの島が密集していることで、芸備地方の歴史の在り方に種々の影響を及ぼしてきた。 瀬戸内海は地形の複雑さと干満の差の激しさが流れの速い潮を生み出した。大正時代の物理学者・文学者である寺田寅彦は、「広い灘と灘を連絡する海峡の両側の海面の高さが時刻によって著しく違うところが出来ます。そうすると水面の高い方から低い方へ海の水が盛んに流れ込むので強い潮の流れができます」(『寺田寅彦全集 第六巻』、岩波書店、1997年)と記した。なかでも、四国と大島とに挟まれた来島海峡はちょうど瀬戸内海の中心に位置し海峡幅も広いため現在では国際航路として様々な船が航行しているが、古くは「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」と唄われるように潮の流れが速く瀬戸内海有数の難所であった。こうした地形を巧みな操船技術を持つ者が支配権を握るようになる。元々陸地として繋がっていたものを、航路として用いるため開削したところも存在する。例えば、呉市本土と倉橋島の海峡である音戸の瀬戸には日宋貿易の航路として用いるため平清盛が沈む夕日を扇で招いて1日で開削したとの伝承「日招き伝説」が残る(実際に掘削したかは不明)。地形的特徴としては、どの島も平野部が狭く急峻な山あるいは丘陵地で占められている。芸予諸島最高峰は生口島の観音山で標高472.3m 。気候は瀬戸内海式気候である。丘陵地で温暖な気候を活かした農業が展開されている。植生で特徴的なのは、ほぼ広葉樹による代償植生で占められている点である。これはこの地で古くから製塩業が盛んで、製塩の際に熱源を必要としたことから燃料用に大量に木々が伐採されたことによりはげ山となり、そこで繁殖力旺盛なアカマツが植えられていったことによる。イノシシが生息しており、海を泳いで島から島へ渡る様子が住民たちによって度々目撃されている。芸予諸島では、ドングリが少なく田畑が休む冬場でも、柑橘類が豊富でイノシシが餌に困ることがない。近年では皮を剥いて食べた痕跡も発見されている半無人島の上島町赤穂根島では、タヌキ・ハツカネズミなどの哺乳類、イシガメ・クサガメ・ニホンヤモリ・ニホントカゲなどの爬虫類、モツゴ・ドジョウ・メダカなどの淡水魚などが調査によって見つかっている。このうち、ドジョウは愛媛県で準絶滅危惧種となっているが、水田の整備が進んでいないため赤穂根島では豊富に生息している。またモツゴは人の手によって導入された。芸予諸島の島々は平野部が狭く、温暖小雨であることから古くから製塩が盛んであった。古くは小型の土器に海水・海藻を入れ煮沸させて製塩しており、芸予諸島近辺では椋の原清水遺跡(松山市)から出土した3世紀末弥生時代中期末の製塩土器が最古のものになる。製法が発明あるいは伝達したルートは不明であり、一説では岡山県児島地域から山陽側を伝わり芸予諸島の島々に広がっていったとしている。これが古墳時代後期の製塩土器となると出土例が格段に増えることになる。これはヤマト王権が成立した時期に重なり、つまり近畿地方で人口が増えたことから瀬戸内海に塩を求めたと考えられている。中世の荘園時代でも塩の生産が盛んで、室町時代には「備後」という名称で年9万石余が畿内に送られていた。『万葉集』では「朝凪に玉藻刈りつつ夕凪に藻塩焼きつつ…」と詠まれている。応安4年(1371年)今川貞世(了俊)の紀行文『道ゆきぶり』には向島を見て「しほやどもかすかにて、やきたつるけぶりのすえ物あはれなり。此島にしほやくたびに、一日二日のほどに必ず雨のふり待るといひならはしなり。(沿岸部で盛んだった製塩業では塩を焼くときの煙で雨を呼んでいた。)」と書かれている。塩作りのピークは近世から近代にかけての事になる。江戸時代中期、西廻り航路(後述)が確立すると塩が大量に扱われ、瀬戸内海一帯は一大塩田地帯となった。商人たちによって島嶼沿岸部が塩田として整備され「浜旦那」と呼ばれた地主・経営者が誕生した。また本州・四国側においては、竹原塩田(広島藩)・松永塩田(備後福山藩)・多喜浜塩田(西条藩)・波止浜塩田(伊予松山藩)が藩主導で整備され藩財政を潤し、近代に入ると専売制となり国が管理した。その伝統を受け継いで現在も残るのが「伯方の塩」である。芸予諸島のほぼ中央である大三島には、大山積神を祭神とする一の宮大山祇神社が鎮座する。島は古くは「御島」と言われていた。神社は宝亀9年(778年)光仁天皇が勧請したものとされ、水の神・山の神・海の神として、そこから航海の神・戦いの神・農耕の神・漁業の神・酒造の神などとして、歴代の朝廷や芸予諸島周辺の信仰の対象であった。大宮司は代々越智氏、そして越智氏を出自とする大祝氏が務めた。彼らが後に三島水軍となる。そして越智氏を出自として河野氏が生まれ河野水軍が編成され、瀬戸内海の広い範囲を支配した。平安時代末期の源平合戦で源氏方に呼応し、壇ノ浦の戦いでは150艘もの水軍を編成し勝利に導いた。鎌倉時代の元寇の役では河野通有が水軍勢として活躍した。大山祇神社の社宝として剣・甲冑・弓箭具などの武器武具類の多いのは、神社を氏神とした河野氏が奉納したことによる。後述の村上水軍(海賊)も形式上は河野氏配下になる。大山祇神社領は三島領七島と呼ばれ、室町時代前期時点で生奈島(現在の生名島)・岩城島・大三島・大下島・岡村島・御手洗島(あるいは下島・現在の大崎下島)・豊島で構成されていた。つまり現在の広島県側である大崎下島・豊島・斎島は、中世においては伊予国側であった。律令国家は陸路を重視し、大宰府から都につながる大宰府道・山陽道を交通の中心としたが、平安時代以降は、平安京で消費される米・塩など重量の重い物資を輸送力の高い海運に頼るようになり、波が穏やかで大きな潮汐差を船の推進力に利用できる瀬戸内海には多くの輸送船が往来するようになった。経済的な価値を高めた芸予諸島は、畿内の貴族・大寺社などによって荘園化が進められた。国司や荘園領主は徴税を強化することで、製塩や海産物資源を獲得し、住民の移動・流浪を抑えて定住化を図った。これに反発する海運従事者や異郷に流浪する人々などは各地で紛争を引き起こし、海賊を生む状況を作り出した。当時の海賊衆の様子がわかるものの一つに、室町時代に朝鮮使節として来日した宋希璟の『老松堂日本行録』(1420年)がある。そこには、京都への往路、「鎌刈三の瀬」を通過する際の記事として、「かつてここで朝鮮使が海賊に遭遇し、船中の礼物や食糧・衣服などを全部掠奪されたが使者以下は害を免れたこと、そこは室町幕府将軍の威光の届かない場所であるが、東より西に向かう船は東の海賊を一人乗せれば西の海賊が害を及ぼさず、西より東に向かう船は西の海賊を乗せれば東の海賊が害を及ぼさないことになっているので、七貫文出して東の海賊を乗せてきたこと」などを記している。このことから海賊衆が瀬戸内海各地に関所を設定して船舶から関銭を徴収したり、船舶に乗船して水先案内や警護の見返りに金銭を受け取っていたことが分かる。こうした海賊は時代が下ると組織だって行動し始め、水軍となっていった。そして戦国大名は彼らと対立、あるいは”警固衆”として味方に引き入れようと画策していった。芸予諸島の海賊衆の中で最も有名なのが村上水軍(村上海賊)である。南北朝時代に南朝方として活躍した村上義弘が祖と伝えられ、この時代に東寺弓削島荘の近海で活動を行っていたことが確認されている。彼らは形式上は河野氏配下であったが独自路線を歩み、芸予諸島において西瀬戸内海の海上交通・海上運輸における「独自の秩序」を作り上げ、瀬戸内海航路を縦横に遮る連繋をとることで活動を行っていたと考えられている。伝承によればもともと同一の家から次の3つの一族に分立した。宣教師ルイス・フロイスは、村上水軍を“日本最大の海賊”と評した。また南北朝時代、北朝方として備後沼田(三原市)を拠点とした小早川氏が南下してくる。勢力を拡大した小早川氏はそれぞれの島で警固衆(小早川水軍)を編成すると、室町時代に前述の"備後"と呼ばれた塩の取引に絡んでいる。その庶家の一つ生口氏の拠点である瀬戸田(生口島)から出る"生口船"は室町幕府保護のもとで備後を運び、その取引量は文安2年(1445年)兵庫湊(神戸港)海関の通行記録である『兵庫北関入船納帳』で瀬戸内海有数のものであったことがわかっている。室町時代前期に伊予国であった大崎下島・豊島は室町後半ごろに小早川氏が掌握、ここから安芸国に属するようになった。彼ら小早川一門はのちに安芸の戦国大名・毛利元就の傘下に入ることになる。そして、西側から周防守護大内氏が進出してくる。南北朝時代に倉橋島や蒲刈群島に移り住んだ多賀谷氏(倉橋多賀谷氏・蒲刈多賀谷氏)が戦国時代中期には大内氏警固衆として活躍している。この芸予諸島を掌握しようとした大内氏と土着の警固衆・海賊衆とが対立していくのである。1551年、大内義隆に仕えていた陶晴賢は主君を倒し、瀬戸内海上の交通・運輸ルートを掌握した。晴賢は海賊衆の秩序に介入し、海賊衆らの警固料徴収を禁止し、商人からの礼銭を独占しようとした。村上水軍はこれに反発し、晴賢と元就が衝突した1555年の厳島合戦では、小早川氏を介して元就に味方した。村上水軍を味方につけた元就は厳島で4000人余の軍勢を率い、2万人の陶軍を破って瀬戸内海の交易路を掌握した。これ以降、毛利氏は中国地方の覇権を握ることになる。ただ、彼ら海賊衆は天正16年(1588年)豊臣秀吉の海賊停止令により、事実上解体されることになる。この中で「伊郡喜島(斎島)では海賊行為を禁止したにもかかわらず、まだ出没している」と名指しされており、伝承によると当時の島民は秀吉により虐殺されたという。近世に入ると瀬戸内海一体では木綿帆が普及しており、水主の労働力の省力化と高速化を可能にする帆走専用の弁財船が発達し、ある程度の横風や逆風のなかでも帆走が可能になった。特に古くから造船業で栄えていた広島藩倉橋島では「終日丁々戞々の音」絶えないほど盛んに船が造られ、全国各地から注文が殺到したといわれる。江戸幕府は各地に海駅(海路における公認宿場)を置き、芸予諸島内では三之瀬(下蒲刈島)と鞆の浦が整備された。江戸時代の1605年以後、将軍代替わりを慶賀して朝鮮王朝から朝鮮通信使が1811年まで計12回来日した。通信使は瀬戸内海を通り、芸予諸島で接待を受けた。特に三之瀬は評判がよく、通信使一行から「安芸蒲刈御馳走一番」と絶賛された。また、鞆の浦からながめた瀬戸内海の風景は「日東第一形勝」(日本一の景勝)と賞賛された。17世紀後半寛文期頃、河村瑞賢によって東廻り航路・西廻り航路が整備され、東北地方・北陸地方の米穀などを江戸に運輸送する海上ルートが発達した。すでに西日本各地を水運でつないでいた瀬戸内海は、西廻り航路の整備によって、「天下の台所」大坂と、蝦夷地、東北・北陸・山陰地方を結ぶ物資輸送の大動脈となった。これによって島伝いに沖合を航行する「沖乗り」が発達し、御手洗・木江(大崎上島)・鼻栗(大三島)・岩城・弓削など瀬戸内中央部の港町は成長を遂げた。芸予諸島には「風待ち」「潮待ち」の船が入港した。御手洗では船宿・商家・倉庫、船の発着場の雁木や船番所などもできて港町としての整備がはかられ、当初は、薪・水・燃料供給が中心であったが、18世紀以降は北国米を中心とする廻船間の仲介・中継的問屋商業も盛んになった。江戸時代後期、藩の影響力を超えて芸予の地域交流が盛んになり、安芸の忠海からは塩・綿実・煙草・菰俵・苧などの特産品が多く輸出され、伊予廻船を通じて伊予から干鰯(肥料)・炭・蝋・紙などが輸入された。この頃の芸予諸島は物流の発展により、全国的にみても貨幣経済の浸透度が高かったとされる。下見吉十郎によってサツマイモ栽培が導入されたのもこの頃である。こうした繁栄は、明治時代以降機帆船の登場により風待ち潮待ちは必要がなくなり、そして鉄道の登場により物流も変わったため、港の存在意義はなくなり衰えていった。その様子は「まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われるほどであった。ただ、機帆船にとっても来島海峡は航行困難な海峡であった。航行速度の遅い船はそこを避けるように北側を大きく迂回する航路、大三島と大崎上島の間-三原沖-向島と因島の間を通る”三原瀬戸航路”が活用されるようになる。そして航行困難な来島海峡と、航行は比較的容易ではあるが狭い航路幅に多くの船が航行した三原瀬戸航路では、船のトラブルが多発したためその周辺で近代的な造船所が出来ていくのである。丘陵地を活かし、さらに温暖な機構を活かして近代から取り組まれてたのが柑橘栽培である。愛媛では江戸時代終わりからミカンの栽培が始まり、現在では日本有数の産地となった。近代のみ栄えた農業の一つに除虫菊(シロバナムシヨケギク)栽培が挙げられる。外来種の除虫菊が日本に導入されたのが明治初期上山英一郎によって導入された。大正になって普及が進み、第一次世界大戦によって輸入殺虫剤が途絶えると除虫菊の需要は高まった。ただ戦後になるとピレトリンが化学合成されるようになったため作付は激減した。近代、芸予諸島では大勢の移民を輩出した。平野部がほぼ塩田で耕地地が少なくその面積に対して農業人口が多かったこと、また江戸時代から出稼ぎが多かったことも一因として挙げられる。例えば、内海(福山市)の田島・横島の漁民は江戸時代から西海捕鯨に従事し、近代以降は漁業移民としてマニラ湾へ進出したという。そして明治29年(1896年)船舶職員法改正により、それまでの廻船船頭は近代船の船長として認められなくなったことから専門知識を学ぶ商船学校が設立されることになり、これが現在弓削商船高等専門学校や広島商船高等専門学校などとして存続している。一方で女性の仕事としてはおちょろ舟があった。これは港に停泊する船に対して陸側から小舟で春を売りに行く遊女舟で、船員に対して夜の世話だけでなく家事などの身の回りの世話もしていた。近世において沖乗りの港として大きく栄えた大崎下島の御手洗や、近代に石炭輸送の中継基地として栄えた大崎上島の木江が有名で、井伏鱒二『人と人影』など近代小説・紀行文などにも登場する。売春防止法以降廃止されているが、現在でも遊郭跡など当時のものが残っている。特に御手洗では、彼女たちを敬い大切に扱った痕跡が残っている。芸予諸島の市町村でも平成の大合併にともなって廃置分合が行われた。能美島や大崎上島では、島内の自治体で合併が行われ、江田島市と大崎上島町が誕生した。一方、芸予諸島に市町村役場を置いていた自治体の多くは、呉市や今治市など、本州・四国本土に市役所を置く自治体と合併した。平成の大合併の当初、因島市の市長・村上和弘は、芸予諸島の中核都市「しまなみ市」(仮称)を模索しながら段階的に合併を進めて行く方針だった。まず、島同士ということから因島市の経済圏である愛媛県の上島4町村との広域行政を試みた。次に生口島などから成る瀬戸田町に対等の新設合併方式を申し入れた。しかし、瀬戸田町側は因島市と確執を抱えており、三原市との合併を模索した。しかし、町議会で反対が1票差で上回り、合併交渉は中断された。その後、住民投票の結果を受けて瀬戸田町と因島市の間で協議が行われたが、瀬戸田町議会の決議によって立ち消えになった。合併相手のいなくなった因島市と瀬戸田町に対して、尾道市が合併を持ち掛けた。財政難の両市町は尾道市の提案を受け入れ、それぞれ合併協議に入った。尾道市側としては、合併特例債がなければ因島市と瀬戸田町が財政再建団体に転落しかねず、広域行政の中核を担う自治体として看過できなかったとされる。一方で、因島の市民・経済界の間では、海事事務所(国の出先機関)移転など、合併によるデメリットに反発する声も聞かれた。主な産業は造船・観光・柑橘類栽培である。愛媛県であっても広島県への依存度は強く、全域が中国電力の電力送電網に属しており、中国新聞が購読できる。特に上島町は自動車で四国側に直接渡る手段がなく、一旦フェリーで広島県側に出て再度愛媛県に入る必要があるほか、水道水・医療・防災事業なども一部広島県に依存している。古くから造船で栄えていた芸予諸島では、明治時代以降も日本造船業の一大拠点であった。造船業は波が激しく、戦争による特需とその反動が繰り返されていた。しかし、オイルショックが起きた1970年代以降は「構造的不況」によって造船業が衰退し、造船によって成り立っていた因島では不況により「島が沈む」とまで言われた。2000年代には、中国の経済成長によって造船の発注が増え、特需を迎えた。芸予諸島に造船所を置く主な企業蜜柑をはじめ、柑橘類の栽培が盛ん。急峻な山の頂上まで段々畑を築き、無人島に出向いて蜜柑畑を作る出作も行われている。ハッサクは、幕末に因島田熊町(旧因島市)の浄土寺で原木が発見された。生口島と大崎下島では国産レモンの栽培が盛んで、この2島だけで国内生産量のの50%以上を占めている。芸予諸島の近海は「日本のエーゲ海」とも呼ばれ、多島からなる景観が高く評価されている。また、新鮮な魚や柑橘、郷土料理など、多くの観光資源を有している愛媛県今治市の旧伯方町の島々では海運業が盛んであり、昔から地元造船所が船主に対して建造代金の分割払いを認める「愛媛方式」という商慣行によって、零細事業者が何隻もの船を持つ独特の経営が根付いているかつては本州・四国とその間の島々を結ぶ多数の旅客船・フェリー航路が存在したが、過疎化・人口減少、架橋による陸路シフトの影響もあり、航路休廃止・減便等が続いている。主なフェリー会社広島県側は県の積極的な架橋により、大崎上島を除く大型の島は離島指定が解除されている。一方、愛媛県はしまなみ海道を除けば架橋が進んでいない。上島町や大下島などの離島が存在するほか、岡村島は四国ではなく本州に接続されている。小さな島が密集していることから架橋が盛んな地域であり、本州と四国をつなぐ瀬戸内しまなみ海道が向島-因島-生口島-大三島-伯方島-見近島-大島-馬島を通る形で建設されている。また、下蒲刈島-上蒲刈島-豊島-大崎下島-平羅島-中ノ島(以上広島県)-岡村島(愛媛県)までは、安芸灘諸島連絡架橋の一部として愛称・安芸灘とびしま海道で連結している(全体構想としては大崎上島までのルート)。江田島・倉橋島なども本州と橋で繋がっている。契島では、東邦亜鉛によって銀・銅・鉛が生成されている。特に鉛は日本全体の90%を生産しており、その大部分が自動車のバッテリーに使われる江戸時代における朝鮮王国(朝鮮通信使)との交流によって、芸予諸島の人々は日本文化の独自性を認識するようになったとされる。また、経済的豊かさや上方文化をはじめ各地との交流によって芸予諸島の町人・民衆文化が隆盛した。『日本外史』を著した頼山陽は晩年に京都の自邸書斎を「山紫水明処」と名付けた。この「山紫水明」(山影は青紫に沈み、海面は乳白色に光り、刻一刻暮色を深める風景)は、瀬戸内海の素晴らしい景観を伝える表現と言われている。広島・愛媛県境がある瓢箪島はNHKの人形劇『ひょっこりひょうたん島』(1964年放送開始)のモデルとする見方もある「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」として2016年4月25日に日本遺産の第2期の19箇所の一つに認定された。全42項目のうち、今治市本土(7箇所)と尾道市本土(3箇所)と以下の島々の中の30箇所に対象がある。なお生口島(生口氏)や瓢箪島と村上氏とは直接関係ないものも含まれている。櫂伝馬船とは、一般には櫂で漕ぐ伝馬船のことで、特に船神事での神輿渡御において御座船を曳航する船(タグボート)のことを言う。ルーツは中世における水軍が用いた「小早」と呼ばれた行き足の早い船にあるという。芸予諸島に点在する厳島神社分社あるいは住吉神社分社では、櫂伝馬を用いた例祭が行われていた。それが長じて地区ごとで櫂伝馬を走らせ競争する祭事、そして観光用の祭りとして発展した。ただ高齢化により漕ぎ手が不足したことから姿を消しているものもある。以下、櫂伝馬の祭りを列挙する。
出典:wikipedia
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